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16.さようなら、いつか何処かで逢いましょう

「バカかお前はっ!!」


 パンッ、と肌と肌がぶつかるいい音が響き、香澄は頬を赤く染めたまま項垂れた。

 今しがた生まれて初めて娘の頬を叩いた父親は、まるで自分が叩かれたかのように痛々しげに顔を歪め、荒く肩で息をしている。


「何のために純也君がお前に忠告をしにきたのかわかってるのか!彼は一度はお前を裏切った、だから信用できないとでも思っていたんだろうが……()()()()()さえ除けば、彼はお前に誠実だった。そんなことすら忘れてしまったか?」


 確かに、父の言う通りだった。

 山崎が薔子に溺れるようになったのはつい最近で、それまで彼は拙くも言葉が足りずとも婚約者として香澄に接してくれていた。

 記念日には花を、デートの際は彼女を守るように寄り添って。

 話す内容は仕事のことばかりだったが、それでも軽薄に流行ばかりを追いかけているより余程好感度が高かった。

 だから思ったのだ、彼となら穏やかな家庭を築けるかもしれないと。


「純也君に失望したのは私も同じだ、開き直ってみせた彼を殴ってやりたいとすら思った。今でも、どうしてあんな裏切りをしたんだと詰りたい……だが今はそれ以上に、娘を守ってくれてありがとうと頭を下げたい気持ちだ。彼はお前を裏切ったが、それでも精一杯誠実であろうとしてくれたんじゃないのか?それをお前は、あの頭の足りなさそうな女性にほいほいとついていくなど……危機感が足りなさすぎる。もし義兄にいさんがここにいたら、平手打ちだけじゃすまなかったぞ」


 あの正義感の強い白銀なら、香澄がか弱き女性であろうと容赦なく殴り飛ばしていただろう。

 一人になるなと言っただろう、周囲を頼れと忠告しただろう、どうして守れないんだこの阿呆が、てめぇなんざ社会人失格だ、と。


 堪えきれなくなったように、香澄の目に涙がたまる。

 間近でそれを見た父親は、大きくため息をついて腕を差し伸べた。


「それだけお前は大事に思われてるんだ。いい加減自覚しろ、バカ娘」




 父親の腕で泣いたのは、母が死んだ時以来だった。

 あの時も震えていた父の腕は、今も小刻みに隠し切れない震えを伝えてくる。

 子供を持ったことのない香澄にもそれがどうしてだかはわかる。

 父は怖かったのだ、一人娘を永遠に失ってしまったかもしれないということが。


 あの時、山崎が助けに入ってくれなければ。

 警察があの場所を突き止めるのにもう少し時間がかかっていたら。

 今頃、物言わぬ死体になっていたのは香澄だったかもしれない。


『それだけお前は大事に思われてるんだ』


 大事にされていない、とは決して思わない。

 むしろ大事にされているのがわかったから、香澄も父を大事に思っているからこそ、極力負担を掛けないようにがむしゃらに頑張ってきた。

 できる子でいれば、父は安心してくれる。

 我儘なんて言えない、甘えることなんてできない、困ったことがあっても自分でどうにか切り抜けてみせる。


 それがあながち間違いだったとは思わない、だが今回に限っては彼女は誰かに助けを求めるべきだった。

 恥ずかしくても大声を上げて周囲の注意を引けば、助けに入る人はいなくても野次馬根性でツイッターに投稿する者はいるかもしれない。

 騒ぎを大きくすることで、警察がかけつけてくれたかもしれない。

 それをせずに自分だけで解決しようとした結果、何かを企んでいるとにらんだ山崎が滑川の後をつけ、そして間一髪のところで香澄の代わりに怪我を負ってしまった。

 怪我をさせたのは香澄ではない、しかし怪我の原因を作ったのは彼女の判断の甘さだ。


 幸いなことに山崎の怪我は意外と軽かった。

 冬であったためある程度厚着していたこと、華奢な女性の力であったこと、綺麗に内臓を逸れてくれていたこと、そこそこ身体を鍛えていたことなどが重なって、全治2ヶ月か早ければ1ヶ月くらいだと診断されたのだ。

