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世界シリーズ

世界は縮小中です。だけどね、

作者: 睦月山

 真っ黒な波。それが大魚の囗のように男を飲み込む。肺から空気が漏れ、荒れる海に気泡をつくった。


 ――くっそ。俺は海の男だぞ!


 こんな所でくたばるのはあまりにも趣がない。

 空気を求め、何とか上へ上へと水面に手を伸ばす。


 ――こんな所で……〝あれ〟に呑まれて終いなんてごめんだ!


 心の底でそう叫ぶ。

 自分の最後くらい、自分で決めたい。こんな世界に生きるからこそ。乙だと思えるような、最後を望む。


 文字通り必死に体を動かして、水面上に顔を出してはさらなる高さの波に押し返される。それでも足掻く。諦念も苦しみも恐怖さえも心に浮かばないほど、足掻き、足掻き続け――。


 一つの島に辿り着いた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 一人の青年が現れた。学生帽を被った生真面目そうなその青年は首を傾げた。


「世界とは?」


 通りがかった一人の商人が応えた。


「そんなの誰も知らないぜ。世界は余りに広いんだ」


 しばらく行くと小さな村があった。畑仕事に精を出していた農民に問いかける。


「世界は広いのか? 見たことがある者はいるのかい?」


「世界? そりゃあきっと広いさ。見たことある者? あんたの目の前にあるじゃあないか」


 さらにいくと町があった。

 そこに遊んでいたいた幼子に尋ねる。


「世界を測ったことはあるのかい?」


「お兄さん、なに言ってるの。世界は広いんだ。大きくて大きくって。だから測ることなんてできないよ」


 一日歩くと大きな街があった。

 青年は露天商に声をかけた。


「君の世界はどんなものだい?」


「俺の世界? 俺にとっちゃこの街が俺の世界さ。ここから出たことがないからな」


 青年は今までとは異なる答えに、しかし会得がしたように頷いた。


「世界はどれだ? 世界は狭いか? 世界はどこまで続く? 君は世界をどれだけ知っている?」


 青年は問う。問い続けた。


 世界は人によって違った。狭いと答える者もいいや違う、と首を振る者もいた。細部まで認知していたり、曖昧にしか答えられなかったりした。


 しかし人々の生きる世界は必ず世界(この惑星)よりも小さかった。


 最後に一つ。彼は問いかけた。


「――この世界(惑星)は些か大きすぎはしないかい?」


 青年の前には人はいない。


 けれど青年は耳をすませ、そして――満足そうに頬を持ち上げた。


「人の世界は人によって違っても、小さくても、世界(惑星)は変わらない。不変は安心をもたらすが、やがて頓着されなくなってしまうのではないかい? それは寂しいことだと思うがね」


 風が吹いた。


「では君、手始めに人のいない所からやってみようか」


 その場での変化は何もなかった。


 しかし、確実に。

 世界は存在感を示すように縮み。小さく、小さく。


 そうして世界は崩壊の音を鳴らし始めた。

 世界は消えようと、壊れようと、していた。



 『とある八十五年前の伝承より』


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「潮時……か」


 呟かれた独り言は波音にまじり、誰にも聞かれることなく消えた。


 言葉を吐いたのは見た目三十代前半の男性。実年齢もそれを裏切ることなく三十四。浅黒い肌にそれなりに筋肉のついた大柄な身体。刈り入れられた黒髪は風に揺らされることがないほど短い。服はTシャツに短パン。そして裸足。ひたすらシンプルに、味気なく、素っ気なさそうに。


「潮時……かぁ」


 再び、独り言。

 本人の記憶にのみ浅く刻まれ、また消えた。


 潮風に吹かれて、潮時をむかえる。なかなか乙ではないか。


 青い海を眼前に、白い砂浜を足で踏みしめ、鮮やかさのない〈世界崩壊の兆し〉を背に。そんなことを思った。


 〈世界崩壊の兆し〉。〝それ〟は八十九年前の九月十一日に太平洋の中心辺りに発見された、その名の通りの世界の崩壊だった。鮮やかで繊細だったはずの世界はビット数が小さい昔のテレビゲームの液晶画面のように、歪んで、崩れていった。〝それ〟は世界を同心円状に広がっていき、そして万物を飲み込んでいった。


 崩れた向こう側からは何一つ戻ってはこなかった。


 海面が上昇してある国が沈むと言われても、あと百年で資源が尽きると言われても揺らがなかった人類は初めての目に見える世界(じんるい)崩壊に怯えた。

 それから、四十年後。つまりは今から四十九年前。〈世界崩壊の兆し〉は大陸に到達した。世界一の大国を徐々に蝕み、極東の島国を三十年と少しをかけて飲み込み……。


 そして今。地元民以外は誰も知らないような無人島に迫っていた。


 ごろりと男は件の無人島の砂浜に寝ころんでみた。背中が焼けるように熱い。先ほどまであれほど荒れ狂っていた空は恨めしいほどに青く、高かった。まるで何事もなかったかのように澄ましている。そこで輝く白い太陽が眩しかった。


 陽光から逃げるように瞑目。途端、世界が暗くなる。


 残った五感のうち、聴覚を研ぎ澄ます。


 ――波音。風の通る音。木々のざわめき。砂浜のキュッキュッと擦れる音。


 ――擦れる? 海鳥でもいるのか? こんな所に?


