17.貴方には、きっと一生敵わない
本編最終話。
山崎を見送ってふと気がつくと、約束のホワイトデーはもう過ぎていた。
香澄も自分自身の異動のことなどでバタバタしていたため、このところずっとアッシュにもリリーナにも連絡を取っていない。
彼らからもメールなどは届いておらず、恐らく事情を知った上で気を遣ってくれたのだろうと何となく予想はできたが、それでもアッシュに直接連絡するまでの勇気が出なかった香澄は、ワンクッションとしてリリーナへメールを送った。
【すぐ行く】と実に簡潔なメールを送り返してきたリリーナが、香澄の住むマンションを訪れたのはそれから30分後。
「親友に頼ってもらえなかった!」とわんわん声を上げて泣くリリーナに謝り倒し、困り果てた香澄にリリーナが抱きついたことで、そのまま二人で抱き合って泣き続けた。
「怖かったでしょ、怖かったでしょ?悔しい、私がそこにいたら、そんな女蹴倒してやったのに!」
「うん、怖かった……でも、ついてったのは私だから。私も悪いんだよ」
「またそうやって!カスミはもっと怒っていいのに!」
「普通に怒ってるってば。けど、やらかしちゃった人は捕まったし、操ってた人は…………死んだ、し。嫌がらせに加担してた人達も、処分を受けたみたいだから」
一瞬滑川のあの死に顔を思い出してしまい、カスミはゾクリと背筋が寒くなるのを感じた。
そんなバカな、とその顔は雄弁に語っている気がした。
己が駒だと見下していた相手に、まさか弾みとはいえ刺されてしまうとは思っていなかったのだろう。
倒れこんだ勢いと、刺された場所が致命的だったらしい。
彼には身内がおらず、結局警察が無縁仏として葬ったのだと聞いている。
(高梨さんが名乗りを上げてくると思ったんだけどな……できなかった、のかな)
薔子は、そして行きがかり上滑川の家に世話になっていた他の二人は、滑川の死をどう感じたのか。
その後、どうなったのか。
はっきりしたことは山崎もわからないと言っていたが、それでも三人揃って実家に連れ戻されたのは確かであるようだ。
薔子の実家である高梨家は、西園寺家ほど自己主張が激しい家柄ではないものの、名家のひとつとしてそこそこ影響力のある家だという。
それは正確には薔子の祖母までの代であるようだが、今ではほぼ名ばかりとはいえ名家としてかろうじて機能している家だ、その姓を名乗る娘の放蕩はこれ以上見過ごせるものではなかったということか。
薔子は高梨家の離れに軟禁状態、他の二人はそれぞれ彼らを養っていくのも大変な状態でありながら、実家で面倒を見てもらっているらしい。
「……とにかく、心配したのよ?カスミが大変な時期だから、落ち着くまで連絡しないでおこうってヒビキには言われてたけど……ここまで長く連絡がないのも初めてだったから、私の方が落ち着かなくって」
「うん、ごめんね」
「それに、兄さんまで急に本社に呼び出されて行っちゃうし」
「……えっ?シュナイダーさん、日本にいないの?」
臨時会議ですって、とリリーナはあっさりと教えてくれる。
シュナイダー社では、定期的に各支部の担当者を集めて報告会を開いているのだが、その際はアッシュだけでなく日本支部の責任者である黒崎もそれに同席する。
今回は他の支部で何かトラブルがあったらしく、アッシュ一人が召集されて急遽2月の末からドイツの本社に戻っているらしい。