 とはいえ、そんなことは結果論に過ぎず、何の言い訳にもならない。



 香澄は、慌てて駆けつけた山崎の両親に事情を説明し、丁寧に詫びた。

 私の軽率さが招いたことです、申し訳ありません……と。

 罵倒されても仕方がないことだと思った、疫病神呼ばわりされることすら覚悟した、だが彼らは香澄さんのせいじゃないからと一切彼女を責めなかった。


「ただね、息子の弁護をさせてもらえるなら、あの子はあの子なりに貴方を大事に思っていたんだと思うわ。結果的に貴方を傷つけてしまったことを、ずっと悔やんでいたもの。だから、純也はきっと貴方を守れて満足してるはずよ。……いえ、それとも……こんな危なっかしい守り方しかできなかったことを反省してるかしら」


 そう言って、山崎の母は香澄の『入院している間純也さんのお世話をさせて欲しい』という申し出を、やんわりと断った。


「私達としては願ってもないけど、きっと純也が嫌がるわね。あの子、結構カッコつけたがりなのよ。……だから、もしどうしても気がすまないと言うなら、退院した後に改めて逢ってあげてもらえない?ちゃんと怪我を治して、元気になったら貴方に逢えるという目標さえあれば、あの子も頑張れると思うの」

「……わかりました。純也さんに逢える日を待ってます、と伝えていただけますか?」

「ありがとう。あの子も喜ぶわ」


 どこですれ違ってしまったんだろう、と香澄は今更ながらに悔やむ。

 原因が薔子だけだとは思えない。

 香澄はいずれ結婚する相手に歩み寄ろう、理解しようとは努めていた。その、つもりだった。

 だが彼女は、今の今まで山崎が『カッコつけたがり』だと知らなかった。


(私、純也さんの何を見てきたんだろう……)


 全面的に自分が悪い、とまではさすがに思わない。

 それでも彼を『いずれ結婚する相手』としか見られず、表面上だけ見て知った気になって胡坐をかいていた、どこか態度がおかしいと気づいてもそれを問いただそうともしなかった。


『そっちのアホ女と両成敗で刺し違えて死ねや』


「りょう、せいばい……か」


 滑川の強引な結論はさて置き、お互いに悪かったということなのだろうと香澄はそう理解した。

 香澄は、婚約者の裏切りの現場を目の当たりにして心に傷を負った。

 山崎は、そんな元婚約者を()()()から守ろうとして身体に傷を負った。

 これで両成敗と考えるには少々虫が良すぎる気がするが。


(ちゃんと、お別れしなきゃ)


 きっと今なら、真っ直ぐに彼と向き合えそうな気がした。




 山崎と向き合う前に、彼女にはやることがあった。

 まずは何はともあれ会社に行き、今回の騒動について説明と謝罪をしなければならない。

 そして、けじめとして辞表を提出する。

 USAMIに所属していたのは1年にも満たないほんの短い期間だったが、同僚も上司も取引先も本当にいい人達ばかりだった。

 もしかすると、辞めなくてもいいと言ってもらえるかもしれない。

 だけど社内を、一時的にでも世間を騒がせた責任を取らせてもらいたい……それが果たして彼女の退職ひとつで済むのかどうか、そこまではわからないが。


 どうするのが最善の方法か、困り果てた香澄は辞表を携えたまま伯母である白銀杏子にアポイントを取った。

 姪としてだけでなく、クライアントとしても話がしたいのだと。

 彼女は香澄の話をじっと傾聴し、日付だけ入れていない辞表も読み、わかったわとひとつ頷いた。


「貴方の考えはわかった。弁護士として言わせて貰うなら、これが一番円満な解決法でしょうね。幸い、警察の上の方が動いてくれたお陰で大事にはなってないようだけど、これまで通り業務を続けるとなると社内が喧しいでしょうし」