 否。


「おじさん、こんな所で何してるのよ」


「うおっ!」


 人間だった。


 目を開けると、空を遮るように一人の少女がこちらを覗き込んでいた。齢はおそらく十代後半だろう。服は薄汚れ、端が草の青に染まっている白色のワンピース一枚のみ。細かい傷が無数にある足にはビーチサンダルを引っかけていた。若々しさがおじさんには眩しい。なんだか気後れする。


「一人でバカンス? 寂しい人ね」


「バカンス? この状況が? そう見えたなら君はかなりの楽観主義者だな」


 世界崩壊が近づいてきているというのに。


 が、崩壊中の世界に生きる楽観主義者というのもなかなか乙なものかもしれない。


「私はパグラ。おじさんは?」


「俺か? 俺はラスタだ」


「ふーん。おじさん、隣座ってもいい?」


 名を聞いたのに呼ぶ気はないらしいパグラにラスタは苦笑しつつ、どうぞ、と促す。


「いい天気になったわね」


「まぁ、そうだな」


 まるでここが近所の道端のように思えてくる。

 会話は自然と続いた。


「君は何してるんだ、こんな所で」


「お散歩って答えたいところだけれど……別に何もしてないわ。置いていかれちゃったのよ」


 パグラは海を睨みつけていた。細めた目で世界を射る。しかし囗調は何のこともないようで、ちぐはぐな印象を受けた。


「もともと〈世界崩壊の兆し〉に国が呑まれてしまうからってことで船で逃げてたんだけど、休憩のために一時、上陸していたここに置き去りにされたの」


「……何故?」


「なぜって、さぁ? 口減らしのためじゃないかしら。でも恨んでなんかいないわよ。こんな世界で私をここまで育ててくれたんだもの」


 右手を胸にあて、そう言った。


 今、世界(人類)は慢性的な食料不足に襲われている。減っていく大地と海。人囗も減少傾向にあるが、それでも追いついていない。改善の見込みは全くなし。そういう意味では慢性的ではなく、永遠的な食料不足、と言った方が良いのかもしれない。

 また国が管理して行われる以外の〈世界崩壊の兆し〉からの退避も最近では少なくない。世界崩壊を前に土地的な意味でも、政治的な意味でも崩壊してしまった国はすでに数え切れない。


「しかし俺から見ると酷い人だと思うがね」


 ラスタとしては大真面目にそう言った。腕を組んで少しくらいは威厳を醸し出していたはずた。それなのに、パグラは何が可笑しいのか口で弧を描いていた。


「ふふっ。おじさんはどうしてここにいるの? そんな酷い人たちに置いていかれたのかしら」


「〝あれ〟から逃げていたのは同じだ。さっきの嵐で船がひっくり返って、流されてしまったんだ。さっさとこの島で代わりとなる物を見つけて脱出したいが、〝あれ〟が島の反対側まで迫っている。大陸に着くまでに追いつかれることは必至だ。残念ながら俺は才能(ギフト)持ちではないからなぁ」


 ――才能(ギフト)持ち。


 その言葉を聞き、脳裏に現れたのは二十(はたち)ほどの男と女だ。ラスタは思わず、頬を弛ませる。


 が、しかし。


 その言葉を聞いた途端、ひくっとパグラの口の端が引きつった。


 〈世界崩壊の兆し〉と同時期に時々生まれるようになった強靭な身体を持つ者のことだ。

 驚異的な身体能力を兼ね備え、幼子でさえも鉄を曲げ、三メートル跳び上がり、五十メートルを六秒で駆け抜ける。

 一時期は〈神が遣わし者〉だと崇められたりもしたが、ある一人の才能(ギフト)持ちが起こした無差別殺人事件によって疎まれる者へとあっという間に変化した。しかしその事件からもすでに七十年近く経って次第に悪意のある風評も薄れている。そのはずなのだが……。


才能(ギフト)持ち……ね。ふーん、おじさん異常種とは呼ばないのね」


 常とは異なる種類。もはや人間という部類に区別されないとする才能(ギフト)持ち達への蔑称。つまりは差別用語だった。


「……まだそんな言葉が残っているのか」


 苦々しくラスタは吐き捨てた。


「なんで? だって気味が悪いじゃない。まるで獣みたい。いっぱい食べるから食料も減るし、怪物か化け物か……間違っても神様が遣わした存在なんかじゃないわ。実際世界はこの通り……」


