11.無自覚な、甘さに酔わされ軋む恋
ちょい甘。
「カスミ、次の休みにどこか行かないか?」
「ふぇっ?」
油断しすぎて間抜けな声が出た。
香澄はそのお年頃の女子らしからぬ失態を取り繕うべく、ソースで濡れた口元を慌てて拭いてから「どういうことですか?」と問いかける。
ここは、以前リリーナに勧められて一緒に来たことがある、イタリアンのお店だ。
定番だがパスタとピザが絶品ということで、香澄は魚介のパスタ、アッシュは三種のチーズを使ったピザとスープパスタを注文し、二人で分け合って食べている。
そうやって大目に頼んで連れと分け合って食べるのがこの店では当たり前であるらしく、他の客もテーブル狭しと皿を並べて、家族やカップルでわいわいと賑やかに取り合っていた。
そもそもどうして二人がここに来ているのかというと、外回りの仕事を終えてさて帰ろうかという時間帯になって、急に白銀にお呼び出しがかかったのだ。
『滑川に気をつけろ』
そんな忠告を残して消えた山崎、その日以降香澄は極力一人にならないように帰りは白銀に送ってもらったり、時間が合うようなら父と最寄り駅で待ち合わせたり、時には時間の空いた伯母に迎えに来てもらったりしていた。
しかしこの日は急に白銀がその上司である営業担当の取締役に呼ばれて行ってしまい、だが傍を離れる間際「一人で帰るんじゃねぇぞ!」としつこく念を押されてしまったことで、さてそれじゃどうしようかと香澄が困ってリリーナに助けを求めたところ、
『それじゃ兄さんを貸し出すわ』
とあっさりレンタル契約成立し、しばらく待っていたところに今日も美形オーラを振りまきつつアッシュがやってきた、というわけだ。
山崎から聞いた話を、香澄はリリーナや黒崎にも伝えていた。
白銀と黒崎がある種の協力関係を結んだのであれば、黙っていても話はそちらへと漏れる。
それならあの気性の激しいリリーナを心配させないためにもと、ある程度情報を共有することにしたのだ。
彼らは西園寺の没落のあたりで『そんなの当然の報いだ』という顔になり、そして笹野に実は形だけの妻がいたこと、その妻の後ろ盾があったからこそあれだけ出世が早かったのだと思い知らされたことのあたりで、哀れむような顔になった。
そして、滑川が何かしてくるかもしれないという忠告をしてきた山崎については、主にリリーナが憤り
『今更カスミに未練でもあるのかしら?捨てられてからそのありがたみに気づいたって遅いわよ、あのダメンズ!仲間が何かするかもしれないっていうなら、無茶してでも止めなさいよね!』
と悪態をついた後、夫である黒崎にまぁまぁ落ち着いてと止められていた。
『ひとまず、桐生さんが狙われているだろうことはわかりました。とりあえず貴方の伯父様が率先して動いてくださるようですが……毎日というわけにもいかないでしょう。困った時は連絡をください。出られそうなら力を貸しましょう』
この『出られそうなら』というのがどうにも黒崎らしい。
自分の予定を組み替えてまで時間は空けないが、都合のつく時間なら協力する、ということだ。
何があっても優先して時間を空けると言われたら、逆に香澄が言い出しにくくなることを見抜いた上で、彼女が頼みやすいように誘導しているのだからさすがだと言える。
この人には近寄りたくはないが、敵にも回したくない……そう改めて思い知った香澄は、お願いしますと頷くしかなかった。
「どういうこと、と言われても……そのままの意味だよ。次の休みに、カスミの時間を少しもらえないかと思ってね」
アッシュの笑顔は崩れない。
そこには、デートを申し込んでいるという照れや、愛しい者を見るような熱情は欠片も見当たらない……つまり彼は、本心から香澄を誘いたくて誘っているわけではないのだと、彼女は諦め半分でそう認識した。
(そっか。リリーナに言えばこの人にも伝わる。だからきっと……気を遣ってくれたんだ)
白銀も、休みは一人で出かけるなと言っていた。