「……うん、そう思う」

「だから、これは伯母として言わせて貰うけどね……香澄、貴方また逃げるの?」

「えっ」

「山崎君から逃げて、前職からも逃げて、USAMIからも逃げて。一体どこまで逃げ続ける気なの?」


 と、そこで杏子は「でもね」と表情を緩める。

 山崎のことは実際愛想を尽かして当然なことをやられているので、逃げたというよりは突き放したと考えても構わない。

 前職『Sai-Sports』は薔子の取り巻き、もっと言うと西園寺の圧力で辞めるように仕向けられたので、むしろ精神などを病まなかっただけまだ良かった。

 とはいえ、今回は辞めろと言われたわけでもなく、嫌がらせをされたことを上に報告した上で、その上の決定で一斉捜査という形になったのだから、自主的に辞めるというのはおかしいんじゃないか。



「前に言ったわよね?交渉する時は同じ舞台に立ちなさいって。一方的に譲るのもダメ、譲らせるのもダメ、対等な立場でやりなさい、って」

「う、ん……」

「貴方は確かに判断ミスをした。だけど事件自体は貴方の関与するところじゃないわ。もしどうしても職場に居辛いなら、上司に相談してごらんなさい。前の上司は話を聞いてくれる人じゃなかった、だからその辞表を叩きつけるしかなかった……でも今は?今の上司は、話を聞かずに『たった一人の犠牲』を求めるような人かしら?」

「違う!室長も社長もそんな人じゃないよ」


 室長は、あのロッカーの惨状に自分のことのように怒ってくれた。

 社長は、私情を挟まず公正に判断して社内に警察を入れ、徹底捜査に乗り出してくれた。


「なら、相談してみなさい。居辛いから辞めるんじゃなく、異動する手段もあるかもしれないわよ?」

「異動……そっか」


 その判断を下すのは上司の仕事だ。

 とはいえ、ダメもとで相談してみるくらいはやってみてもいいかもしれない。

 それでもダメだと言われた時は、それはその時に考えればいいだけの話だ。


 業務推進室自体はとても居心地がいい、とはいえ秘書室と同じフロアにあるというだけで嫌なことを思い出してしまうし、ロッカーで秘書室のメンバーに会わないとも言い切れない。

 特に嫌がらせに加担していなかった秘書達とは、顔を合わせるのも気まずいに違いない。

 それなら、いっそのこと支社に飛ばしてもらうのもひとつの選択肢としてアリだ。

 父を一人にしてしまうが、誰も知人のいない地方に行くのも悪くはないとも思う。


「うん、それじゃ相談してみるよ。……ありがと。やっぱり、伯母さんに相談してみて良かった」

「今更何言ってるの、水臭い。あんまり他人行儀なこと言ってると、次から相談料取るわよ?新入社員のお給料程度じゃ払えないほど、私高いんだから」

「あぁ、うん。知ってる」


 無理だわ、と苦笑いする姪の頭を軽く小突いておいて、杏子は「当たり前でしょ」とからからと陽気に笑った。




「……え?東北に?」

「あぁ。かつての部下が、事情があって実家に戻っていてな。あちらはまだまだ復興のための人手が足りないらしくて、良かったら一緒にやりませんかと声をかけてくれたんだ。空気もいいし、食べ物も美味い。そのまま腰を落ち着けるかどうかまだわからないが、しばらく行って来ようと思ってる」

「そうですか。……あの、怪我は?」

「抜糸も済んだし、傷跡も残らないそうだ。俺としては残ってもらっても構わなかったが……あいつをもっと早く止めていればと、入院中ずっと自戒していたからな。だけど残らないと聞いて、正直ホッとしている自分もいるんだ」


