1.幽霊工場を前に、寒さに震えて何を見る。
「寒い……」
三月の上旬、午後七時を少し過ぎた夕飯時になる。春を迎えて暖かくなりつつ中で冬が戻って来たかとばかりに霙混じりの雨が降っていたものの、日暮れ前には止んで、雲も晴れた。しかし、雨とは逆行するように、夜を迎えるに連れて寒さが身に染みるようになってきた。
どれほどかと言えば、コートを羽織らなければ寒さに打ち震えるほどで、それこそ追加してカイロや温かい飲み物が欲しくなる。それでも、どこまで耐えられるのかは疑わしく、これから夜が更けるに連れて、どこまで冷え込んでいくだろうか。天気予報では雨が止んでもしばらく上空に寒気が留まるので、と頭半分に覚えているが、理屈で言われても寒さに納得がいくかと問われれば違うと即答するだろう。それこそ、今年の春は暖かい日が続くので花粉の量が、と言っていたことをこれまた頭半分に覚えていることを思い返すとなおのこと理不尽だと言葉にしたくなってしまう。
さらにこれから寒くなってくるのではないのかと考えると、カイロや温かい飲み物を追加したところで、焼け石に水ならぬ、“極寒の町にマッチの火”になるだろうか。マッチ売りの少女の如く寒さに打ち震えて凍え死ぬ、という洒落にならないこともどこかで起きかねない。現実には、“酔っ払いの居眠り”の方が確率的に起きやすいだろうか。
暦上ではすでに春を迎えているにも拘らず、「この寒いのはどうにからないものか」と文句を吐く人もちらほらといる。しかし、そんな言葉なんて誰にも相手にされないことだろう。それこそ「寒いのはお前だけじゃない」と返されるのが目に浮かぶほどだ。
そんな寒い夜だというのに人間というものは実に“オカシナ生き物”で、寒さに抗いながらも屋外にいる。寒いのが嫌なら、さっさと屋内に引き籠って暖を取っていればいいというものなのに、何故抗い続けるのか。
「仕事だから仕方ない」と答える者たち。
「何かがあるからいるだけだ」と答える者たち。
他にも答える者がいることだろう。寒さを気にしていられないからこそ、外にいるのだ。そういった者たちが、そこに集まっていた。
古ぼけた建物。元は金属加工の町工場であったのだが、不景気と言われた時勢の波に呑み込まれて、抵抗虚しく廃業へと追いやられてしまった。今では無残な姿と化し、夜の闇に佇ませている。その姿は巷で“幽霊工場”と称されてしまっているほどだ。
そんな呼称を得てしまったからなのか、年に何度かこの中へと足を踏み入れては「幽霊を見た」と言う人が出てくる。俗にいう“心霊スポット”である。
実際に幽霊なんてものがこの廃工場に存在するか定かでない。“幽霊の正体見たり何とやら”ということもあるだろう。人の恐怖が勝手な妄想を生むということもあるだろう。人が集まるからこそ生まれる“概念”に過ぎない。
今日もまたそんな“物好きな人たち”が集まり、寒さに耐えながら白い息を吐きつつ肝試しをしている――わけでもなかった。廃工場の前には数台の車が停まっており、真っ赤な回転灯を灯して騒がしくしているのである。明らかに肝試しとは違っていた。
集まっている人のほとんどが警察官だ。騒ぎを聞いて駆け付けた野次馬もわんさかといる。でも、そんな彼らはすでに“蚊帳の外”――立ち入り禁止の黄色いテープの向こう側へと追いやられていた。なので、廃工場前以外も含めると、果たしてどれほどの人が集まっているのか、警察官の何倍の人数がいるのか、分からないところだ。
数台ある内の一台、他と変わりのないパトカーの前、「寒い……」と先程と同じく呟く。
「今日は新月かぁ。こんな日は星が綺麗なのに、周りの明かりのせいで何も見えない……」
芒原美加はぼんやりとした眼差しで黒々とした夜空を見上げた。言葉と共に白い息が漏れていく。白い息はすぐに闇へと溶け込んでしまって、見えなくなった。
照明に浮かぶ姿は、グレイのパンツスーツであるのだが、この闇と赤い光のせいで黒々としたものとしか見えない。その身はこの寒さの中にも拘らずコートを羽織っていないために寒さで小刻みに震えてしまっている。突如の出動でコートを羽織っている暇がなかったからではあるのだが、こんなにも寒いと分かっていれば多少遅れてでもコートを羽織ってくればよかったと後悔すら覚えてしまう。
そのスラリとした長身と背中の半ばまである絹糸のような淑やかな黒髪は、どこかモデルを思わる端麗さがある。ただ、寒さに耐え続けているために顔が白々としてしまって折角の“美人”を思わせるにはやや至らなかった。肌が必要以上に白々としてしまっているせいで、病人を思わせ、またどこか“人形染みて”しまっていたからにある。
