2.孤独に待ち続け、夜の闇にその身を佇ませる。
二人の犯人の内の一人、糸間蓮将は遺体で見つかった。額には銃創らしき穴、壁に寄りかかって動かなくなっていたところを発見された。
どうしてこのようなことが起きているのだろうかとなるのだろうが、警察がすぐそこまで手を伸ばしてきているということで、仲間割れをしたという考えが真っ先に浮かんだ。正面から至近で額を打ち抜くということから、不意を衝いてのことだったと状況から考えられる。その理由としても、逃げるにしても二人で逃げるより一人の方が動きやすいと考えたのではないだろうか。でなければ、魔具が一つしかないから先に自分のものにしてしまおう、という考えが働いたのかもしれない。
少なくとも今言えることとなると、この場に警察と犯人以外の介入者がいると考えにくく、他に誰かがいるような状況も見当たっていない。だからこそ、“仲間割れ”という結論にすぐさま至ったのである。
そうなってくると、犯人は“追い詰められた狐”になっていると見ていい。“狐狩り”とはいえ、迂闊に手を出せばこの遺体のようになりかねない。
よくあることだ。慢心が生む因果な事象とでも言おうか。動物愛護だの何だのが大きく騒がれてきた世の中でも狐狩りを行う人物というのは未だいる。狐狩りをするその人物が犬を放って狐を追い詰めるわけだ。そこまではいいのだが、ライフルで最後の一撃を食らわせたと思い、狐のそばまで近づいたところで狐に手痛いしっぺ返し食らい、挙句に逃げられるという間抜けな話だ。
そういう間抜けなことにならないためには、常に気を引き締めておかなければならない。過去から現在に至るまである、教訓だ。
「どうします、柳崎さん」
犯人の遺体を前にして、焦り始めた警察官たち。捕まえに来た筈なのに、内の一人が遺体で発見されたのだから、焦らない方がおかしいのかもしれない。
その中でありながらも、落ち着いた様子で安雄が隆文へと尋ねた。流れに感情を任せてしまうことは簡単なことなのだが、焦れば正しい判断が難しくなる。そのためには冷静であれと常に心がけていなければならない、と皆の前で実践してくれているのだろう。
隆文は警察官たちの焦りを背に感じつつも、遺体と壁の血を見ていた。壁へと触れて、血の乾き具合を見る。指先にベトリとついて、ほとんどがまだ乾いていないようだ。「そうだのぅ――」と指先の血を拭い取ると、警察官たちへと振り返る。
「血はまだ新しいようだ。死んで間もないといったところかのぅ。我々が到着する直前だったと考えられる。となれば、近くに潜伏しておるやもしれん。このまま捜索を続けるか。お前たち、相手は武器を所持しておる。気を引き締めてかかれよ」
警察官たちは一様に声を出すことなく、頷いて答えた。続けて、各々のパートナーへと頷き合う。焦燥感に支配されていた空気が一転、ぐっと引き締まった。
そして、工場へと入って来た時と同じく、緊張感をまとった警察官として各々の組となって散開していった。
「さて、我々も捜索の続きとするかのぅ。芒原はどうする? ここで待っておるか?」
隆文が美加の顔を覗き込んできた。遺体を見てから何も言葉を発さないから気を遣ってのことらしい。
美加は未だ口を押さえたままであるが、首をフルフルと横に振って応えた。吐き気が治まらないのは確かだ。でも、歩けないのかと問われたら、違うと答えられる。むしろ、遺体のそばにいつまでもいたくないので、すぐにでもここから離れたい気分だ。それこそ、たとえ動けなくなったとしても、這ってでもここから動いてやるという意気込みだけはある。
何よりも、待っているかと訊く方も訊く方である。遺体を見て吐き気を催しているというのに、これ以上遺体と一緒に待っていられるわけがない。ここでずっと吐いていろと言いたいのだろうか。
――とまあ、拒否するようなことをあえて訊いといて、否応にも動く意思を持たせようというのだろう。そう思えば、言い返す気は起きない。動くきっかけも欲しかったから、なおのことよかったとさえ言える。
「ま、慣れんもんは慣れんからのぅ。ここで吐かなかっただけ、よしとするかのぅ」
隆文は美加の肩を小さく叩くと、歩みを始めた。褒めてくれたのだろうか。それとも、それぐらい当然のことなのだから、やっと当然のことを当然とやれるようになったのか、と子供の成長のように見られただけなのだろうか。どちらにしても、隆文に厭きられることがなかったことに美加は安堵した。