 これだけたくさん話す山崎を、香澄は初めて見た気がする。

 憑き物が落ちたような柔らかい表情も、以前は見られなかった。

 だから彼女は聞けなくなってしまった。


『高梨さんのことはもういいんですか』と。


 しかし何か言いたげな香澄の表情から、大体言いたいことは読めたらしい山崎は「薔子のことか」と苦笑する。


「前にも言ったかもしれないが、彼女のことは『女性』として愛していたわけじゃなかった。どうしようもなく欲しかった、手に入れたかった、独占したかった、だがただそれだけだったんだ」

「うわー、最低のコメントいただきました」

「そうだな、俺もそう思う」


 最低だな俺達は、と彼はさりげなくそれは自分ひとりじゃなかったんだと主張するが、そもそも香澄の中で他の三人は既に『最低ライン』に達してしまっている。

 なので、山崎もそのラインだったのかと呆れるくらいだ。

 勿論、今の彼がまだそのライン上にいるわけではないことくらい、きちんと理解はしているが。



「彼女は、俺達の理想形だったんだろう。彼女となら、同じ方向を向いて同じスピードで進んでいける。同じ目線で理想を語り合える。その居心地の良さにすっかり酔ってしまって……いつしか、離れられなくなってしまった。例えは悪いが、麻薬に溺れるようなものだったと、今ならそう言える」


 高梨薔子という麻薬に溺れ、彼は己を、そして己が大事にしてきたはずの周囲を見失った。

 結果、当然一緒にいてくれるだろうと驕っていた香澄は離れて行き、信頼してくれていた両親からも白い目で見られ、部下達も彼を見放していった。

 自信を持って立ち上げた会社は潰れ、出した商品は大損を出し、独立前の会社にも損害を与え、ネット上に動画をばら撒かれ、仲間達は次々とダメージを負って脱落していく。


 そんな中、仲間の中でもダントツにヤバい繋がりを持っている男が、かつての婚約者を陥れようと画策していることに気づいた彼は、それだけは阻止しなければと一度距離を置いて彼らから離れ、機会を狙っていたのだという。


「自己満足だと言われてもいい。君を守ることで、俺はようやく前に進める気がした。……結果的にああなってしまったことは悔しいが……それでも今度はゆっくり、周りの景色を見ながら歩いていこうと思ってる」

「あちらはまだ雪深いようですから、着いたらまず長靴を買って下さいね。歩く時はやや前のめりに、ロボットみたいに足の裏をぺったりつけて歩くと、転びにくいですから」

「どこでそんな知識を…………っと、そうだった。君の家は元々北陸にあったんだったな。わかった、心しよう」



 カチャリとコーヒーカップをソーサーに戻したところで、搭乗口を案内するアナウンスが店内に響き渡る。

 山崎が乗る便はまだ少し先だが、それでも彼はそろそろ準備しておくかと立ち上がった。


「そう言えば君は、これからどうするんだ?会社に残るにせよ辞めるにせよ、色々大変だと思うが」

「……正直、今の部署には居辛いです。ですから上司に相談して、支社に異動させてもらうことになりました」

「そうか。……聞いていいのかわからないが……どこの支社だ?」


 言いたくなければ構わない。

 そんな意味合いを含んだ問いかけに、しかし香澄は迷うことなくその支社の場所を告げた。

 それは遠いな、と彼の表情が一瞬曇る。


(うん、確かに遠い。けど……社長も室長も会長も、いくつか選択肢を用意してくれた。選んだのは、私だから)


 かろうじて通勤圏内にある他の支社、という選択肢もそこにはあった。

 だがあえて一番遠い場所を選んだのは、違う環境でどこまで出来るかやってみたかったからという気持ちと、その支社がまだ設立準備段階でほぼイチからのスタートであるという背景が気に入ったからだ。


「それじゃ、ここで」

「はい」

「…………さようなら。いつか、何処かでまた」


 差し出された手を、彼女も躊躇いなく握る。


「さよなら。いつか、また何処かで」




ヒーローは山崎でもありません、よ?

次はヒーロー回です。


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