 パグラは後ろを振り向いた。


「世界は崩壊中よ。どんどん小さく小さくなっていっているんだから。だから、異常種なんて気味悪いものでしか……」


「おい」


 次々と出てくる軽蔑的な言葉にラスタは我慢ならず、囗を挟んだ。


「お前が才能(ギフト)持ちを恨んでいる、なんてことは知らないが、少なくとも俺は俺が才能(ギフト)持ちに感謝しているのは知っているんだ。はっきり言って不快に思う」


「感謝……?」


 パグラは言っている意味が分からないように眉をひそめる。


「おじさん、感謝しているの? 異常種に?」


「あぁ、感謝している。才能(ギフト)持ちに」


 パグラは右手を胸にあてたまま、微かに笑った。


「おかしな人ね」


「そうか?」


 ラスタは首をひねる。一部地域では差別が続いているらしいが、ほとんど取り除かれたものだと思っていたのだか……。


「ねぇどうして感謝なんかしているか、話をしてもらってもいいかしら?」


 別段、隠し立てすることでもない。

 ラスタは頷いた。


「俺がまだ九つの時だ」


 途端、ふふっと笑いが漏れた。声の主はただ一人しか考えられない。

 ラスタはじろりとパグラを見た。


「あら、ごめんなさい。おじさんにも子ども時代があったのよね」


「当たり前だろう。からかうな」


「話の腰を折ってしまったわ。でもさっきおじさんが寝っ転がっていたとき死体が打ち上げられたのかと思って、私大分驚いたのよ。これでお相子だと思ってね」


「何が相子だ」


 はぁ、とラスタはため息をついたが、パグラに促されたので話を続ける。


「俺は貧しい漁師の家の四男でな。三人の兄と一人の妹がいた」


「ふーん、面倒くさそうね」


「あながち間違ってはいないがひどい感想だな。でも悪いことばかりではなかったさ。兄は遊んでくれたし、妹は可愛かった。パグラは一人っ子か?」


「まぁ、兄弟でも姉妹でもなかったから……うん。一人っ子ね」


「……? とりあえず話を続けるぞ。九つの頃には一番上の兄はもう十七でな。もう一人で漁に出れる年齢になっていた。それに同行したある夏の日のことだ――」


 ◇◇◇


 ギラギラと照りつける太陽の下。

 キラキラと反射する海に一つの船が浮かんでいた。波に揺られ、上下に動くその舟はエンジンも積んでおらず決して大きなものではない。


 舟の上に人影二つ。


「リロ兄、待ってよ。網がまだ……」


「はぁ、まだかよ。さっさとしろ。売り物を傷つけんじゃねぇぞ」


「う、うん」


 兄の催促に九つのラスタは頷いた。


 だが、揺れる舟の上では手がうまく動かず、さらには魚がビチビチと動くので、なかなか網からはずれてくれない。

 魚をいつまでもいじくっているラスタに我慢ならなかったのかリロがとうとう手を出した。網を奪うと手際よく魚を取り外していく。


 それを尊敬の眼差しで見つめるラスタにリロは呆れて言った。


「〝世界崩壊の兆し〟様のお陰で漁業をやってる人も減るし、勝手に魚を獲ってく奴も増えたし……。ともかく俺たちゃあ、てんてこ舞いなんだ。これくらいさっさとやってくれなきゃ、困るんだよ」


 ラスタは首を縮めて頷く。リロはそんな弟の頭に手をおいた。次いでくしゃくしゃと髪をいじった。


「う、わわ」


 撫でてくる手を捉えようとラスタは頭に手をやるがリロの掌は蛇のようにそれをするりと避けていく。躍起になって追いかけるラスタの顔にはえくぼがきっちり刻まれていた。

 リロは最後に一つ、軽く頭を叩いて手を引いた。見上げるラスタとしっかり目を合わせる。


「湿気た顔なんてしてるなよ。笑ってろ。兄ちゃんはお前には笑顔でいてほしいんだよ」


「それはリロ兄のお願い事? この前のお祭りでちゃんとお願いした?」


「神さまに願うほどじゃないんだ。望んでいるだけなんだから」


 ラスタには違いが分からなかった。

 けれど、


「じゃあ僕が叶えてあげる!」


 自分が望みに応えられるということは分かった。

 満面の笑みでそう宣言をする弟にリロは最初、目を丸くしていたが、たまらず吹き出した。






 ラスタの住む島は二、三の集落がある。奥に行けば熱帯雨林が広がっており、ラスタの家ではそこで採れる果物と海の魚、隣人からもらう穀物を食べて暮らしていた。

 果物を採るのは専ら母と妹の仕事なので男共は海に出ている。男の中で最少年のラスタはまだ一人で漁に出たことはなく、兄に付いて仕事を覚えている最中だった。と、いうのもここらの海は潮の流れがわりと複雑で、うまく流れを読めなければ行き来が難しいのだ。だから、


「ど、どうしよう」


 だから、沖に流され、岸に戻れなくなっているこの状況もある意味必然なのである。

 家族のために浅瀬で魚を捕ってきてみようと思ったのだ。きっとみんな喜んで、笑ってくれるに違いないと思った。が、今頃はきっと遊びに行ったっきり午後の仕事に戻ってこないラスタを探していて笑顔とは程遠い顔に違いない。

