10.過去のツケ、忘れているのは貴方だけ
「まだだ、まだ立て直せる」
そう力強く言ったのは、元営業部のエリート課長であった笹野英治。
彼は言う。
確かに独立起業したのは西園寺家の資産あってのことだったし、西園寺恭一個人の働きが大きかった。
だが結果的に損を出したとはいえ、あのプロジェクトを一緒になって作り上げてきたメンバーがここに4人残っている。
バラバラになってしまった部下達も、ある程度会社を立て直して心機一転やり直すと声をかければ、きっとまた戻ってくるに違いない。
だから、まだ諦めるのは早い、西園寺がもしこのまま抜けてしまっても俺達だけで成し遂げられないことじゃないだろう?
その言葉に、薔子の目の奥の生気が少し戻った気がした。
「そう、だよね……まだ、やり直せる。私達、4人がいるなら」
「ああ。早速明日からまずは新しい企画を練ろう。滑川、すまないがしばらくここを借りるぞ」
「かまへんよ。俺も元々そのつもりやったし」
「なら俺は資材の調達だな。なにはともあれパソコンがないと始まらない」
「うん。……やろう」
こうして4人は、西園寺が引きこもってしまったという現実から無理やり目を背け、風前の灯と化している自分達の砦を守ろうと、決意を新たにした。
まではよかった。
だが、買出しに言ってくると笹野が滑川のアパートを出たその後。
呼び止められて振り向くと、そこにはここ最近しばらく顔を見ていなかった、だがよく見知った女がいた。
面倒だな、と笹野は顔をしかめる。
無視して先を行くこともできたが、彼女と交わした契 約上あまり無碍に扱うこともできない。
仕方なく彼は向きを変え、どうしたんだと相手に問いかけた。
その面倒臭さを隠そうともしない態度に、しかし女は気にした様子もなく「お久しぶりですね」と笑う。
「3ヶ月……いえ、もっとかしら?貴方が家に帰らなくなって」
「新規プロジェクトから独立起業して忙しい、と伝えてあったはずだが」
「ええ、家政婦から聞きました。でもそのお仕事、大失敗したそうですわね」
「…………嫌味か」
「あら、どうしてそう思われたのかしら?」
食えない女だ、と笹野はぎりっと歯を噛み締めた。
だがこういう性格でないと、彼の【妻】は務まらない。
……そう、この一見清楚風な美人の名は【笹野 美香】といい、戸籍上は笹野英治の妻と記された女性である。
ただしあくまでもお飾りの、戸籍上だけの、政略上の、という前提ではあるが。
笹野の生家は普通のサラリーマン家庭だったが、祖父が政治家だったこともあり家には何人もの政治家が出入りしていた。
その中の一人が早くに亡くなり、残された孫娘を笹野の祖父もたいそう可愛がって見守ってやっていたらしい。
その孫娘というのが、この美香である。
彼女は何人かの政治家の後見を受けて国立の大学を卒業し、そしてそれが当然の流れであるかのように笹野英治と婚姻関係を結んだ。
とはいえ彼は既に高梨薔子という至上の相手を見つけていたため、互いに不干渉、浮気は容認、家計はそれぞれ別にすると取り決め、形だけの夫婦関係ということで美香を納得させていた。
それでも最初の頃は週に1度は家に帰っていたし、休みも家にいることが多かったのだが、段々と形だけの妻を気遣うのもバカらしくなったからか、仕事を理由にあまり家に帰らなくなってしまった。
彼女とこうして顔を合わせるのは、新規プロジェクトの開発チームとして選ばれ、意気揚々と出社したその日以来だろうか。
いや、もっと会っていなかった気もする。
彼女は、彼にとってはどうでもいい部類の人間だったからだ。
「貴方もお忙しいようだし、手短にお伝えしますわね。これを」
「なんだ?……手紙?」
「あら、あらあらあら、うふふ」
手紙ですって、と美香はころころとおかしそうに笑う。