「2月末からってことは……」
「そうよ。もしカスミが連絡してくれてても、兄さんは時間を作れなかったってこと。だからそんな申し訳なさそうな顔しないの。戻ってきたら時間を作らせるわ、ね?」
「ありがとう。でも無理にじゃなくてもいいよ。私が異動するまでに、一度会えればそれでいいから」
「……異動ですって?聞いてないわよ、そんな話」
「…………あ」
しまった、と悔やむがもう遅い。
香澄は事のあらましだけでなく、秘書達からの細々とした嫌がらせやぶつけられた嫌味の数々、それに加えて事件が起きたことで今の部署に居辛くなったこと、上に相談したら新しく設立する支社のメンバーとして推薦してくれたことなどを、根こそぎ説明させられた。
そのこともあって、アッシュの告白は断るつもりなのだという本音も。
「……それじゃあなに?香澄は心機一転新しい土地に行ってお仕事したいから、兄さんとはお付き合いできないって言うの?うちの兄が、遠距離恋愛にも耐えられないようなヘタレだとでも?」
「そ、そうじゃないよ!ただ、その……一度あっちに行っちゃったら、色々忙しいと思うの。支社の設立なんてそう簡単にできるわけじゃないし、落ち着くまでは時間もかかるでしょ?シュナイダーさんはこっちを離れられないだろうし、もしそのまま……えと、結婚とかいう話になっても、だったら仕事辞めますってわけにもいかないと思うし。そんな無責任なこともしたくないから」
香澄もアッシュのことが好きだった、だから告白された時は本当に嬉しくて……このまま幸せになってもいいんだろうか、ようやく父を安心させてあげられるかもしれない、そんなことを考えていた。
3月14日には何をしようか?どうやって気持ちを伝えようか?そんなことも考え始めていたのに。
あの事件が、全てを変えてしまった。
周囲は彼女を被害者として扱ったが、彼女自身あの被害にあったロッカールームを見るのは辛かったし、秘書室の他のメンバーの物言いたげな視線に晒されるのも嫌だった。
だから、提示された選択肢に飛びついた。
ここから遠い土地にできる、新しい支社。
その開設メンバーとして共に行くのは、愛妻家で有名な中堅の男性職員と現地出身のハーフの女性職員、そして香澄の三人だけ。
男性職員は家族連れ、ハーフの女性も現地に家族がいるとかで、単身赴任するのは香澄一人だ。
これから現地でオフィスビルを視察し、備品を整え、社員を雇い入れ、徐々に会社としての機能を持たせていく。
そうして向こうに慣れる頃には、きっとその場所から離れられなくなっていることだろう。
だから、この恋は諦めるしかないのだ。
アッシュ一人ならどうとでもなったかもしれないが、彼には恋心よりも恐らく大事なケヴィンがいる。
姉の忘れ形見であるケヴィンを立派に育てることが彼の生き甲斐なのだ、そんな息子が小学校に入学するという大事な時期にああだこうだと彼を振り回したくはない。
香澄の一大告白を聞き終わったリリーナは、ため息混じりに鞄の中からスマホを取り出して耳に当てた。
そして
「だそうよ、兄さん。ちゃんと聞こえた?」
「…………へ?」
「うん、……うん、そうみたい。で、結論は出たの?……そう、わかったわ。ちょっと待って」
はい、とスマホを差し出された香澄は、唖然としながらそれを受け取る。
(……え、なに?今の会話、もしかして全部筒抜け……えぇっ!?)