 父と母はきっと心配している。妹は泣いていないだろうか。兄たちはサボったと怒っているかも。

 そんな考えがちらりと頭をよぎったけれど、今のラスタにそう多くの余裕はなかった。


 いつもは開放感溢れる広い海。それが今、とても空虚で恐ろしいものを孕んでいるように見えた。


 オロオロしながら焦りで震える手で舟を動かそうとするが、うまくいかない。岸がどんどん遠く、遠く……。


「うっく、う……」


 視界が溜まった涙でぼやけ始める。慌てて手でごしごしこすった。


「僕は男なんだから。これくらい、できるんだから」


 必死でそう自分に言いきかせる。


 けれどやはり舟は言うことを聞いてくれなかった。焦りと不安に震える体も思ったように動かない。自分の体と心がバラバラになっていくよう。

 ラスタはもはや涙を流しながら、舟にしゃがみ込んだ。ひたすら流れ出てくる滴を拭って……。


 ふと。

 場違いなほど明るい声が聞こえた。


「うーんと……あっち! いや、こっちかなぁ? でも向こうな気もするねぇ」


「おい地図見ろよ」


「見てるよ! でもこれどっちが北?」


「あぁ、もう貸せ! 俺が見る」


「あ、あっちに舟があるよ。人も乗ってる。あの人に聞けばいいよ。すみませーん!」


「あ、おい。勝手に動かすな」


 ざぶんっ。


 いきなり大きく波打ち、舟が上下に揺れた。ラスタはしゃがみ込んでいた状態から尻もちをついてしまう。


 なんだなんだ、と涙も忘れて顔を上げる。すると、


「わ、わあっ!」


「こんにちは!!」


 先ほどまで遠く響いていたはずの声が目の前から聞こえた。


「地元の子かな? この辺り、詳しい?」


 口をパクパクさせているラスタのことなど全く頓着せず、舟の前方に立つその女は首を傾げ、尋ねた。肩甲骨あたりまで伸びる茶褐色の髪がさらり、と音をたてた。


「おい、そいつは子供だ。よそ者と話すな、くらい言われてるだろう。無理言うな。が、なんだかお困りみたいだが……」


 続いて舟の後方から男の声。

 金色の髪を潮風に揺らしながら、右手の地図と左手の方位磁石の上で緑の瞳を忙しなく動かしている。


「あ、えと。さっきまで遠くに……」


 ようやくラスタが口に出きたのは質問の答えではなく、自身の疑問だった。


「あ、それは……ほ、ほら! お姉さん、力持ちだから」


 ぐっと女性は挙を握り、力瘤を作ってみせる。

 はぁ……、と若干納得がいかないまま、ラスタは頷く。見苦しいであろう涙と鼻水を拭って、問いかけた。


「どこに行きたいの?」


 この辺りは自分の庭のようなものだ。潮の流れはまだ掴めてはいないけれど、地理的なことならどんとこいだった。


「えっとね……」


 女は曖昧に笑って、


「〝世界崩壊の兆し〟ってどっちの方向にあるか分かる?」


 そう尋ねた。


 ラスタは衝撃に言葉を失い、それから飛び出そうとした言葉をぐっと呑み込んだ。そろりと櫂を持ち上げて、距離をとろうと、


「大丈夫だ。突っ込んだりしない」


「え」


 こちらをちらりとも見ていなかった男の声だった。


「ミームの言葉が悪いっつーの。なあ、君。ひとつ言っておくけど俺たちは狂人でもハムチャック教徒でもないからな」


「ち、違うの?」


 ――ハムチャック教。

 〈世界崩壊の兆し〉を〈新たなる世界の創造〉だと考え、「世界崩壊」を「神による救済」だとみなした貧困層から生まれた新しい宗教だ。

 彼らは〈世界崩壊の兆し〉の向こう側を目指し、神の名を叫んでこの世界から去っていく。


 誤解されていることに気がついたらしい女――ミームといったか――が慌てて首と手をぶんぶん振る。


「ち、違うよぅ! 私たちは敵を見定めにいくんだから!」


「敵?」


 ミームがへんっと自慢げに胸を張った。


「そう私とティガの世界を脅かす敵! 一度くらいお目に掛かっておこうと思って」


「……まあ、大筋は間違ってないか」


 呆れ顔で男――ティガ――が呟いた。そして視線を上げ、


「で、どっちにあるのか分かるのか?」


 最初の問いに戻ってきた。


 それはもちろん分かる。近づく死に無頓着でいられる人などいるはずもない。

 ラスタは少しの迷いの末に頷いた。二人に狂気は感じられなかったからだ。


「でもだいぶ遠いよ」


「それは承知の上だ」


 ラスタは父から教わった知識を糧に二人に説明した。大体の方角。目印となる島や珊瑚礁。行く潮の流れ。それから危険な魚に嵐の予兆も全て教えた。


「なるほどな」


 全てを記憶したらしい男は一つ頷き、地図に何やら書き込む。女の方は辺りをキョロキョロ見渡し、風や潮の流れを感じとろうとしているらしかった。

 やがて男は手をとめ、顔を上げた。きちんと顔と顔を合わせるのは初めてだった。


「助かった。感謝する」


「あ、ティガも終わった? きみも教えてくれてありがとう!」


「は、はい」


 二人は感謝の意を表して、それから世界の果てを目指す旅を再開しようと、オールに手をかけた。


「あ、いか……」


 いかないで。


 咄嗟にラスタの手がピクリと動いた。この二人が行ってしまったら、また一人ぼっちだ。どこまでも流されていってしまうかもしれない。けれど、この辺りに詳しくない二人に助けを求めたところでどうにもならない。人の力では到底、潮流に逆らうことなどできるはずもないのだから。

