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6.傷ついた、心の痛みを思い知れ

「……なんだって?」


『桐生さん』という名前に真っ先に反応したのは、当時の営業部長を焚きつけて彼女の仕事を奪った張本人、笹野。

 彼は眉根を寄せてまじまじと資料を読み始め、そこここに散りばめられたさりげない気遣いと、それとは裏腹に極力無駄を省いて読みやすさを心がけた文章に気づくと、確かにと小さく……だが忌々しげに呟いた。

 そしてその視線を、アッシュと黒崎へと戻す。


「この資料は誰が?」

「つい最近我が社で採用した新人秘書だが?()がどうかしたかい?」

「彼?……そうか、男性か。いえ、失礼しました。以前我が社に所属していた者の癖に似ていたもので」

「というわけだ、薔子。こんな癖を持つヤツくらい、どこにでもいるってことだな。しかも新人レベルでもできることらしいんだ、たいしたことじゃねぇってことさ」

「……そう、だね。うん、わかった」


 正に茫然自失という状態だった薔子も、その資料に香澄が関わっていないとわかったら気が楽になったのか、西園寺の慰めに安堵の表情を見せる。


「君達、ここがまだシュナイダー社の中だと理解しているのか?そういう個人レベルの会話はせめて社を出てからにしてくれたまえ」


 アッシュの言葉は正論だった。

 さすがにマズいと感じたのだろう、薔子はすみませんと謝り、西園寺も苦虫を何匹も噛み潰したような顔で黙り込む。



(さて、そろそろお帰りいただくとしますか。とその前に……きっちり仕返しはさせていただきますが)


 西園寺は先ほど、この二人……特にアッシュにとっては最大の失言をやらかしてしまった。

 彼はまだ余裕のある表情でどっしりと構えてはいるが、内心そろそろいいだろうかと爪を研いでいるに違いない。

 彼が本気でキレてしまえばきっと、止まらなくなる。

 だからその前に、と黒崎は努めて冷静に言葉を発した。


「……たいしたことじゃない、ですか。西園寺グループの専務取締役にまで上り詰め、今はそこから独立起業した会社の社長まで務められている若きカリスマ……そんな貴方がそう言われるならそうなんでしょう。が、そのたいしたことじゃない技能ですが、今回のプレゼン資料にも同じ癖がいくつも見出せるのは何故でしょう?」

「そんなの、偶然に決まってるでしょう?なんせ、そっちの新人秘書が作った資料にも同じ癖が見られたんですからね」

「そうでしたね。ですがおかしいですね?確かにこの資料はボスの秘書が作ったものですが、彼は生粋のゲルマン民族でして日本の言い回しに慣れていないのですよ。ですので今回は特別に、うちの最重要顧客おとくいさまの社員に手直しをお願いしたんです。勿論、先方の社長には了承をいただいてありますので、そちら様には関係のないお話ですが」


 黒崎の回りくどい嫌味を要約すると、こうなる。


『資料に同じ癖が出たのは、同じ人物が手がけたからだ。それをたいしたことがないとか言いながら、同じ人物が手がけた資料を手直しした程度で持ち込むなんてアホだろお前ら。このことで文句つける隙なんて、うちにはねぇんだよ』



 耳が痛いほどの沈黙が、場を支配する。

 シュナイダー側は言いたいことを言い切って反応待ちの状態であるし、西園寺側は先手を打って反論を防いだ黒崎の言葉によって、香澄のことに関する質問や批判を封じられてしまっている。

 アッシュが前もって香澄のことを言わなかった、という矛盾点も黒崎が『先方の社長に許可を取ってある。つまりこれは我が社と取引先の問題だから言う必要などなかった』のだと遠回しに告げているため、それに対するツッコミも入れられない。


「…………うちは『素晴らしいデモンストレーションを見せてもらったこと』そちらは『横入りはマナー違反だと学んだこと』をそれぞれ益と考えて、これで仕舞いにしようではないか。不毛な探りあいをする時間ももったいない、全くもってエコではないからな」

「横入りはマナー違反だと?ハッ、なに甘いことぬかしてやがる。この世界は実力が全てだ、実力があってそこに機会が伴えばいくらでものし上がれる。その絶好の機会を『気遣い』やら『マナー』で逃すなんざ、阿呆のやることだ。所詮、シュナイダーもその程度の考えだったってことだな。興ざめだぜ」


 この辺にしておこう、とせっかくアッシュが双方手打ちという形で終わらせようとしたところ、社交の場は終わったと判断した西園寺が素を剥き出しにして食って掛かった。


「大体、また桐生か……どこにいても目障りなヤツだ。褒められたら自分を誇ればいい、実力があるなら高みを目指せばいい、なのにあいつはそれをしないただの臆病者だ。あいつに何を吹き込まれたのかはわからねぇが、それに踊らされて公私混同してりゃ世話ねぇな」