どこからかはわからない、部屋に来る前からか、泣き止んでコーヒーを飲み始めた辺りからか。
ただ言えるのは、リリーナのスマホが現在進行形でアッシュと繋がっていること。
香澄の告白を、彼が残さず聞いてしまっただろうこと。
その上で、香澄と話したいんだと言ってくれてるらしいこと。
やられた、とがっくり肩を落としながら彼女は恐る恐るスマホを耳に押し当てる。
『カスミ?』
彼女を気遣うことしか考えていない、優しいその声にまた泣きそうになった。
「お久しぶりです、シュナイダーさん」
『あぁ、久しぶり。……思ったより元気そうな声で安心したよ』
「はい、あの」
『リリーナから聞いただろうが、約束のことは気にしないでくれ。私も急な招集で日本を離れなければならなかったから、逢うことは出来なかった。カスミからのお返しは正直楽し……「カシュ!」……あぁ、はいはい。戻ったら逢えるから、もう少し待ちなさいケヴィン』
電話の向こうで、わかったから暴れるなと必死で宥めている声が小さく聞こえる。
まさか臨時会議にケヴィンも一緒に行っていたとは思わず、香澄はどういうことかとリリーナに視線だけで問いかけたが、彼女は肩を竦めるだけで返事をくれようとはしない。
兄さんに聞いてちょうだい、とそういうことのようだ。
『とにかくカスミ、こちらでの用事がようやく終わったから明日にでも日本に戻るつもりなんだが……明後日には会えるか?』
ええと、と彼女は素早く壁掛けのカレンダーを確認する。
異動日は三月の末、もうすぐだ。
その前にやるべきことは部屋の荷物の整理と実家や白銀家への挨拶、それまでは特にやることもない。
引越しは一度現地を視察してから、買出しは芹香に付き合ってもらっていく日を決めてある。
なので彼女は、大丈夫ですと覚悟を決めてそう返事した。
日は沈み、また昇る。
『明後日』などあっという間に来てしまい、そして香澄は頭を悩ませる。
悩んでいる理由は、目の前に引っ張り出してきたネックレスだ。
これは、事件を起こしたあの川谷緑がずっとポケットに入れて持っていたもので、事情聴取後に警察の手を経て香澄の元へ戻ってきた。
とはいえ、これを見ればあの時の惨劇が思い出されてしまう。
かといって、つけてもらえなければ贈った側はきっと哀しい思いをするだろう。
(わかってる。これが、最後だから)
今更彼に返すつもりはないが、この先つけて歩くこともしない。
これはずっと、引き出しの中にしまいっぱなしになってしまうだろう……彼への想いと共に。
最後だからと決めて、彼女はネックレスをつける。
コートを羽織り、マフラーを巻いてしまえばネックレスはすっかり見えなくなってしまう。
ただ、肌にひんやりと伝わる感触だけが「忘れるな」と言っているように感じられた。
「お待たせしてすみません」
いつもの、という指定だけで通じてしまう待ち合わせ場所に香澄が顔を出すと、いつものようにアッシュは奥の席でコーヒーを飲んで待っていた。
彼は「ああ、いいタイミングだねカスミ」と立ち上がると、伝票を持ってそのまますたすたとレジへ行き、唖然としている香澄を促して店を出る。
てっきりこの馴染みのカフェで話をするものだと思っていた彼女は、近くに停めてあった彼の車に乗せられたところで、ようやく我に返って疑問を口にした。
「あの……今日はケヴィン君は?」
言ってしまってから『そうじゃないだろう、私』と内心突っ込んだが、アッシュは気にした様子もなく「留守番だ」と答えた。
「私ばかりカスミに逢うのはずるい、と拗ねられてしまったが。今日は大人同士の話があるんだとどうにか説得してね。なのであの子にはまた後日、改めて時間を作ってやって欲しい」
「いえでも、私……」
あの電話が聞かれていたなら、アッシュも知っているはずだ。
香澄がもうすぐ、支社に異動してしまうことを。
そして余程のことがない限り、しばらくこちらに戻ってくる気がないことを。
何を言いたいのかがわかったのだろう、アッシュは「あぁそうか」と苦笑してから
「ケヴィンの話をする前に、まずこちらの話からだな。……っと、その前に。カスミ、あのネックレス……つけてくれてるんだね。ちょっと失礼」
と言い置いて腕を伸ばし、以前これをつけてくれた時のように優しく彼女の首筋に触れた。
そして、さほど苦労することもなく留め金を外してしまう。
ひんやりした感触がなくなり、驚いて視線を上げるとネックレスは彼の手に戻っていた。