 こぼれた言葉を波の音に紛れさせる。いわばそれに掻き消されてしまう程の声の小ささだったのだが――。


「ん?」


 二人は揃いもそろって、その声を聞き取った。


「あ、いや。何でも」


「そういえば、きみ。こんな所で何してるの? 一人、だよね?」


「困ってるみたいだったしな」


 二人に言っても仕方がない。しかたがない。


 しかたがない、のに。


 こみ上がってくるものを抑えさえきることができない。


「うぅ……」


 ぽろり、ぽろりと。涙がこぼれてしまう。家に戻れないかもしれない。そんな不安に喉と目の熱が熱くなって、息苦しい。胸もぎゅーっとして痛い。


「え、何!? ティガが怖かったのかな? こ、怖くないよぅ!」


「はあ!? なんで今の状況でそう考えるんだよ、お前。大方……よっと!」


 男がラスタの船に飛び乗った。僅かに揺れはしたものの針に糸を通るような精密な重心移動で船はちゃぷり、と音をたてた程度だった。

 涙をこぼすラスタの頭に片手を置く。


「迷子か?」


「ま、迷子じゃない」


「ティガ違うじゃん」


 迷子ではないが……。


「帰れ、ない……」


「何でだ? 場所は分かるんだろ?」


「むりだよ。潮の流れが複雑過ぎるんだ。船がどこかで乗り上げちゃう」


 ごしごしと目を拭って鼻を啜る。


「ふーん。じゃあ私たちが連れてってあげるよ!」


「む、むりだって」


「大丈夫、大丈夫!」


 女はやけに自信満々だった。自身の船のオールを取り外し、両手で抱えて飛び乗ってくる。


「こっちのオールの方が丈夫だからね。ティガは後ろで蹴って」


「わかった」


 男は頷き、躊躇なく海へと飛び込む。


 二人のせーのっと軽い声とともに爆発的な速度で船は走り始めた。


「はやっ!」


 オールが勢い良く、水を搔く。さらに後ろでは男が足で水を蹴り、噴水のようだ。時折、潜って進行方向を確認しているようで、暗礁の位置を教えてくれた。


 船は潮をものともせず、猛烈な勢いで進んでいく。まるでエンジンを積んでいるようだ。風と水飛沫が焼けた肌を打ちつけて、陽光が煌めく。


「すごい、すごい!」


 子どもらしく涙も不安も忘れて、ラスタは興奮した声を上げた。


「お姉さんたち、すごいよ! 何でこんなに……」


 ピタッと静止。頭の中で導き出された結論は至極単純で簡単な者だった。おそるおそる、振り返る。


「異常種?」


 女は今までの笑顔とは異なる困ったような笑い方をした。


「異常種、は嫌かな。才能ギフト持ちって言ってくれると嬉しいけど」


才能ギフト持ち?」


「この辺りだとまだ偏見が根強いのかなぁ。異常種っていう呼び名は差別用語なんだよ。だから才能ギフト持ちって言ってくれると嬉しいの」


 漕ぐ手を止めずに女はそう言った。


「きみは私の力が怖い?」


 力のない萎れた菜っ葉みたいな声だった。ラスタはぶんぶんと首を振って、否定する。


「ほんと?」


「うん。全然こわくなんかないよ。だって僕を助けてくれたんだもの。命の恩人だもん」


「大げさだなぁ」


「そんなことない! 悪いことした女の人と子供は流されちゃうんだもん」


 二つ先の家。そこのおばさんは一年ほど前に村のみんなに流された。嫌だ、と泣いていたけれど、みんな目を背けていた。ラスタが尋ねてみても「悪いことをしたからだよ」としか返ってこなかった。

 女はラスタの言葉に驚いたように目を見開き、次いで悲しみに満ちた瞳で世界を見た。


「そっか……。世界はどんどん小さくなっちゃってるのにね。どうしてみんな、仲良くなれないんだろ」


 岸に近づき、幼いラスタでも足がつく浅さまできたところで船は動きを止めた。三人で降りて、船を引っ張る。砂浜に船底が黒い道を作って、波にさらわれないところで途切れた。

 一仕事を終えた三人はふぅ、と息をつく。


「もう大丈夫だね」


「もう一人で船に乗るんじゃないぞ」


「はい」


 二人は泳いで置いてきた自分たちの船まで戻るらしい。普通の人にとっては自殺行為でも、二人にとっては水場で泳ぐようなものなのだろう。


 羨ましかった。きっとその力があればリロの願いだって、何だって叶えられる気がした。


 

「……僕も才能(ギフト)持ちだったら良かったのに」


 ぽつりと雨滴のように言葉が落ちる。

 その言葉を受けて二人はやはり困ったように笑った。


「俺は」


 男は言う。


「君が羨ましい。普通の人が羨ましい。でもそういうものなのかもな。きっと自分以外が羨ましいんだ。人も世界も」


「なんか哲学的だね」


 その横で女が微笑む。


 ラスタは俯いた。

 酷いことを言ってしまったのかもしれない。

 そこに女が息をすっと吸いこんで、


「前向けー、前っ!!」


 突然の大声にラスタは肩をびくつかせ、言葉に従い、前を向いた。


「精一杯生きなよ、少年!」


 にかっと笑って、そう言った。

 二人の姿がやけにラスタの眼に眩しくうつり、焼き付いた。


 一時間ほどで過ぎ去った出会いと別れ。それなのにラスタは三十年後も忘れることができなかった。


 ◇◇◇



「ふふっ」


 いつかの二人が目指した世界の果てで笑い声がもれた。


「ずいぶんな泣き虫だったと見るわ。おじさん、子どもの頃は可愛かったんでしょうね」


「どうだか。自分では分からんよ」


 その後、家族に散々怒られてまた泣いたことは割愛して良かったとラスタは心の内でほっと息をついた。


「それにしても……」


 パグラがぽつりと言った。


「その人たちは、何をしたかったんでしょうね」


「さあ、分からない。分からないが、きっとまっすぐに生きていきたかったんだろう」


 もし彼らが生きていたらもう五十前後のはずだ。一体どこで、何が思って、何をしているのだろうか?