続けて安雄が背中を叩いてきた。隆文のように気遣ってくれていると思いたい。でも、叩かれた衝撃に思わず吐きそうになってしまった。必死に耐え凌ぐだけだ。もう少し加減というものができないのだろうか。先輩刑事ながら、この力任せというやり方にいつも文句が出そうになる。
再び歩き出したことで、吐き気は少しずつ治まりつつある。犯人を捜さなければならないことに集中していて、犯人がどこに潜んでいるのか分からないという緊張感が、無駄な考え――気分の悪さ――を忘れさせてくれているのだろう。
でも、吐き気を忘れていくからといって、安心などしていられない。未だに犯人が見つからないとはいえ、回るべきフロアの数は次第に減ってきているからだ。犯人が工場内にいるのだとするならば、確実に追い詰めていると言える。犯人との遭遇率は次第に高まりつつある。犯人の片割れを殺して浮足立っていると仮定するならば、犯人を見つけた途端に危険な状態となることは容易に想像できる。
なのに、犯人が未だ見つからないからこそ、焦りがどんどん増していく。入って来た時以上、糸間の遺体を見つけた時以上、緊張感は膨らんでいつ破裂するのか知れないところ。また、寒さが体力を奪っていくものだから、疲弊が後押ししてくる。愚痴をこぼしていいのならば、今すぐにでも温泉に浸かりたいと何度も何度も口にすることだろう。
――遠くで大きな音が響いた。
ただでさえ寒さと緊張感で引き締まった空気が、より増して引き締まった。引き締まりすぎて体を束縛してくるのではないかと思ってしまうぐらいにだ。むしろ、体調を悪化させて動けなくなってしまうのではないかと考えもしてしまう。
一体、何の音なのだろうか。この暗闇の中では何も見えないので視界からの情報は当てにならない。音なのだから聴覚を頼りにすればいいだけだが、音が反響して詳細が掴めきれていない。甲高い音だったようにも聞こえたので、金属音だろうと推測はできた。しかし、それだけでできる判断は何一つない。
ただ言えることとは、警察官が捜索を再開してそう間もないこと。警察官の足音とは別物だったということだ。それも、蹴ったのか、落としたのか、崩したのか、何かにぶつかるもしくはぶつけたか、警察官の装備品の音ではなかった。懐中電灯にしても手錠にしても、落としたところでそんな大きな反響する音を出すとは、試しておらずともすぐに結論づいた。
なので警察官が誤って音を立ててしまったと誰もが考えていないようだ。
隆文と安雄の足が止まり、互いに何かを言うまでもなく、向かい合えば頷き合う。美加はそんな二人を見据えるだけで精一杯だ。二人が何かを示し合っている。音を聞き、何かを感じたのだろうということだけは伝わってきた。
何よりも音にびっくりして吐き気がどこかへと飛んで行ってしまった。でなければ緊張が全身に伝わり、「吐いている暇などない」と体へ訴えているのかもしれない。どうであれ、吐き気が治まったことはありがたい。
「奴はまだ中におるぞ。気を引き締めろよ」
隆文のいつものしゃがれた声がより一層重く感じられた。
美加は息を呑んだ。辺りを見渡すが、暗闇という名の“壁”に覆われてしまっては、何も見ることが叶わない。懐中電灯程度では到底“暗闇の壁”を打破するに至っていないのはここに入って来た時から分かり切っているが、それでも光の指標を頼ろうとしてしまう。
鼓動が速まってくる。緊張感が意識より鮮明に、時間がゆっくりと流れているかのように、視界がスローモーションがかっているかのように。
隆文が先陣を切って歩いていけば、途端に駆けだす音が響き渡った。駆ける音は一つ。続くようにして周囲から音が増えていった。
状況からして、犯人と思しき誰かが駆けたのだろう。追い詰められて潜んでいることに耐えられなくなったのか。懐中電灯の動きを見て逃げる隙を見つけたのか。警察官に見つかったのか。少なくとも、初めの駆ける音が警察官のものとは考えにくかった。続いていった音の方が警察官に違いないだろう。初めの音を犯人と確信して追いかけていくようだった。まるで、猟犬が目標に群がるかのようだ。
その音につられるようにして、隆文と安雄の足も速まった。駆けるまでには至っていないのは、暗くて足元が見えないからというのが勿論のこと、そして、犯人がどう動くのかを考えてのことか、美加のことを気遣ってのことか。
美加は折角どこかへと飛んでいってくれた吐き気が、足が速まったことで再び戻って来てしまった。いや、緊張が絶頂にまで達してしまったからこその吐き気なのかもしれない。ただ、吐き気を再発しても吐くまでに至らなかったことは救いだろう。まだ心のどこかでそれだけはしまいという気持ちが残っているからなのかもしれない。不甲斐ないながらの情けないながらの、些細な意地だ。