「恭一っ」

「後でじっくり慰めてやる、だから今は黙ってろ薔子」

「彼女は……桐生さんはそんなこと、する子じゃ」

「桐生桐生ってうるせぇよ。……俺のことしか考えられねぇようにしてやろうか?」


 ついっと伸ばした指先で薔子の頬をなぞる西園寺。

 その視線と指先から逃れるように顔をそむけた薔子は、しかしそれ以上『桐生さん』とは口に出さずに再び黙り込む。



「…………彼女は何より公私混同を嫌う。そんな彼女をよりにもよって公私混同と罵るとは許しがたい。こうなっては仕方がないな。言葉が通じる通じないはこの際関係ない、言いたいことを言わせてもらおう」


 とうとう、アッシュがキレた。

 彼はそのブルーの瞳に激しい怒りを滲ませ、先ほどまでの余裕のある態度はどこへやら、すっかりシュナイダーの若き指導者の顔になって『ロージア』側5人を真正面から睨みつけた。


(持ちませんでしたか……いえ、ここまでよく持った方だと言えばいいのか)


 大事なものを傷つけられれば、いかに気の優しい草食動物であっても牙を剥く。

 アッシュの場合は、草食に見せかけてはいるがキレれば容赦なく相手に襲い掛かる、よく調教された猛獣のようなものだ。

 彼を戒める鎖が緩んでしまえば、もう止められるものはいなくなる。


「カスミ・キリュウは私の妹の親友でね、うちの4歳の息子も彼女を殊更気に入っているらしい。たびたび息子の遊び相手としてつき合わせてしまっている負い目もあるが、何より妹の気に入りようが半端なくてね。なので先方の会社に出向けば挨拶はするし、雑談もする。彼女の資料作成の丁寧さが気に入っていることもあって、あちらの社長に頼み込んで手を貸してもらうこともある。だから自分たちの価値観でしか相手を見られない君達よりも余程、彼女のことは知っているつもりだ。そして……君達が彼女に何をしたのか、そのことも。だがそれは彼女に聞いたからじゃない」


 そこで一度言葉を切って、彼は5人の反応を待ってみた。

 だが思っていたような反応がなかったことで、彼はわざとらしくため息をついて言葉を継ぐ。


「君達は知らないのか?自分達がどうして、プロジェクトチームという名の檻に囚われてしまったのか。カスミだけじゃない、君たちの周囲にいたほかの社員がどれだけ我慢を強いられてきたのか」

「…………どういう意味だ?その言い方ではまるで我々が他の社員を虐げてきたように聞こえるが」

「何も恥じることはない、という顔だな。……おや、そちらの二人は顔色が悪いようだが……心当たりでも?」

「……あるわけねぇだろ」


 と、西園寺はかろうじてかすれた声でそう答えたが、山崎は答えられない。

 そんな様子を心配した薔子の視線を受けても、彼は視線を俯かせたまま沈黙を貫いた。




「黒崎、準備を」

「はい」


 先ほどまで美麗なムービーの流されていたプロジェクターを使って、黒崎はあらかじめ用意しておいたデーターを起動させた。

 再び薄暗くなった室内に、今度はクラシック風の曲ではなく生温い……淫猥な息遣いと水音が響く。

 そこでようやく『何』のことを言われているのかわかった残りの3人も顔色を変えたが、残念ながら暗い室内では相手方に気づかれなかったようで、場面を何度か変えながらそのAVめいた動画はまだまだ続く。


「やめろ下種がっ!!」


 ガタン、と西園寺が勢い良く立ち上がり、プロジェクターをがつんと床に落として壊してしまう。

 当然、本体が壊れたため映像はそこで切れ、室内はまた不自然なくらいの沈黙に支配された。


 が、今度はそこで手打ちにはならない。

 アッシュは「下種?」と冷ややかな声で問いかけ、その返事も待たぬまま冷笑を浮かべた。


「この動画を撮影したのは君達が所属していた会社の社員だそうだぞ?しかもこれだけじゃない、複数のアカウントからこれ以外の不適切行為の動画も上がっている」

「どうしてそんなもんがここにある!?あれはうちのサイバー対策担当に全部消させたはずだ!」

「西園寺っ!」


 山崎が慌てて叫んでももう遅い、西園寺はその種の動画があることを知っていたんだと暴露してしまった。

 そして、芋蔓式に止めようとした山崎も。

 知らなかった他の3人、特に当事者である薔子のショックは計り知れない。

 ここが他所の会社でなければ、今頃この中の誰かが彼女を別室に連れ込んで慰めにあたっているだろう。

 勿論、そんなことを許すシュナイダーではないが。


「どうしてあるのか、という問いには答えられないが……いいかい?データというのはアップしたから元が消えるというわけでもないだろう。消されれば、もう一度アップすればいい。そういった行為を繰り返すことで、彼らはきっと己の憂さを晴らしているんだろうな。下種と言うならその撮影をした者達……いや、そういった撮影をして密かに鬱憤を晴らすしかできないまでに追い込んだ、君達こそそう呼ばれるべきだろう?何しろ君達は揃いも揃って社内の実力者だ、こうした不適切行為を社内で堂々と行われても、それに文句を言える社員などいなかっただろうからな。……公私混同?それを君達が言える立場だと?」