 パグラは服がしわくちゃになるほど胸にやった手を強く握って、口角を上げた。


「それで? おじさんはどうするのかしら? 生きるの?」


「生きてはいたいさ。だが、どうにもならないときはならない。潮時ってものがな」


「あら、案外潔いのね」


 少々肩すかしをくらったのか、パグラは意外そうな声を出す。


「まあ、これでも三十四年は生きたからな。それよりも君の方が潔すぎないか? まだ……」


「十六、明後日で十七になるわ」


 祝えばいいのか分からない情報を付け加えられ、ラスタは閉口する。からかわれているのだろうか。


「それは……おめでとう」


「どうも。素直なおめでとうではないみたいだけれど」


 やっとのことで捻り出した言葉も案の定、さらりとパグラは笑って受け流す。


「なら、なおさらその……足掻いてやろう、とか思わないのか? もうすぐ誕生日だぞ」


「そうね……」


 パグラはすぐそばに落ちていた技を手に取り、砂浜をに絵を描き始めた。生死ついての話など片手間で済むとでもいうように。


「もういいかな、と思っちゃったのよ。私はここにいるのが正解なの。足掻くなんてみっともないじゃない?」


 絵は完成したらしく、パグラはぽいっと技を投げた。


「ねえ」


 またもや返答に苦しんでいたラスタはその声に飛びついた。


「なんだ?」


「誕生日ケーキっていうものがあるらしいじゃない。こんな感じかしら?」


 砂浜をのぞき込めば、そこには丸い円の上に丸やら四角やらと細々としたものが描かれていた。

 ラスタは唸って、腕を組んだ。生憎とラスタも生まれてこのかたケーキ自体食べたことがない。


「イチゴがのっているとは聞いたことがあるがな……。ショートケーキといったか」


「ショート? ショートって何?」


「うーむ」


 二人でああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返す。

 作られた砂のケーキはいつの間にか両手で抱えきれず、天井を突き破ってしまいそうなほど大きくなってしまった。

 我に返った時には爪は土に汚れ、比喩でもなく子どもの土遊びだ。


「案外平生じゃないのかも……」


「ああ、まさかこんなに夢中になるとは……」


 パグラとラスタは巨大なケーキの前に座り込んだ。傾いた日が淡い赤橙色に世界を掻き混ぜている。〈世界崩壊の兆し〉はもう島の半分を呑み込んでいた。満潮がきて、波に掻き消される前にこのケーキは〈世界崩壊の兆し〉に食べられる。それはそれで乙なものではないだろうか。

 しかしその思いラスタだけしかなかったようだ。


 パグラは乾いた声で皮肉げに嗤った。


「世界ってザンコクね」


 パグラは泥にまみれた手の平を胸に当てた。何かを握りつぶすようにゆっくりと指に力を込めていく。

 草の青に染められ、あちこち解れた裾と心臓の在処を示すような土の汚れ。ラスタは人を食ったような態度を示す少女が初めて弱々しく思えた。


「大っ嫌い」


「たった十七年間で決めつけるのは早計じゃないか。俺はそうでもないがな」


「あら。たったの三十四年間で決めるのは早すぎるんじゃない?」


 弱々しいと思ったらすぐこれだ。ラスタは苦し紛れに言葉を返した。


「年上の言葉は参考にしていくものだぞ」


「参考、ね。やっぱりおじさんは変な人だわ。世界に一つ感謝するとしたら最後おじさんに会えたことかしら」


 貶されてはいないのだろうが、褒められた気もしない。敗者のため息をついて、ラスタは恨めしいほどどこまでも続く紺碧に目を向け――。


 幻。


「……いや」


 息をのんだ。


「最後なんて言うな。どうやら世界は俺達を見放してはいないようだぞ」


 遠い海上。しかし泳げば届くだろう。


 平穏な絵画の一枚のように一艘の舟がぷかりと浮かんでいるのを発見した。


「舟だ……」



 実が熟れるように赤らみを帯びた太陽と形容しがたい赤紫の空に点景された舟は夢幻の存在。

 しかし、音に出して初めてその幻想が現実となった気がした。確かにそこにある。


 さらにそれは数時間前までラスタが乗っていたものでもあった。忠犬のように主人の元に戻ってきてくれた舟にラスタは心の中で精一杯の賞賛を送った。


「奇跡だ‥‥。どうだ。この世界も悪くないだろう?」


「さあ、どうかしら。奇跡なんて、陳腐だわ」


 パグラの声は歓喜の色を少しも帯びていない。むしろ冷ややかさに満ちた声色だったが、興奮を抑えられないラスタはちっとも気がつけなかった。


「行こう。舟があるならまだ何とかなるかもしれないぞ」


「はあ!? おじさん、さっきは潔かったのに何言っているのよ。……いや、ある意味では潔いのかしら?」


 手の平を返したようなラスタの態度にパグラは呆れかえった。

 一方ラスタは心底なぜ分からないのか理解できないといった表情をパグラに向ける。


「生きる可能性があるんだ。それにしがみつかなくては精一杯生きたことにはならないだろう?」


「ものは言いようってやつね」


 パグラは肩を竦めて、言った。

 自分は関係ないような言い草だ。


「ああ、そうかもな。だが今は時間がない。話すのは後だ。行こう」


 ラスタはパグラの手を引き――思っていたよりも強い力に身体が前につんのめった。


 パグラが動かないのだ。


「何をしている?」


 振り返り、尋ねる。パグラはふるふると幼子のように首を振った。


「私、いかない」


「は? 死ぬ気か?」


 いかない、つまりは〝あれ〟に呑まれるのを受け入れることに他ならない。

 パグラはラスタの問い答えることはなく、胸に手を当て、固い顔しているのみだ。


 ラスタはパグラの深奥を探るように目を細め、そして訊いた。


「置いていった人たちを恨んでなんかいない、とは本当か?」


「本当」


 即答。


「少しも?」


「少しも」


「嘘を……」


「嘘なんかつかないわよ、私」


 はっきりと、パグラはそう言う。迷いなんて一つもないとでもいうように。


「私はあの人達を恨んでなんか、いないわ。むしろ感謝をしているんだから」


 自分へと必死に言い聞かせるように。そう言い切った。


 目を閉じてその言葉を聞いていたラスタはその瞳をさらし、次の質問をした。


「では……つらくはないか?」


「――っ!」


 パグラがひゅっと息をのんだ。


 もしかしたら、自分はズルい、大人かもしれない。

 そう思いながら、しかし止めることなく畳み掛けるようにラスタは続けた。壊れた扉をこじ開けるような気持ちになる。


「悔しくないのか? 悲しくはないか? 寂しくはないか?」


 しばし、沈黙。


 けれど、それは長くは続かなかった。三度波打つ音が聞こえ、そして四度目の音とともにパグラの囗から声がもれた。


「つ…ら、いわよ?」


 引っかかっていたものが徐々に外れていくように、途切れ途切れの声がラスタには聞こえた。

 それは一旦吐露してしまえば、止まらなくなる。


「悔しいわよ、悲しいわよ。寂しいわよ! 呼吸の仕方、忘れちゃたみたいに息が苦しくって! 胸が痛くって! どうしてなのって! 何で連れて行ってくれなかったのって! 