笹野が手渡されたのは、美香が愛用しているらしい海外のブランドものの香りつき封筒。
厚みはそれほど感じられないことから、彼は恨み言でも綴った手紙でも入っているんじゃないかと推理したわけだが、どうやらそれは邪推であったようだ。
開けてくださらない?と促され、警戒しつつも中の紙をつまんでみると、予想よりも薄っぺらいカシャカシャと音がする質のあまり良くない紙であることがわかる。
摘み上げて、最初に見えた色は緑。
次に見えたのは、【離】という緑色の文字。
(まさか、これは……っ)
ガサッと一気に封筒から抜き出してみると、それは予想通り……妻の欄も証人の欄も全て埋まった【離婚届】だった。
「最初にお約束しましたわね?形だけの夫婦、相手には干渉しない、だけど定期的に家に戻ってきて子作りには協力する、と」
「それは、だから仕事が」
「わたし、先日25歳になりましたの。そろそろね、本気で子供が欲しいんです。でも貴方には大事な大事なお仕事があるでしょう?いい加減、待つのは疲れましたの」
だから、お別れしてくださいね、とあくまでも穏やかに【妻】は言う。
彼の心は勿論【妻】にはない。
形式上とはいえ妻の方から別れを切り出されたことに、彼のプライドは酷く刺激されたが……それでもこれ以上面倒なことで束縛されるのは御免だと、と彼は手帳を下敷きにしながら夫の欄にサインする。
それを見届けて、封筒の中に元通りきちんと折りたたんだその紙を仕舞い込むと、美香はうっとりと、彼の前では一度も見せたことのない幸せそうな笑みを浮かべた。
「ああ、やっと……そう、やっとですわ。ちょっと戸籍にバツがひとつついてしまいましたけど、それに再婚できるのは女性は半年後になりますけど、でもやっと愛する方と一緒になれるんですね。やっぱり、せっかく産むのなら愛する人の子を産みたいですもの」
「……なんだって?」
聞き捨てならない、と笹野は表情を険しくして美香を睨みつけた。
この結婚自体は笹野の祖父が提案したものだが、決めたのは美香自身だ。
笹野のおじいさまの孫、英治さんと結婚します、とそうはっきりと宣言したのは彼女だというのに。
その宣言に、これまで彼は囚われ続けてきたというのに。
(よりにもよって、愛する人の子を産みたいだと?……ふざけるな)
美香が英治を選んだのではないのか、彼の子を産みたいと願ったのではないのか、だから最初に子作りに協力するという約定を結んだのではないのか。
それを問うと、彼女は「あら、だって」と全く表情を変えずに言い返してきた。
「笹野のおじいさまには本当にお世話になりましたし、ご恩返しという意味でもあの方のご期待に沿えればと思いましたのよ。でも貴方は約束を守ってくださらないし……行くのは年ばかり、というのも嫌でしょう?」
「…………ふん、好きにしろ」
「ええ、そうさせてもらいますわ」
それでは、と去りかけて美香は一度だけ振り向いた。
「……頭のいい方だとばかり思っておりましたけど……存外抜けておいでですのね。貴方は本当に、ご自分の実力だけで課長職にまでのぼりつめたと思ってらっしゃる?貴方の折衝相手が、貴方の後ろに『政治家笹野英一郎』を見なかったとでも?紹介してくださった相手先が、『習志野先生』や『上総先生』とは全く無関係だったと本気でお思い?全てがご自分の実力であると?…………なら、その実力で這い上がってごらんなさい。楽しみにしておりますわ」
「……笹野はそのショックで寝込んでしまった」
「……………」
香澄はもう、何も言えなかった。
言いたくても物理的に言わせてもらえないのだが、もし口が自由だったとしても恐らく何も言えなかった。
(あの二人が……よりにもよって、私をあの会社から追い出したあの自信家な二人が……こんなに紙メンタルだったなんて)