その美加の背後に気配が生まれる。気配を殺して近づいてきたわけではない。至って普通に近づいてきたのであるが、美加はその気配に気づきもしなかった。
「何やってんだ? 気を抜いている場合か?」
厳つい声と共にゲンコツが飛んできて、美加の後頭部を小突いてきた。一応ながら加減をしてくれているが、身を震わせて強張っているところに不意を衝かれれば驚きも相まって、痛みが倍増した気分にさせられる。
「痛いじゃないですか」
「気を抜くなって、言ってるんだ」
「気なんて抜いてません」
痛みは気分的なものなので特別痛かったわけでもなかったが、美加はあえて痛みを表現すべく後頭部を押さえ、振り返った。
そこにあるのは、回転灯で赤く照らし出される先輩刑事。折部安雄の顔が酷く怖い印象を与えてきた。私服刑事の容貌で紳士らしくスーツをまとっているのだが、回転灯によって赤く照らし出された顔が“幽霊工場に出てくる幽霊”を連想させるのである。また決して堀の深い顔ではないのだが、光の加減による陰影が濃く出てしまっていて、より怖さを強調していた。
食われる、祟られる、殺される、と美加は思わず息を呑んだ。相手が誰か分かっているし、決して悪いことをされることもないと分かっている――でも、それらの考えをことごとく払拭してしまうほどに、光の加減一つでどこまでも怖くなるものなのだと痛烈に感じた。
「何だ? 俺の顔に何かついているのか?」
安雄が美加の表情に訝しく思っているようで、目を細めている。ギラリとした眼光は、悪魔のそれに見えなくもない。
「い、いえ、折部さんの顔が怖かっただなんて、決して口が裂けても――」
「言ってるじゃないか、うん?」
安雄が美加の頭を鷲掴みにしてガシガシとかき回してきた。美加の綺麗にセットされた髪は、あっという間にクシャクシャのみすぼらしい様へと変貌してしまった――“口は禍の元”とはよく言ったもので、報いを受けた。
情けない声を漏らして安雄の手から逃れようともがいてみせるが、安雄の逃すまいとする力が増して、どうにも逃れそうにない。何もそこまでしなくてもいいじゃないか、と今にも抗議を声高らかにという気持ちにさせられる。
周囲の、特に野次馬からの視線に晒されているのに、この二人の攻防はしばらく繰り返された。
やっとの思いで安雄の手から逃れ、睨みつけながらクシャクシャになってしまった髪を手櫛で梳いた。一度乱れてしまった髪はなかなか戻りそうにもなく、とても焦れったい。見た目を気にしている場合でないと分かっていても、こんな頭で人前に晒され続けることは恥ずかしいこの上ないのだ。尤も、二人のやり取りの方が断然恥ずかしいことであるのだが、その辺りは分かっていない。
「お前たち、じゃれ合うのも大概にしておけよ」
そんな恥ずかしいところを見ていられないと、しゃがれた声がやって来た。柳崎隆文は二人の上司に当たり、今回の現場指揮を執る。そんな隆文が目の前にやって来たのであれば、二人は背筋を伸ばして敬礼で応えた。
隆文はスーツの上からしわくちゃのトレンチコートを羽織っているのだが、“刑事コロンボ”のレインコート、もしくは“青島俊作”の軍用コートを真似ているように見えなくもない。尤も、ごま塩頭に、顎に短く髭を生やした初老であり、如何にも“ベテラン刑事”を体現した姿ともいうべき格好なので、真似とは別に様になっていると言った方がいいのかもしれない。この寒さの中ではいささかコートとしての機能が不足しているのではあるが、長年の培ってきた忍耐力で、多少の寒さは問題がないということらしい。
その貫禄のままに、「ウム」と短く二人へと返した。その目は少しも笑っている様子はなく、一喝を入れるべく声をかけてきたのは間違いない。
そこで反省の一つでもとなればいいのだろうが、安雄が「ほら言われただろ」と美加の頭をはたいてきた。美加は、これじゃ自分だけが悪者じゃないか、と頭を押さえつつ安雄を睨んだ――のだが、相手が先輩刑事ともあるし、睨んだからといって太刀打ちができる相手でもないし、そもそもその程度で安雄が態度を変えるわけがないと分かっていれば、遠慮がちに睨むことをやめてしまう。
仕方なしに「済みませんでした」とぶっきらぼうな物言いで頭を下げた。睨みはせずとも、不満は表しておくことに越したことはない。これもまた安雄に何ら意味のないことだと分かっているが、精一杯の抵抗である。
「ほれ、行くぞ。ここでいつまでも時間を潰しているわけにはいかんからのぅ。まごまごしておると、犯人に逃げられてしまう」
