4.新天地、甘い笑顔にご用心
(んー……やっぱり資格とか持ってないと条件厳しいなぁ)
自分の置き土産が原因で大改革が始まったことなど知る由もなく、香澄は長期のお休みを取ったのをいいことにまず部屋の掃除から始め、買い物に出かけ、これまで山崎の好みに沿うようにと整えていた部屋を、自分好みに戻し始めた。
退職したその日に、実家にはその旨伝えてある。
彼女は幼い頃に母を失くし男手ひとつで父に育てられたのだが、父の姉……つまり芹香の母である伯母が母代わりになってくれたため、伯母にも同じように退職した旨を簡単に伝えた。
父はわかったと頷いてくれただけだったが、伯母には酷く残念がられた。
「私に一言教えてくれれば、自己都合退職なんてことさせなかったのに」
「でもあまりオオゴトにしたくなかったから」
「あら、オオゴトにしなくったっていくらでも交渉の余地はあるでしょ?人事担当者さえ納得させてしまえば、会社都合の退職ってことにできたのよ。いいこと、香澄。交渉のテーブルにつく時は妥協なんて考えちゃダメ。戦って勝ち取るくらいの意気込みで臨みなさい」
はいはい、そういう機会があったらね。
そう答えながらも、彼女は内心『そんな機会なんてない方がいいけど』と考えていた。
とはいえ自己都合で辞めてしまった以上どうにもできない、香澄はやることが終わってしまうと仕方なくハローワーク通いを始めた。
といっても彼女はまだこの有給休暇が終わるまでは『Sai-Sports』の社員である。
失業保険の手続きやハローワークへの登録などはできないので、専ら検索用PCで条件に合いそうな会社を探しては、プリントアウトして持ち帰るということをしていた。
が、条件のそれなりにいい会社はどれも何らかの資格を求めていて、未経験者でも歓迎しますという会社はやはりそこそこ条件が落ちるか、もしくはいいことばかり書かれすぎて逆に怪しげなところか。
年齢的には大学を卒業してまだ2年足らずということで引っかかることはないものの、今後長く働くことを考えるとやはり会社の雰囲気というのは重要だし、一人暮らしも継続したいので賃金面でもあまり譲歩はできない。
できることなら『Sai-Sports』に近い今のマンションも引き払って引っ越したいし、この機にスマホにも変えたかったので、それを思うと条件はかなり厳しくなってしまう。
(贅沢言ってられる身分でもないんだし、条件引き下げてみようかな……)
なんだかんだで、長い長いと思っていた休みも終わりかけている。
休みが終われば正式に退職扱いとなり、自己都合退職であるため失業保険を申請してもすぐには支給されない。
つまり無職無収入期間が発生するわけで、そうなれば蓄えを食いつぶしていくしかできなくなる。
仕方ないので条件を多少引き下げて、かたっぱしから面接を受けてみようか。
そう決意して家を出ようとした矢先、芹香からメールが届いた。
すぐに会えないかと彼女らしからぬ急いだそのメールに急かされて、香澄は待ち合わせのカフェへ向かうべく駆け出した。
カラン、と古風なドアベルが鳴る。
ここは学生時代、高校が違う芹香と香澄がよく待ち合わせに使った喫茶店だった。
今は『カフェ』と名を変えてはいるが、相変わらずのんびりと時間が流れているような店内の雰囲気は、そこだけ都会の喧騒から隔離されているようで落ち着く。
芹香は既に着いており、こっちよと手を挙げて知らせてくれる。
香澄もそちらへ足を向けながら、従姉の隣に座った老紳士の存在が気にかかっていた。
祖父はもう亡くなっているし何より顔立ちに見覚えはない、だとしたら先方……芹香の結婚相手の親戚だろうか?