駆ける音が響いている中で、乾いた音が鳴り響いた。断続的に三つ。足音と全く違うのではっきりと聞き取れた。
美加は背筋にぞくりと来る悪寒を感じ取った。今の音は誰かが発砲したものだと即座に認識したからだ。
警察官は職務上拳銃を所持することができる。しかし、昭和の刑事ドラマでもあるまいし、無闇矢鱈と発砲することは許されていない。警告射撃だとしても三発も打つ理由が見当たらない。ならば、警察官以外になるだろうし、犯人の発砲によるものということになる。仲間を殺すような犯人であるならば、警察官を視界に捉え次第、ためらいもなく発砲することもおかしくない。
呻く声が悲鳴にも聞こえ、同時に「犯人は逃走!」の声が走った。同僚が撃たれたようだ。しかし声だけではどのような被害なのか窺い知ることができない。
現状では犯人逮捕が優先させれているので、撃たれた警察官は後回しにされてしまう。ともなれば、軽症で済んでいることを願うだけ。それに、この暗闇ではどこで撃たれたのか場所の判断もつきにくい。よしんば場所が分かったとしても駆けつけるに時間がかかってしまう。応急措置が必要な状況であるとするならば、パートナーに任さざるを得ない。そもそも、何かがあったらすぐに対応できるようにと二人単位を組の最小単位としているのだから。
この発砲をきっかけに、美加らも駆けた。足元が見えないからなど、そういった理由で悠長にしていられない。一刻も早く犯人を捕らえなければ、もっと危険なことが起きる可能性だって出てきてしまう。
この工場の間取りは事前のブリーフィングで頭に叩き込んでいる。さらには、工場の周辺の下見も済ませてある。そのため、暗闇で足元が覚束ないなりに、どこへと向かえばいいのか分かっている。
足音が一様に同じ方向、工場の裏口へと向かっていった。犯人が裏口から逃げると予測しての行動だ。
続けて裏口のある方向から、ドアの勢いよく開かれる音が響いた。その音はとても荒々しく、犯人の心境を表しているようだ。
「外へと連絡だ。犯人が外へと出た。いいか、外へと逃走した」
◇
「ふぅ……。それにしても――こんなところで、いつまで待たせるつもりなんでしょうね」
百合垣和葉は両手に白い息を吐きかけ、空を見上げた。
自らの息を手にかけるだけでは、寒さを凌ぐに厳しい。到底、姑息以外の何ものでもない。でなければ、慰み程度だろうか。やるだけ無駄なのではないのかと思えてくるも、寒いのが嫌だからこそやらないと気が済まない。
寒いことが分かった上で、闇に溶け込むような黒のブルゾンを羽織ってきた。だがそれでも寒く、手袋やマフラーなどの防寒具も身に着けてくるべきだったと今更になって後悔してしまう。今夜がこんなにも冷えると考えてもいなかった。素直に今の装備が不足していると認めざるを得ない。認めたところで、寒さを覆すことにならないことは分かっていながらも。
和葉の見上げる空は闇に包まれ、月がない。星だけが瞬いている。星の光の鮮明さからして、如何に空気が澄んでいるのかがよく分かる。また、日暮れ前まで降っていた霙混じりの雨で大気中のゴミなどを落とした後だからこそ、なお澄んでいた。
ただ、空気の澄み方が寒い時季ならではのものと考えてしまうからか、身震いを呼び起こさせてしまった。最早、身体的にも精神的にも寒さが押し寄せてくるために、ため息しか出てこない。
そして、和葉の言葉に対して、返ってくるものが一つもない。和葉の周りには誰もいないのである。独りなので、返事がないのは当然のこと。そのため、自問自答というべきか、返事をしてくれる人が周りにいないからと言うべきか、和葉自らがため息をもって応えた。
和葉のいる場所――。周囲は金網フェンスと道路であり、フェンスに沿うようにして街灯が点々と並んでいる。闇に包まれた街が、その向こうに広がっているので、遠くまで視線を向ければ街の明かりを見ることができた。
しかし、ここは街の明かりと対照的で、街灯しか明かりがないために暗いとしか言い表せない。それに人の通りが全くと言っていいほどないのである。この辺りを夜に出歩く人が滅多にないからであるし、そもそもが普段人が寄り付かない場所でもあるからだ。
人がいない理由、人の少なさを証明するものがすぐ近くにあるからともいえる。和葉の正面の先、フェンスの向こうで夜の闇に浮かぶ“砦”がそびえる。“幽霊工場”の渾名を持つ廃工場。いつも闇に包まれているからこそ、不気味で人の近寄りがたい雰囲気となっている。