元々それほどアクティブに外出する性質ではない香澄も、年頃の女子らしくたまには買い物に出かけたり、時折ふらりと美術館に立ち寄ってみたり、そうでなくても食品の買出しに出なければならないこともある。
買出し自体は帰り際にスーパーに寄れば済むが、それ以外は引きこもっていろと言われてはいそうですかと頷けるほど、彼女とてまだ枯れてはいないのだ。
だからきっと、話を聞いたアッシュはそれならと協力してくれるつもりになったのだろう。
他ならぬ、彼の大事な息子が慕う相手だから、と。
ツキンと刺し込んだ胸の痛みを、香澄は知らない振りをして小さく微笑んだ。
「そうですね……土曜日は従姉と買い物に出る予定です」
「イトコ?イトコというのは男性かい?」
「いえ、芹香は女性ですが」
「そうか……まぁ人目の多いところでは問題ないだろうが、女性二人では心もとないかもしれないな。くれぐれも気をつけるんだよ?」
「……ありがとうございます」
ほら、彼はこんなにも優しい。
出かける相手が女性だと知って安堵するのではなく、男性ではないと知って心配してくれている。
紳士的ねと芹香なら好感を持ちそうだが、その紳士なところが時に辛い。
(参ったなぁ。リリーナにはああ言ったけど、私とっくに嵌っちゃってる)
自覚してしまえば、何と言うことはない。
彼女に出来るのは、その気持ちがアッシュに駄々漏れになってしまわないように自制する、それだけだ。
リリーナやケヴィンの手前、距離を置いたり連絡を取らなくなることはできないし、USAMIとシュナイダー社の関係上顔を合わせないわけにもいかない。
ならば、彼女の嫌いな公私混同をしないように平常心を心がけ、これまで通り接することしかできないのだ。
彼を困らせたくはないので、自分から近づこうなどとは思わない。
甘いと言われても仕方がない、アッシュにとって魅力的な女性が現れれば、横から掻っ攫われてしまうだろうこともわかってる。
だがどうしても……自分から積極的に行動に出るのは、怖かった。
そんな態度は、どうしても薔子を思い出して嫌悪感を覚えてしまうからだ。
「……スミ?……どうかしたのか、カスミ?」
「あ、はいっ?」
「急に黙り込んでしまうから、気分でも悪いのかと思ったのだが……ぼんやりして、どうした?」
「え?あぁ、ええと、このところちょっと寝不足で。なにせ上司が鬼ですから」
「ははっ、それは大変だ。今度の節分では、力いっぱい豆を撒いて日ごろのストレスを解消してやるといい」
「ふふ、そうですね。では遠慮なく」
残念ながら直接豆をぶつけてやる機会には恵まれそうにないが、香澄は頭の中だけであの体育会系の営業本部長……兼伯父に、力の限り「鬼は外ー!」と叫んで豆をぶつける光景を想像し……その結果、「そうかそうか、俺を追い出そうたぁいい度胸してやがる」とこってりお説教されるところまで想像してしまい、笑顔一転げんなりして想像するのをやめてしまった。
ぶつけたのがあのケヴィンくらいの年齢であれば、さすがの伯父も毒気を抜かれて「仕方ねぇな」と諦めてくれそうだが。
と、そこまで考えて香澄はそうだと話題を思いついた。
「そういえば、シュナイダーさんのところでは豆まきしないんですか?ケヴィン君なら喜んでやりそうな気がするんですけど」
この話題に、今度はアッシュがげんなりした顔になった。
どうやら昨年も豆まきをやらされたらしいが、その当時の豆が模様替えの際にタンスの隙間から出てきたりと、後々大変だったらしい。
「幼稚園ではイベントとしてやるらしい。うちでもやりたがるだろうが、さすがに後片付けがな……」
「だったら、適当な数だけ紙の豆とか作っておいて、本物の豆は炒って食べるだけっていうのはどうですか?後は、巻き寿司パーティしちゃうとか」
「巻き寿司パーティか、それはいいな。あの子に恵方巻きはまだ無理でも、小さな手巻き寿司なら食べられるだろうし」