西園寺は、実家での没落宣告からの元婚約者の幸せ結婚会見、しかもその元婚約者は実は『Sai-Sports』の筆頭株主である会社社長の娘であった、というトリプルコンボで撃沈。
笹野は、己が散々おろそかにした上最初に交わした約束すら忘れ、ついには離婚届をつきつけられるわ、実は最初からお義理の結婚だったとカミングアウトされるわ、とどめに彼の築いてきた実績はその陰に祖父や【妻】の後見人達の威光があったからだと知らされ、あえなくノックアウト。
確かに、普通の精神を持った一般人でもこれはかなりキツい。
とはいえ彼らは誇り高く、負けず嫌いで、人一倍上昇志向の強い、彼ら曰くの最高のチームであるはずだ。
なのに、どうしてか。
彼らは本当の逆境、というものに全く免疫がなかったのだろう。
誰かを追い出すことはあっても、追い出されることはなかった。
誰かを見下しても、見下されることはなかった。
誰かを捨てても、捨てられることはなかった。
周囲の環境が、彼らのスペックが、プライドだけ人一倍高い、上昇志向の強い彼らを作った。
だが、一度も叩き折られたことのないプライドは、ひびが入って壊れるのもあっという間だった、ということだ。
「…………俺達が守ろうとしていたのは、砂上の楼閣……虚しいものだ、崩れたら後には何も残らない。そんなものに必死にしがみついて、己を誇って、誰かを傷つけたことにすら気づかずにいた。だが、香澄……俺は君に会えて」
「で、その自己陶酔極まりない告白は、一体いつまで続くんだ?いい加減にしねぇと、せっかく抑え込んでるそこの娘が、痺れ切らして暴れ出しちまうぞ」
(この声……っ!)
聞き覚えのある、第三者の声。
張りがあって力強い、その威圧感ある声に安堵を覚えたのはきっとこれが初めてのことだ。
とはいえ、暴れだしちまうとはまた随分失礼な表現だが。
「っ、誰だ!?」
「おいおい。自分のやってることさておいて『誰だ』はねぇだろ、山崎純也。俺はそいつの臨時保護者代理だ」
ほら、わかったらとっととそいつを放せ。
掛けられた言葉に驚いたのか気が抜けたのか、緩んだ腕から抜け出した香澄はその声の主のところまで駆け出そうとして、だが足に力が入らずへたりこんでしまう。
なにやってんだとぶつぶつ言いながら手を貸してくれるが、引っ張り上げてくれるその腕は優しい。
「ったく、しゃぁねぇ。お前、後で説教な」
「……お手柔らかに、本部長」
「ばぁか。今は仕事中じゃねぇっつの。いつものように伯父様と呼べ、伯父様と」
「はぁ……ははっ。うん、ありがとう伯父さん。助かったよ」
「おう」
香澄の従姉である野宮芹香、彼女の旧姓は白銀という。
このことからもわかるように、芹香の父親でありやり手弁護士白銀杏子の夫でもあるこの男、白銀斗真は紛れもなく桐生香澄の伯父である。
正確に言うと、香澄の父の姉である杏子が白銀家へ嫁に入ったということだ。
とはいえ仕事中は伯父も姪もない、ということで赤の他人の顔で互いに接しているが。
「あー……あのバカにも事情を聴きたかったんだが……逃げられちまったな」
「…………」
振り向くと、もうそこに山崎はいない。
香澄が白銀に助け起こされている間に、いずこかへ駆け去って行ってしまった。
(忠告に来てくれたってことだよね、これって)
彼女がその腕を抜け出す直前、白銀に聞こえないほどの小さな声で「滑川に気を付けろ」と囁かれた声が、頭に鮮明に残っている。
本題に入らずいつまでも『俺達の人生波乱万丈伝』を語っていた所為で、肝心の本題については詳しく聞けていないのだが。
それでも、滑川陽一郎に気を付けろ、と注意を促されたことだけはわかった。
それは彼の最後の誠意か、最後まで言葉にしなかった彼の謝罪の意志か。