――それなのに、今日の廃工場は違っていた。
“闇の砦”となっている筈の廃工場に、白と赤の光が織り交ざって照らされている。とても賑やかなのだ。むしろ、普段が普段なだけに騒がしいと言っても過言ではないだろうか。さらには光だけでなく、人の声までもが何を言っているのか判断つかずとも潮騒のように響いてくる。
これではさすがに“幽霊工場”の名折れでなかろうか。“パーティ会場”と揶揄されてもおかしくないだろうか。
そんな賑やかさがあるのに、ここは逆だ。いつも通りと言えばいつも通りの光景がある。いつも通りの静寂さがある。賑やかで騒がしいのは工場の正面口で、和葉はその工場の裏手にいる。
表と裏ではこうも印象が違ってくるものだろうか。正直、驚きを隠せない。でも、裏手に人がいない状況というものは、和葉にとってとても都合がよかった。
「――確か、五時頃からここにいるので、かれこれ二時間ですかね。こんなところに待たせて、僕を凍死させたいのでしょうかね?」
またもた空へと息をついた。
この寒さの中で眠れば“凍死”も可能なのだろうが、立っていれば眠ることも難しく、“凍死”なんて無縁だろう。体が冷え切る前に、どうにでも対処ができるからだ。“凍死”というのは、事実を述べたわけでなく嫌味を言っただけに過ぎない。
少し間を置いて、小さく笑んだ。
「ま、正面へと“彼ら”がやって来ることはないでしょうから、裏口であるここで待っていればいいと言っていましたからね。表向き、指揮権はあちらにあるので仕方がありません」
自らの質問に答えた。寒さに合わせて自問自答しているのは、より虚しさが増しているようにも見える。けど、和葉は気にする様子を見せなかった。ここに和葉以外いないのだから、誰に見られるわけでもない。
「このままじゃ、僕が風邪を引くだけで、損するだけじゃないでしょうかね」
空から視線を下した。ずっと立っているだけでは寒く、耐えがたい。体を温めるべくシャドウボクシングを始めた。ボクシングの経験は全くない。思いついた行動がそれだけのことで、体さえ温まればシャドウボクシングでなくとも問題はない。
経験のなさを証明するかのように、放つパンチにキレもスピードもない。フットワークだってままならないものだ。分かる人が見ずとも「いい加減なシャドウボクシングだ」と一蹴することだろう。
本当に体を動かしているに過ぎない。
「こう思うと、警察というのはいい加減なものですね。僕をこんなところに置きっぱなしにして、何の連絡もないのですからね。
――おっと、取れてしまいました」
ふと、シャドウボクシングの手が止まった。手に何かが当たり、飛ばしてしまったためだ。それはブルゾンの首元から出て、ぶらりと垂れ下がっていた。
手に取り、耳に宛がう。片耳用のイヤホンだ。
「済みませんね。体を動かしていたら、イヤホンが取れてしまいました」
小さくはにかんだ。イヤホンとは別に、首には首輪のような物――咽頭マイクが付けられている。それへと言葉をかけた。
イヤホンからは。
『しっかりしてよね。寒いのはカズハだけじゃないんだからさ』
ややツンケンとした妙齢の女の声。少し声が震えているだろうか。言葉通りとするならば、寒さで口がうまく回らないのだろう。
この声の主には、和葉のいる場所から離れたところで、和葉と同じように寒空の下で待機してもらっている。ツンケンとしているのは、和葉がイヤホンを飛ばしてしまったことよりも、寒さに対してと見ていいだろう。
和葉の今までの自問自答とも言える独り言は、ブルゾンの中にしまってある無線端末を用いて、その女と話していたのである。
――しばしして、和葉は深くため息をついた。
シャドウボクシングで少しばかし体を温めたところで、まだ立っているだけの時間が過ぎていき、体が冷えつつある。こんなことがずっと続いているのだから、いい加減寒さに焦れったさを感じてきた。
視線はずっと“幽霊工場”へと向いたまま。他にすることが思い浮かばないので、大人しく待つしかない。焦れて癇癪を起したところで何かが変わるわけでもないのだから。
そんな中で、あるものに気付いてため息をついた。
「それにしても、どうしたものかと辟易としてきます。本当に警察というものはいい加減なのだと思ってしまいます。“税金泥棒”と揶揄されても致し方ないのではないでしょうかね」
『――そうね。こちらも確認したわ』
和葉のやれやれとした声に、イヤホンからも同様の声が聞こえてきた。和葉と同じものに気付いた、いや、見えているのだろう。