とはいえその相手を同席させてまでの急ぎの用事、というのがどういうものかわからない。
「その格好、今からハロワ行きますって感じね。でも良かったわ、その格好で」
「……話の前に芹香、そちらの方は?」
「ああっと……会長、申し訳ありません。こちらが先ほどお話した、従妹の桐生香澄です。香澄、こちらは私が勤める会社の会長」
「え、……と、桐生香澄です。はじめまして」
「こちらこそ。はじめまして、ではないけれどね」
香澄と老紳士は立ち上がって礼を交わす。
そのしゃんとした立ち姿に、もしかしてと香澄は1年ほど前に記憶を遡らせた。
彼女がまだ慣れない業務に四苦八苦していた頃、応接室の片づけをしている時にソファーの上に置かれた社名入りの封筒に気付いた。
お茶を出したので顔は覚えていたが、名前や訪ねた相手まではわからない。
そこで受付に入退社名簿を確認してもらうと、営業部長を訪ねてきたお客様だとわかったため、彼女はすぐにそれを持って営業部へと出向いた。
そしてちょうど会議室に入ろうとしていた男性を呼び止め、
『遅くなって申し訳ございません。お預かりしていた書類をお返しに参りました』
と、忘れ物ではなく総務で預かっていたのだという言い回しで、封筒を差し出した。
彼女にとってはただそれだけ、一期一会のお客様という位置づけですっかり忘れていたのだが、この老紳士にとってはそうではなかったらしい。
「忘れ物だと言わない気遣い、受け取りやすいように向きを変えられた封筒、そういった何気ない気配りが嬉しくてね。つい反射的に名札を見て、名前を憶えていたんだ。社会人の常識だと君は言うかもしれないが、それができない者も多いだろう?」
「ありがとうございます」
「ああ、その返事もいいね」
そうですね、と返せばそれは高慢になる。
それをせずに自分が褒められたことに対して素直に礼を述べた、それもこの男性には好ましく映ったようだ。
その時あれ、と香澄は思い出した。
芹香は確か『会社の会長』と紹介した、だがあの時彼女が目にした封筒は芹香が勤める会社の子会社にあたる警備会社だったはずだ。
上げた視線に疑問が浮かんでいるのがわかったのだろう、老紳士は名刺を取り出してすいっとテーブルの上をすべらせてきた。
【総合商社 USAMI 取締役会長 兼 人事担当総責任者 宇佐見裕次郎】
総合商社USAMIは直接経営する世界各地にシェアを持つ巨大企業のひとつ。
傘下の子会社である宇佐見セキュリティサービスや有料老人ホームも順調に業績を伸ばしており、一家にひとつは必ず宇佐見の商品があるのではないかと言われるほど、顧客数も多い。
西園寺もかなりの大きさだが、宇佐見はとにかく規模が違う。
「人事担当総責任者と書くとなんだか偉そうだが、つまり現役を引退した暇な老人がグループ会社の人事に口出ししている、と考えてもらえばいい」
「そうでしたか」
「うむ。納得してもらえたようなので、仕事の話をさせてもらおうか。といっても君のその様子では、野宮君から何も話を聞いていないね?」
「すみません、会長。とにかく、香澄が面接を決めてしまう前にと急いていたものですから」
「ああ、いいよ。急かしたのは私も同じだ。では私の話しの前に、君の方から事情の説明をしてくれるか?」
はい、と頷いて芹香は話し始めた。
芹香の勤めているのは、グループ本社にあたる総合商社USAMI。
その人事課に勤務していた彼女は、このたび業務推進室という新しい部署ができることを知り、その人材を広く社内外から募集するつもりなんだという話を聞くと、紹介したい人がいるんですと上司に香澄の履歴書を見せた。
それを見て、ならば話を聞いてみようかと腰を上げたのがこの紳士……宇佐見裕次郎その人である。
(芹香……なに勝手にひとの履歴書なんか持ち込んでるのよ)
就職活動を始めるにあたり、履歴書の書き方を指導してもらったのは確かにありがたかった、が……どうやら芹香はその時予備にと書いたものをこっそり取っておいたらしい。
結果的にそれを見て宇佐見の会長が動いたのだから、結果オーライと言えなくもないのだが。
「さて、今度は私が。業務推進室というのは、社長直属の部署でね。君もあの会社で働いていたのなら大体わかるかもしれないが、各部署忙しくなる時期というのはバラバラでね。例えばイベント、例えばプレゼン、例えば出張、そんな忙しい時期だけ増員するというのも非効率的だということで、それぞれの業務に慣れた者が一時的にサポートする、という部署を作ることになったんだ」
その部署は普段はそれぞれスキルアップのための勉強や他部署での研修など、所属する社員の自主性に任せるつもりなのだという。
そのかわり、有事の際はそれこそブラック企業かと言われるほど忙しくなることもあるというから、人選はそれなりに慎重に行っているとのことだ。
どうやら香澄は資料作成の能力を買われているらしく、その気があるなら一週間お試しでアルバイトしてみないかというお誘いまで受けてしまった。
「一週間じゃなにもわからないかもしれない。だが社内の空気を感じるくらいはできると思う。どうかね?」
そう問われて、香澄は迷わず頷いた。
宇佐見の入社試験など無理だと端から諦めていたが、せっかくこう言ってもらえたのだから試すだけでも試してみたい。
提示されている条件はさすが宇佐見と言うべきかかなり高待遇だし、『社長直属の業務推進室』というその新しい取り組みにも興味がある。
そして、あれよあれよという間に一週間が経ち、どうだい?と尋ねられるままに頷いたことで香澄の正式な入社が決まった。