いいことを聞いた、とアッシュは一転して嬉しそうに何事かスマホに打ち込んでいる。
恐らくリリーナあたりに、準備しておいて欲しいと連絡しているのだろう。
そんな楽しそうな家族団欒の姿を思い浮かべて、少し悪戯心が芽生えた香澄は「あ、そうだ」と今思い出したかのように、恵方巻きについて説明を付け加えた。
「そういえば、恵方巻きを食べる時は一切喋らずに無言で願い事をしながら……とよく聞きますが。福を呼び込むために笑いながら食べる、という地域もあるそうです」
「なんだと!?それは随分と食べにくそうだな」
「更に、これも一部かもしれませんが、一切噛み切らずに食べきるという作法もあるようです」
「はぁっ!?蛇でもあるまいし、丸呑みしろとでも?」
「海苔はただでさえ口に貼りつきやすいですから、詰まらせないように気をつけてくださいね」
と、ここでようやくからかわれたことに気づいたのか、アッシュはやや項垂れながら「カスミにヒビキが乗り移った」と拗ねてみせる。
そこで黒崎を引き合いに出すあたり、アッシュもあの彼の底意地の悪さを実感することがあるのだろう。
ただ意地悪だと言われるならまだ良かったが、黒崎に例えられた香澄の気分としては痛み分けといったところか。
こうして和やかな食事の時間は終わりを告げ、デザートまできっちり食べつくしたところで「では帰ろうか」とアッシュが先に席を立った。
慌てて香澄が後を追うも、やはり予想通り会計は先に済まされてしまっていた。
「送っていただくのに、食事代まで出していただくなんて出来ません」
「年上の見栄だと思ってくれて構わない。私の方が稼いでいるわけだしね。まぁどうしても香澄が納得できないというなら……」
「納得できません」
「そう言うと思った。うん、それなら……」
まずはどうぞ、と助手席のドアを開けられて、肩透かしを食らわせられながらも素直に香澄が乗り込んだところで、車は静かに駐車場を出る。
そして、ひとつめの信号で止まったタイミングで、アッシュは「よし、じゃあこうしよう」と口を開いた。
「今度の休み……はもうすぐそこだから無理だが、2月の第二日曜日は空いているかな?」
「えぇと、14日ですね。はい、今のところは」
「なら、その日一日、私を楽しませてくれ。どういうスケジュールを立ててくれるのか、今から楽しみにしていよう」
「えぇっ!?私がシュナイダーさんを接待するんですか!?」
「いや、この場合会社の利益は絡まないから接待というわけではないんだが」
そう硬くならないでくれ、と彼は前を向いたまま苦笑する。
「休みになるとどうしても日ごろの疲れもあって寝て過ごすか……逆に身体を鍛えるためにとジムに顔を出すか。だから正直、遊びに行く場所にそれほど詳しくはなくてね。たまにケヴィンに強請られるんだが、動物園や遊園地に行くくらいだろう?なので、この機に色々教えてもらえたらと思ったんだ」
「えぇ、まぁそういうことでしたら」
香澄もそれほど詳しいわけではないが、一般的な流行のスポットくらいなら案内することはできる。
雑誌やインターネットでも人気スポットは紹介されているし、事前に天気予報を確認した上で室内にするか屋外にするか場所を選んでもいい。
「それじゃ予定を立てておきますね。あからさまに子供向けじゃなくて、でもケヴィン君が楽しめそうな場所、というならある程度絞り込めそうですし」
「ん、ケヴィン?」
「はい」
「どうしてケヴィンに限定する必要が?」
「え?」
「うん?」
どうやら互いの認識に行き違いがあるらしい、とようやく二人は同時にそこに気づいた。
香澄はケヴィンが行く前提で話を進めているし、アッシュはどうしてそこでケヴィンが出てくるんだと心底不思議そうだ。
(あ、あれ?お休みの日なら、てっきりケヴィン君も一緒だと思ったんだけど)
これは接待じゃない、と彼は断言する。
その上で、休みの日にどこに出かけたらいいのか色々教えて欲しい、とも。