廃工場を背景に、こちらへと駆けてくる影が見える。必死になって駆けているようで、足を取られて転びそうになっている。余程急いでいるのか、焦っているのか。足取りから“ただものならぬ”ということは伝わってきた。
現在、廃工場の中では傷害事件の犯人を逮捕するべく警察官たちが踏み込んでいる真っ最中だ。ともなれば、駆けてくる影はそれらから逃げている犯人だろうと容易に予測できる。それも捕まえるに至らず、外へと逃げられたということになる。
「結局、逃げられたということですか。不様なものです。裏口で僕が待機しているのは、このためじゃなかった筈なのですがね。仕方がありませんね」
和葉はじっと影へと視線を向けたままに歩き出した。
フェンスに沿って、途中ぽっかりと空いた部分――廃工場敷地の裏口があり、そこで自らが扉と言わんばかりに立ち止まった。影が近づいてくるのを待つ。
男が近づいてきた。だんだんとその姿がはっきりと見えてくる。
二十代の男。首元に毛皮のついたジャンパー。黒か紺か、闇に溶け込む色のスラックス。駆けてきたからだろう、息が切れ切れだ。目もギラギラとしていて、危険を感じさせる異様さを持っていた。正直なところ、下手を打って逃げているチンピラにしか見えない。
和葉から五メートルほどの位置で足を止めた。手には何かを持っており、和葉へと向けてくる。それが何か考えるまでもなく、武器。
「何だ、お前は。警察か?」
男の手が震えている。手にしている物と目のギラツキが、より尋常でないことを意味している。
鬼気迫る。
男の手にしている物は拳銃マカロフで、街灯の光を反射して黒光りしている。
和葉は静かに男、拳銃へと見やる。
「僕は、警察じゃありませんよ」
物怖じすることもなく、淡々と答えた。それも手を広げながらなのだから、おどける道化師か。
明らかに余裕でいられる状況ではない筈なのに、狼狽えているのは拳銃を向けられている和葉でなく、拳銃を向けている男の方にある。
何がこの二人の心境をあべこべにしているのだろうか。
武器を持っていないからこそ、冷静でいることによって相手へとプレッシャーを与えているのだろうか。警察に追い詰められているから、落ち着きがないだけのことか。
「警察じゃなければ、何なんだよ」より狼狽える男。
「警察じゃないとしたら、何だと思いますか?」余裕の和葉。
口調もまた二人の心境と同様。
「あなたなら、きっとすぐに予想がつくと思うんですがね。あなたが“何”を持っているのか。“それ”が僕の目的ですからね」
和葉の口元が吊り上がり、ますます道化師を思わせる。
和葉の言う“何”が何を意味するのか、男の持つマカロフなんかではない。それが男にしかと伝わったようだ。はっきりと固唾を呑む音が聞こえてくる。その手も震えて、マカロフも連動して震え、銃口が定まっていない。
これなら打ったとしても和葉に当たるとは限らないだろう。ただ、トリガーに指がかかっているので、いつ撃ってくるのか分からないことだけが恐ろしいところ。内外問わず暴発寸前である。
「い、いい、い――」
それが言葉にも表れているようで、うまく発音できないでいる。
和葉は首を傾げた。男が何を言おうとしているのか、頭の中で模索する。でも、深く考えるまでもなく、すぐに思い当たった。
「ああぁ、“そんな人たち”と一緒にしないでください」
厭いた表情で眉尻を下げる。
「僕は飽くまであなたの持つ“あれ”が目的なのです。“そんな人たち”――〈異端狩り〉のようなことなど、何ら興味がありません」
「ち、違うのか? 本当か? 嘘じゃないよな?」
「本当です。嘘を言ったところで、僕には何の利益もないですからね。はっきり言って、あなた自身には何の興味もありません」
右手を自らの胸に当て、首を横に振ってみせる。如何にも道化師を演じているようにしか見えない。どこまでいっても、うさん臭さがあった。疑ってくれと言わんばかりではないだろうか。
だからと言えようか、男はマカロフを下すなんてもってのほか。むしろ目を細めて怪訝を表した。男にとって、少しでも不都合な動きを見せれば、すぐにでも発砲するということか。
「――なら、何なんだ? お前が警察でもなく、〈異端狩り〉でもないとしたら、何だと言うんだ?」
「商人です。ただのしがない商人です。扱っている物が特殊なだけの商人でしかありません」
和葉は胸に当てていた右手を男へと向ける。
「ですので、そんなに恐れるほどのものでもありませんよ」