()()()()に誰と何をしようと、個人の勝手や。とやかく言われる筋合いないわ」

「……なるほど。君たちのいた会社では、随分と自由に休憩が取れるようになっているのだな。時間帯もバラバラ、費やす時間もある程度長時間であるというのに、寛容なことだ。更に、休憩時間であれば他の勤務中の社員の迷惑になっても構わないという。……これは今一度、役所に確認すべきかもしれないな。社内での休憩時間の使い方について、本当に『何をしようと個人の自由』であるのか、とね」


 上手く切り返したつもりでいた滑川は、このささやかな反撃にぎりっと拳を握り締めた。

 アッシュは一矢報いることができたか、と息をついて本気モードを解除する。

 本当ならもっと追撃してやりたいところだが、そこまでするとやりすぎになってしまいかねないからだ。



 不自然な沈黙が戻ってきた室内に、内線電話が鳴り響く。

 それに対応した黒崎が、はい、はい、と相槌をうちながら突然電話のスピーカーをオンにした。

 スピーカーから流れてくるのは、恐らく先ほどまでここに並んでいたドイツ人幹部達のうちの誰かの声だろう、流暢なドイツ語で何事か早口で述べている。


 その意味がわかったのは、ドイツ語に堪能な薔子と西園寺のみ。

 他の3人はじりじりとした表情で、彼らが訳してくれるのを待っている。


 電話の声は、しばらくすると別の声に代わりまた何事か語っては次の者に代わる、ということを何度か繰り返した。

 どうやら先ほどの幹部が何かを伝えたくなってかけてきたのだろう、ということくらいしか3人にはわからないが、薔子は先ほどより顔色が更に悪く、西園寺もイライラしたように指先でトントンとテーブルを叩いている。

 そしてようやく電話が終わると、彼は「ふざけやがって」と声を荒げた。


「俺達は仕事の提案でここへ来た。なにも俺達自身を評価してもらいに来たわけじゃねぇんだよ。なにが、『家庭を大事にできない者は人としても信用できない』だよ。なにが『人としての行いが実績を貶めている』だよ。ふざけんのも大概にしやがれ。あいつらが俺達の何を知ってるってんだ。あんな下種の動画くらいで知った気になって評価されたんじゃ、たまったもんじゃねぇ」


 そう、彼らドイツ本社の上層部はこの部屋を出てはいったが、室内の様子は別室でモニタリングしていたのだ。

 そして、話のケリがついたところで総評と称して内線をかけ、彼らが協議した結果をああやって伝えてきたのだが、その内容に西園寺はご立腹のようだ。


 が、彼は己の矛盾に気づかないのだろうか?

『家庭を大事にしない』という言葉が、あの動画を見ただけで本当に出てくるだろうか?

『実績』という言葉が、即ち彼らのこれまでの業績やなにかを調査した結果なのだと、どうしてわからないのだろうか?


『株式会社ロージア』という真新しい企業が横槍を入れてきたことで、その企業について調査するのはむしろ当然のことだろう。

 そしてその結果として例の動画や、山崎の婚約破棄騒動、アジアの僻地に左遷されたパワハラ総務部長のことや、彼らの家庭環境などを知った上で、今回のプレゼンの総評にそれらを加えたのだ。

 上層部の総評を纏めるとこうなる。


「彼らの提案してきたデモムービーは本当に素晴らしかった。資料も文句の付け所はない。だが人として信用できない者と提携関係を結ぶことはできない」




 黒崎は立ち上がり、蛍光灯のスイッチと並んで密かに自己主張している謎のスイッチをぽちりと押した。

 リリン、と場違いなほどに澄んだ鈴の音が扉の向こうで小さく響く。


「失礼します。お呼びでしょうか?」


 扉を開けて入ってきた屈強な体つきの、いかにも何か格闘技やってましたと言わんばかりの男に、黒崎は「お客様のお帰りです」とにこやかにそう告げた。

 そしてその、いつも通りの柔らかな笑みを5人へと向ける。


「本日はどうもお疲れ様でした。お帰りはあちらです、どうぞ足元にお気をつけて。……そうそう、先ほど壊してくださったプロジェクターにつきましては、後日請求書を送らせていただきますので悪しからずご了承ください」




あまり思い知ってません……。

ひとまず『ロージア(笑)』ざまぁ、これにて終了。


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