いずれにしても、いつどこで何を仕掛けてくるかわからない相手である以上、これまで以上に警戒をする必要があるだろう。
「あれ、ところで伯父さんはどうしてここに?」
「芹香から連絡を貰ってな。いくら携帯にかけても電話に出ない、けど出先の連絡先は知らない、だから様子を見に行って来て、だとよ」
娘からそんな緊急連絡を貰った残業帰りの父は、ひとまずすれ違ったら困るからと姪の自宅マンションを訪れた。
そしてそこで、元婚約者に捕まっている香澄を発見し、ひとまず様子を見ようと物陰でそっと伺っていたらしい。
これだけ長身の男が物陰に隠れてこっそり路上を伺っている、という光景はともすると変質者かストーカーのようだ。
警察官が通りかからなくてホッとした、と彼は心底安堵したようにそう語った。
「あー、うん。なんかごめんなさい。でも山崎さん、話したいことがありそうだったから」
「なら喫茶店でもファミレスでも入りゃいいだろうが。なんでこんな路上で抱き合ってんだよ」
「だ、っ!きあってなんかいないってば。拘束されてたの、拘束!」
「バカかお前。あんな体勢とってたら、傍から見ればいちゃつくカップルだっつーの。襲われてんだかいちゃついてんだかわかんねーから、俺も出るに出られなかっただろうが」
(えー、そうなんだ?いちゃついてるように見えた、って……誰にも見られなくて良かったぁ)
伯父に見られたのは不可抗力だとしても、もし黒崎あたりが見ていたらきっと散々からかってきただろう。
それがリリーナなら、憤慨しながら「なに好き勝手にさせてるの!」とお説教コースが始まるだろうし、アッシュなら…………どうなっただろうか。
香澄の事情をある程度知っている彼のことだ、接触禁止の依頼を出しているにもかかわらずこうして会いにきた彼に、約束違反だと不快感を露にしてくれるだろう。
そして、拘束された香澄を気遣ってくれる。
特別好かれているんだと、誤解してしまいそうになるほどに彼は優しく、そして残酷だ。
(ダメダメ、今はそんなこと考えてる場合じゃないんだってば)
香澄は気を取り直し、白銀に山崎から聞いた話をダイジェストで打ち明けた。
「西園寺は引きこもり、笹野は寝込んでる。でもって山崎はチームを抜ける気か……抜けた後か。ったくなぁ、香澄が狙われるってんなら自分が責任持って守れってんだ」
「狙われる……のかな。私、特に滑川さんとは接点なかったんだけど」
「阿呆。その高梨薔子って女絡みで、お前の仕事を取り上げたのはそいつも同罪だろうが。逆恨みだろうがなんだろうが、お前にいい感情を持ってないことくらいわかるだろ?」
「それはわかる、けどさ」
どうして今になって、何故香澄を狙うのか、それがどうにもわからない。
そもそもの発端は、香澄が山崎との婚約破棄を突きつけたこと。
しかしそこには山崎と薔子の関係ありきだったし、その破棄の後に薔子に考え直すようにと直談判されたのを断ったことで、逆恨みされて仕事を干されてしまったことに関しては、完全に香澄が被害者である。
その後彼らがシュナイダー社にプレゼンを持ち込み、そして上げて落とすというよくある手法で断られたことも、発売したソフトが大コケして大打撃を被ったことも、香澄には直接関係のないことだ。
「一般的な価値観を持った俺らじゃ想像もつかねぇ、高尚な理由かもしれねぇだろうが。だったらひとまず、自衛することだけ考えてろ。しばらくは俺に同行してもらうから、帰りは送ってってやる。休みはできるだけ出歩くな。もし出歩くなら誰かに来てもらえ。いいな?」
明確に見えない悪意ほど怖いものはない。
香澄はため息交じりに「わかった」と答え、長引きそうな緊張感にひとつ身震いした。
笹野、ショックで茫然自失ED。