 泣いて叫んで、みっともなく何かに縋りたいくらいにっ!!」


 悲痛な叫びが世界を切り裂いた。


 きっと、胸に手を当てていたのはそこが締め付けられるように痛かったから。

 足に細かな傷があったのは人の温もりを探して、この島中を駆けずり回ったから。

 微笑んでいたのはそうしていないと泣き叫んでしまうから。


 そうやって、今この瞬間まで自分の心を保っていた。


「でもっ!!」


 濁流のように流れ出てきた言葉が突如として途切れた。


「……でも。そうしてしまったら、きっと恨んじゃうじゃない。憎くなってしまうかもしれないじゃない」


「……それでも良いんじゃないのか」


 パグラはまた、首を振る。


「だって…………こんな私を育ててくれたのよ。異常種で、気味悪い私を、育ててくれた人なの」


「異常種……」


 なるほどな、とラスタは心の中で呟いた。大の大人が引っ張るぐらいでは動かないわけだ。パグラが眉を顰め、嫌悪していたのは自分自身……か。


 それはとても哀しいことだと思った。


「最後まで良い子でいたいのよ。面倒くさく泣きわめいたりしないで、追いかけたりしない。なんであんな良い子を置き去りになんかしてしまったのだろうって、そう思わせて、やりたいのよ」


 そう言い切るとパグラは唇を噛んで、俯いてしまった。

 こういうとき、何と言えばいいのか、ラスタは分からなかった。ただ小さい頃泣いている妹にはずっと一緒にいてあげた。悲しみが溶けるまでずっと。


「行くぞ」


 だが生憎と今は時間がなかった。そしてパグラの心を癒すに足る信頼も。


 ラスタはそれでもまた手を引く。


「後ろを振り返れても、戻ることはできないぞ」


「……でも立ち止まってしゃがみ込むことはできるわよね」


 この少女は強情だった。梃子でも動かないつもりらしい。そして力勝負で勝てる相手でもない。尤もできたところどラスタはそれをすることを望まなかっただろうが。


 息が詰まるような静寂が二人を包んだ。そしてそれをラスタのため息が破った。


「分かった。自分のしたいようにしろ」


 落としたのは諦念に満ちた言だった。


 きっとパグラを無理やり連れていったところで何にもならないとラスタは感じる。自ら選択しなければ、むしろ死ななかったことに後悔して生きていくことになるだろう。

 それはラスタにとっても望むべきところではない。

 そもそも〈世界崩壊の兆し〉に吞まれることを死と捉えるかも人それぞれの世になってしまった。いつしか新たな世界を夢みるハムチャック敎が席巻する時代もくるかもしれない。

 そうならばラスタも昔に囚われた死者となるのだ。


 そんな考えが心によぎり、噛み締めるように瞑目した。そしてそれらを無理矢理飲み下す。

 次に目を開いたときには前しか見なかった。


「じゃあな」


「……ええ」


「また会えたらいい」


「そうね」


 それだけだ。別れを告げるのには数秒しか掛からなかった。


 一歩、二歩とラスタは踏み出し、海に入る。肌を触る慣れた感覚にこれでいいんだ、と諭された気がした。


 そしてその背中を見て、パグラはこれが正しい選択だったと心に刻んだ。

 ラスタのことはもちろん、自分を置いてきぼりにした人たちに対する恨みなど少しもなかった。

 道端に捨てられ、死の淵に立たされていたパグラを異常種だと知らなかったとはいえ、拾い、育ててくれた恩は消えはしない。

 拾ってしまったという後悔に涙を流す義母の姿。パグラの存在と自身の立場に悩み、ぎこちなく接してきた義父。親の愛を占領できず、家族を苦しませる元凶に素直な嫌悪と苛立ちを示す子どもたち。


 みんながパグラの存在を疎ましく思っていただろう。しかし義母の半端な優しさがパグラを捨てることだけはしなかった。良心が咎めた、というよりも追い出すだけの勇気が足りていなかったのだとパグラは思う。

 だから今回のことはとても都合の良い出来事だったのだろう。


 船旅に疲れ、パグラたちは僅かな休息を求め、この無人島に立ち寄った。パグラは皆と一緒にいるのが悪くて島のあちこちを歩き回っていた。どれだけ歩いても疲れはなかったし、方角を見失うこともない。そのことに安心していたパグラはしばらくして元いた場所に戻り、――誰もいないことに愕然とした。

 始めは場所を間違えたのかもしれない、と思った。次にあの人たちが島の動物に襲われたのかと考えた。いや、嘘だ。答えはあまりに明白で、だからわざと遠回りをした。


 なかなか帰ってこなかったから。

 先を急いでいるのだから。

 異常種だから。

 囗減らしをしないと自分たちが生きていけないから。

 こんな世界だから。

 本当の家族じゃないから。


 理由はいくらだって思いついた。彼らはいつだってその理由を探し求めていたじゃないか。

 そう理解できた。けれど心は子どものようにいやいやと首を振る。


 どこかにいるのかもしれない。そう思って走り回った。一昼夜の間立ち止まらなかった。馴染みのない疲れたという経験。座り込んで、動けなくなったのは本当に初めてだった。見上げれば高すぎる空があった。