それなら当然、同じ休みで家にいる愛息子も一緒にと考えて何がおかしいのか。
「あの、もしかしてその日はケヴィン君どこかにお出かけですか?」
「いいや?今のところ家にいる予定だが。まぁ、休みになると始終リリーナが入り浸っているから、あれに任せておけばケヴィンがぐずることもないだろう」
「はぁ、それはいいんですが」
香澄はてっきり、ケヴィンを連れて行ける場所を教えて欲しいと言われていると思い、それなら人ごみは避けた方がいいかとあれこれ考え始めていたのだが、そうではないとわかって戸惑うばかりだ。
対してアッシュは、この行き違いに気づいて困ったようにため息をつく。
「私としては、カスミを個人的に誘っているつもりだったのだが……」
「え、えぇと…………あはは、すみません、勘違いしちゃって」
反応に困った香澄は、とにかく笑って誤魔化せとばかりに乾いた笑いでそれに応える。
アッシュの意味深な台詞をいちいち真に受けていては、精神衛生上非常によろしくない。
ここは誤魔化すに限る、日本人特有のファジーな笑いで適当にまぜっかえしてしまえばいい。
「それじゃ、14日は私こと桐生香澄が張り切ってシュナイダーさんをご案内しますね!」
「……だから接待ではないと言うのに」
空元気の裏に潜む切ない想いに、どうやらアッシュは気づかずに誤魔化されてくれたようだった。
「それではカスミ、部屋に戻ったら一言だけでいいから連絡を」
「はい、ありがとうございます」
連絡が来るまで前で待っているから、と彼は車の窓から顔を出してそう告げる。
とにかく部屋に入るまで安心はできない、念のためそこまで用心するようにと彼女は伯父やら伯母やらからきつく言い含められている。
なのでこのアッシュの申し出も、素直に受けることにして彼女は「おやすみなさい」と身を翻した。
その背に、「カスミ」と声がかかる。
「2月14日は何の日か、まさか知らないわけではないだろう?」
「バレンタインですよね。わかってます、ちゃんとケヴィン君の分も含めてチョコの準備しますから」
「……チョコレートの習慣があるのは日本くらいなのだが」
最後の呟きは聞かなかったことにして、香澄が今度こそマンションに戻ろうかと踵を返しかけたその時
「14日のデート、楽しみに待っている。……おやすみ」
囁きは、白い吐息と共に真冬の空気に溶けて、消えた。
どうにか部屋に無事入った香澄は、戻りましたとLINEで知らせてからスマホの電源を落とし、去年の誕生日に芹香に貰ったバカでかいクッションの上に倒れこむ。
(うわああああああああっ、イケメン滅べ、美形退散、リア充爆発しろっ!!)
あの最後の囁きはずるい、あれでは誤解してくださいと言わんばかりだ。
ただでさえドキドキと終始鼓動が速まって大変だったのに、とどめにあの台詞ではその気のない者まで落ちてしまいそうだ。
「ずるい、なぁ……」
次の相手は山崎以上のイケメンで!と高望みする気はさらさらなかった。
というより、たまたま勧められた相手がイケメンだっただけで、香澄はもともと自分の普通スペックに見合った相手を選ぶつもりだったのだ。
彼女自身、頑張ればまぁそこそこになる程度の凡人だと自分をそう評価しているし、そこにイケメン山崎が絡んできたからあれこれとややこしいことになっただけで、ごく普通のスペックを持った貧乏しない程度のフツメンと恋をして、家庭を持って、そこそこ幸せな人生を送れたらいいなぁなどと夢見ていたりする。
なのに実際はいともあっさりとアッシュに落ちてしまったし、今もこうしてその一挙一動に振り回されっぱなしだ。
「…………よし、最高の『接待』にしてやろうじゃないの」
いつまでもうじうじ悩んでいるのは性に合わない、とばかりに彼女は気合を入れて巨大なクッションから身体を起こし、どうせすぐ眠れないだろうからとインターネットで流行のスポットを検索し始めた。
『だから接待ではないと言うのに』
という幻聴は、聞こえなかったことにして。