勿論香澄の方だけでなく業務推進室の室長にも資質の確認をしたそうだが、問題ありませんとの返事をもらったらしい……というのは、後で芹香が明かしてくれた裏事情である。
そんなこんなで社内外から集められた個性的な人材による、業務推進室が新設された。
皆それぞれ好きな方向へデスクを向けており、互いに無関心というほどではないが過干渉ではない。
デスク上は好きにカスタマイズしてOKとあって、中々に個性豊かなデスク周りになっており目を楽しませてくれる。
香澄もここに配属になった頃は、まとまりのあった前職の総務部内を思い出して違和感を拭えずにいたが、今となってはかなり慣れてしまった。
彼女の担当は言うまでもなく、文書作成及びメールでの取引先とのやりとり。
その中でこれまで関わることのなかった大きな企業の担当者と知り合ったり、妙に気の合う友人と出会ったりという嬉しいこともあり、彼女は今では純粋に仕事を楽しめるほどになっていた。
「やあ、カスミ。悪いんだが、午後の大事な会議で使う資料の見直しを頼むよ。うちの新人秘書が頑張って作ってくれたんだが……なにぶん、アレはドイツの人間でね。日本の繊細な言い回しに明るくないんだ」
「アッシュ、無理を言うものではないですよ。桐生さんはあくまでこのUSAMIの社員であって、貴方の部下ではないんですからね」
「そんなことはわかってる。けどな黒崎、お前だってカスミの作る資料は読みやすいと絶賛していたじゃないか。今回の会議でうちとウサミの提携が決まるんだぞ?ならより良い資料を作るのに越したことはないだろう」
前職であったなら到底知り合うことすら出来なかった大物、という点でこの二人に勝るものはないだろう。
アッシュ、と呼ばれたアッシュブラウンにブルーアイズのはっきりした顔立ちの美形が、ドイツのシステム開発メーカーであるシュナイダーのアジア担当責任者、アッシュフォード・シュナイダー。
そしてそのパートナーであり、シュナイダーの日本支部の責任者である黒崎響。
シュナイダーは元々欧州諸国にシェアを広げていた会社だったが、何代か前のシュナイダー家の令嬢が日本の一宮という家に嫁いだ関係で縁ができ、一宮グループやTKエンタープライズと提携を結んで日本国内にもシェアを拡大してきた。
だがまだまだ外国の企業という『外様』なイメージが強く、それならと思い切って日本支部を設立するにあたり、宇佐見と業務提携を結んで日本での土台を着実なものにしてしまおう、ということであるらしい。
シュナイダーと縁を結ぶことは、USAMIにとっても利益に繋がる。
つまり余程緊急の仕事を抱えていない限りは、彼の申し出を受けることが会社のためにもなるのだと、香澄はそう判断した。
それに何より、この悪気のなさそうな笑顔を見ていると、断るのも申し訳ないという気にさせられる。
「わかりました。午後までということでしたら、昼までに見直しをかけておきます。今日は私のお昼当番なので、お手数ですがお帰りの際に取りに来ていただけますか?」
お昼当番、というのは要するにお昼休憩の時間に電話番や接客をする役目のことだ。
それをあらかじめ聞かされていた黒崎は、わかりましたと笑顔で頷いた。
そして昼過ぎ。
香澄が昼休憩時間に入ったのを見計らったかのように、黒崎が姿を見せた。
「資料の見直しなら終わってます。どうぞ」
「ありがとうございます。……うん、これなら読みやすい。早速ボスに渡して…………あぁ、桐生さん。もしかして今からお昼を食べに出られますか?」
「え?……えぇ。そのつもりですが」
「でしたら、是非ランチをご一緒に。ここを出た裏通りのカフェに、ボスを待たせているんです」
「え、……え?」
はい、ともいいえ、とも返事をしないままに、強引な黒崎によって一方的に話を纏められた香澄は、戸惑いながらも裏通りのカフェに来ていた。
(取引先の人とお食事なんて、いいのかなぁ?)
そんな彼女の心を読んだかのように、黒崎はクスリと笑う。
「休憩時間なのですから、接待などにはあたりませんよ。第一、貴方に奢っていただくつもりもありませんし、こちらが奢るつもりもないですから」
さ、どうぞと店内に導かれ、アッシュの待つ窓際の特等席へと向かう。
彼は香澄が一緒に来たことに僅かに驚きそのブルーアイズを見開いたものの、すぐに気を取り直して自分の正面にある席を示した。
そして黒崎から受け取った資料を一読すると、うんと満足げに頷く。
「おかしな言い回しがなくなってるな。それに、改行や段落なんかも修正されてある。ありがとう、いつもながら助かったよ」
「いえ。仕事ですから」
「真面目か」
「ん?」
「え?」
「……いえ。独り言です」
薄く笑いながらそう言うと、黒崎はアッシュから資料の入った封筒を受け取って、立ち上がる。
遅ればせながら水を持ってきた店員にすみませんと断ると、彼はぽかんとしている相棒を見下ろして
「ではこの資料は先に持ち帰ります。準備はしておきますから、ボスはどうぞごゆっくり」
そう告げて、店を出た。
その後のことは、黒崎は知らない。
あえて聞こうとも思わなかったし、資料の印刷やら会議室のセッティングでそれどころではなかったからだ。
だが、指定時間ギリギリ少し前に戻ってきたアッシュを見て、彼はやれやれ上手く行きましたかと安堵の息をついた。
(セッティングしてあげないと行動に移せないなんて、ヘタレもいいところですよ。義兄さん?)
お相手は黒崎ではないです、よ?