「気を遣わせてしまってすまないね。だがこれは……君にとって、辛いだけのもののはずだ。これを見ると、きっとあの事件を思い出してしまう。それならこれは、しかるべきところで厄除けのお祓いをしてもらった上で、念入りに供養してもらおう。君の辛い思いが晴れるように」
ぽたり、と涙が零れ落ちた。
あの会話を聞いていたはずなのに、香澄が今から何を告げようとしているのかわかっているはずなのに、それなのに彼はこんなにも優しい。
こんなにも香澄の事を思ってくれている。
(こんな人はきっと、もうどこにもいない……一生分の運を使っても、出会えない)
どうして、こんな優しい彼が今までフリーだったのかがまずわからない。
どうして、こんな素敵な彼がごく普通の一般人である香澄を好きになってくれたのかもわからない。
わからないが、もう手放したくないと思った。
簡単に諦めたくないと思った。
我侭を言ってでも、彼を繋ぎ止めたいと思ってしまった。
息を吸って、吐いて。
さあ、これから一世一代の大勝負。
諦める方向で後ろを向いていた勇気を奮い起こして、声が震えてしまわないように香澄は気を引き締める。
「私……来週から、ドイツに行きます」
「……え?」
「貴方の故郷の、ドイツの空の下で働くことになりました。シュナイダー社からはちょっと離れてますけど、立地条件としてはいい方だそうです」
『今度ドイツに支社を設立することになってね。確か君、ドイツ語を勉強中だと聞いているが……君さえよければどうだろう、そちらの設立メンバーに加わってみないか?』
この選択肢が示された時、香澄はアッシュとケヴィンを思い出していた。
ドイツ語を勉強し始めたのは彼らの影響だ、そしてそんな彼らの故郷で働けるという選択肢が今目の前にある。
日本から離れられないだろう彼ら親子と別れなければならないとしても、それならせめて彼らを思い出せる土地で働きたい。
そんな未練たらたらな選択だったが、ドイツと言っても広いのだからもう逢うこともないだろう、そのうち時間が忘れさせてくれるだろう、そう思っていた。
だからドイツに行くことは彼にもリリーナにも言うつもりはなかったのだが。
「…………あぁ、良かった。やっと言ってくれた」
私はヒビキと違って誘導が下手なんだ、と悪戯っぽく笑うアッシュを、香澄はぽかんとした表情で見つめるしかできなかった。
「え?それじゃ知ってたってことですか?」
「うん。実は今回私がドイツに呼ばれたのは、ドイツ本社の担当者が病気で引退することが決まったからなんだ。彼は元々高齢だったからね。そこで、各地域の担当者の中でもUSAMIとの提携を成功させた私にと後任を指名されてね。……ちょうどUSAMIのドイツ支社が設立されることにもなっていることだし、それなら私が適任だろうと言われたんだ」
そこで彼は、USAMIに挨拶がてらドイツからメールを送り、ドイツ本社に戻ること、USAMIのドイツ支社とも提携関係を持ちたいので担当を教えて欲しいことを告げ、そこで非公式にだが香澄の名前がそこにあることを知り、ケヴィンも連れてドイツへ戻るための手筈を整えていた、というわけだ。
「それじゃケヴィン君も一緒だったのは……もしかして学校の手続きで?」
「うん。あちらでは日本と同じ6歳で初等学校に入ることになるからね、といっても9月スタートだからしばらくはあちらの環境に慣れることからだが」
ケヴィンはドイツにいた頃のことを殆ど覚えていない。
ドイツ語は話せるし書けるが、今ではすっかり日本に馴染んでしまっているためしばらくは大変だろう、とアッシュはそう言う。
「だから、香澄……出来る限り傍にいてやって欲しい。君が傍にいれば、あの子も落ち着く。それに私も、君に傍にいて欲しい。……いや、ケヴィンは口実だな。本音は、私が君を手放したくないだけなんだ」
「シュナイダーさん、それって」
「アッシュと呼んでくれ、カスミ。……君とケヴィンと三人で、家族になりたい。いずれ増えれば、その子も一緒に。だから私と結婚してもらえないだろうか?」
勝負を仕掛けたつもりが、実際は仕掛けられていた。
そのことに気づいた香澄がこのプロポーズに頷くのは、そして感極まった彼に自宅に連れて行かれ待ち構えていたケヴィンに構い倒されるのは、きっとそう遠くない時間のこと。
あと一話、後日談と最終ざまぁが入ります。