 痛む胸に手を当てて。息を落ちつけ、頬を持ち上げた。笑みとは案外簡単にできてしまうのだと初めて知った。

 それから誓ったのだ。もう足掻くのはやめようと。最後まで良い子でいようと。


 そして、誓いは守られる。

 パグラはラスタを見送るのだ。飄々とした笑みとともに。


「だいじょうぶ」


 もう手遅れだ。だからだいじょうぶ。これで良かったのだ。

 ラスタはこちらをちらりとも振り返らずに進んでいく。その姿は潔くも見え、やっぱり変な人だという印象を受けた。









「……」


 一方舟に辿り着いたラスタは呆然と立ちすくんでいた。

 舟はあるものの、そこには肝心なものが欠けていた。

 櫂。あの嵐で残っているはずもなかった。少し考えればすぐにでも思いつくことだろうに。


「しまったな……」


 舟があることに気が向いてしまい、注意散漫だったようだ。これではどうすることもできない。が、戻る気など微塵もなかった。それは二人の決別に対するあまりに無粋な行為であり――いや、これは嘘だ。簡単に言ってしまえば大人のプライドが許さない。

 そして分からず屋のあの少女を置いてきてしまったことへの後悔も振り返れば進めなくなるほど体に絡みついてくるだろうことは明白だった。


「……仕方がないか」


 ため息一つ。

 ラスタは自身の手で水面を切り裂き、世界の崩壊に追いかけられているとは思えないほどのんびりとした速度で進み始めた。







 そしてそれを当然パグラを見ていた。


「何、やってるのよ……」


 のろのろと進む舟はあまりに遅くて。何時までたってもパグラの視界からいなくなってくれなかった。

 パグラはそれを消し去りたくて目を背けた。しかし鋭敏な聴覚をちゃぷりちゃぷり、と揺れる微かな音を拾ってしまう。そしてそれが僅かずつ遠ざかっていくのも分かってしまう。また少し、また少し、離れていく――。


 喉が熱い。ともすれば何かを叫んでしまいくらいに。

 今までと比べものにならないほど胸が締め付けられる。

 笑みなんか浮かべられないほど顔の筋肉が強ばっているのを感じた。


 ラスタは足掻いて進むことを決め、パグラはここに残ることを決めた。その二人の別れは何の確執もない、互いの納得のいったものだった。

 いくら舟が遅くても、ラスタの醜い足掻きが失敗に潰えたとしてもそれは互いの選択の違いだ。ここでパグラが手助けすることなど万が一でもあり得ない。


 けれど、


「――もうっ!」


 一兆分の一くらい起こったっていいじゃないか。


 パグラは下を向いたまま、転がるように駆けだした。

 惨めだ。醜い。無様だ。全然イイコなんかじゃない。

 でもそうじゃないと人は生きてなんかいけないのだ。

 きっと心が痛くて死んでしまう。


 一滴の涙がぽろりと落ちた。それが作り出した波紋をパグラは力いっぱい飛び越える。

 ばしゃばしゃ音をたてて海を走り、飛び込んだ。細かな擦り傷や切り傷が染みて痛かった。けれど、体中を水が優しく包みこむ感覚。何もかもがぐちゃぐちゃで確かなものなんて一つもなくて。


 音に驚いたラスタが首を回してこちらを見ようとしたのがわかった。水中から顔を出し、パグラは精一杯叫んだ。


「振り向かないでッ!!」


 わずか十秒で舟との距離をゼロにして、舟の後ろに飛びつく。そして休むことなく、あらん限りの力で水を蹴って舟を進ました。


 爆音。そして巨大な水飛沫。


「おじさん、おかしいだけじゃなくて馬鹿なのかしら! 手の平で水を搔いてどこまで行く気だったのよ!」


 パグラはその音に負けないように声を張り上げた。対してラスタも叫び返す。


「櫂があると思ったんだよ!」


「櫂ですって!? 元からそんなもので逃げる気だったの!」


「そうさ!」


「あり得ないわね!」


 言葉で殴るようにぶつけ合う。試合と呼ぶには洗練さに欠け、戦いと呼ぶにはには単純すぎる。受け流すことも避けることも考えていない。さながら子どもの喧嘩だ。

 けれどラスタとパグラは思った。最初からこうしていればどれだけ楽だっただろうか、と。


「無理よ、むり!」


「なんだと!? 海の男を舐めるなよ!」


「それでも無理に決まってるじゃない! だっておじさんはっ!」


 不自然な空白。

 ぐっと息が詰まった。けれど、やることは簡単だと分かったから立ち止まりはしなかった。

 パグラは今のは息つぎだと自分自身を誤魔化して、さっきと同じように言葉を叩きつける。


「おじさんは才能(ギフト)持ちじゃないんだから! そんなんじゃ、ないんだから!!」


 パグラの舌は普段の怠惰を償うようによく動いた。余計な素直じゃないことまで、だ。

 パグラは自身の涙と嗚咽を広大な海に隠すのに必死でラスタの口元がほっとしたように緩んだのに気がつかなかった。


 それからラスタは愉快さを滲ませて、何事もなかったかのように言葉の応酬を続けてみせた。


「なあ! 子どもに舟を進ませてるってなかなかの罪悪感なんだが!」


「――っ! 知らないわよっ! 海の男の名が泣くとだけ言っておくわ!」


 舟は行く。前に前へと進んでいくことしかできないのだ。








 歪んだ世界はどんどん小さくなっていくけれど。


 悲しみと不安と息苦しさに世界は溢れているけれど。


 それでも世界の一部(とある二人)は留まることなんてできなくて、生きるために歩み続ける。



               fin

読んでいただきありがとうございました。

もはやSFが不明……

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― 新着の感想 ―
[良い点] 世界観が凄く好みで、面白かったです。
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