隆文は反省のない二人のやり取りを特に気にすることもなく、慣れた様子で背を向けて歩き出した。二人のことよりも大事なことがあるからであり、それに比べてしまえば二人のことなど些細なことだ。いや、そんな些細なことをやっている場合ですらない。
「――全員、気を引き締めていけぇ」
隆文の一号により、美加ら二人をはじめ、周囲の警察官たちが一斉に返事をした。どこかもやもや感の残った緊張感だった場の空気が一気に引き締められる。
隆文を先頭に、警察官たちが列を組んで建物へと入っていく。結構な人数になるだろうか、美加らを含めると十五人。誰もがスーツで身を固めた私服刑事である。制服の警察官もこの場にいるが、隆文とば別グループで野次馬の対処に勤しんでいる。
彼らの背中に幾重ものフラッシュが浴びせられた。どれも“蚊帳の外”にいる野次馬たちからだ。パパッパパッと灯る光が幽霊工場を不気味に照らし出し、より“幽霊工場”たらしめんとしていた。
彼ら警察官が何ゆえに廃工場へと入っていくのか。その理由は「幽霊工場に手配中の犯人らしき男たちがいる」という通報があったからだ。また、捜査の過程で犯人たちが廃工場付近で目撃されていることを確認できていたこともあるだろうか。
最近、巷で傷害事件が立て続けに起きた。最初はチンピラ同士の喧嘩なのだろうと考えられた。被害者は、普段から素行に問題のある人物だったからだ。しかし時間が経つにつれて、犯人と関連性の薄い人たちにまで被害が及ぶようになっていたのだ。中には強盗までされたという被害届が出ている。
なので警察が大きく動き出したのである。それでその犯人たちが廃工場を根城にしているところまでに至ったのだ。
犯人は二人。
一人目は糸間蓮将。地方の暴力団の元組員で、傷害事件で二度の服役をしている。所属していた暴力団からは足を洗った――破門された――らしく、この町へと流れついたらしい。
もう一人は、九条彰。逮捕歴はないものの、喧嘩騒ぎを幾度となく目撃されており、以前から警察側が傷害罪で目をつけていた人物だ。なかなか鼻の利くようで、うまく警察から逃れ続けている。
二人にどういった関係があるのか全く知れず、どうして組んだのか見当もつかないところではある。ただ、どちらも喧嘩っ早いことから、なるようにしてなった傷害事件だということだ。
その二人という人数で、廃工場を根城にするほどのことなのか。あまり人目につかないアパートなり、雑居ビルなり、いくらでもあるのではないかと疑問がある。
やはり“幽霊工場”と言われるだけあって、人の出入りがないからが専らの理由なのだろう。稀に肝試しをしに来た者がいたとしても、その間を大人しく潜んでやりすごせばいい。実に使い勝手が良かったと考えたのかもしれない。
そして、警察は逮捕状を手にして二人を捕まえるべく幽霊工場へと踏み込むことを決定。たかだか傷害事件を犯した二人を相手に、十五人もの警察官を投入するほどのことなのか。大げさすぎやしないか。そんな考えがちらほらと警察内部からも出ている。
でもそれは――
“犯人たちが油断ならない相手だから、広い工場から逃さないための人数投入”と彼らは上から聞かされて行動をしている。ましてや、一人は今まで逮捕されずに逃げ続けることを平然とやってのけるからこそ、戦力を投入したと言える。それに、たった二人に逃げられては警察の威信に拘るという考えもある。
ただしかし、この十五人の一部、美加と安雄と隆文、この三人に関しては別の理由があった。むしろ“その理由”こそが、十五人もの警察官を投入させる何よりもの要因にあった。
犯人が得体の知れない“魔具”を所有しているからだ。そういう物を手にしているからこそ、何をしてくるか分からないために、念のための人数投入なのだと聞かされていた。
魔具。一言で称するのならば、それに当たる。ただし、人によって時にもよるだろうが、“悪魔の道具”、“魔法の道具”、他にも様々な言われ方をする。それこそ“神具”や“魔導具”と称されることもある。
そんな数々の名前を持っていながらも、決まって言えることは“人知を超えた代物”だということだ。それゆえに日の目に出ることは、まずないと言っていいだろう。人の目に、人の手に触れることなど滅多にないものである。
もし仮に、飽くまで仮の話をするとして、そういったものが世間のあちこちにあったとしたらどうなるのだろうか。科学技術の発展した世の中に“悪魔”だの“魔法”だのが溢れ返っていてもおかしくないのではないだろうか。漫画に小説、お伽噺の世界が現実に広がっていたのではないだろうか。
そんな“仮の話”がないからこそ、人の目から隠れて存在しているからこそ、そういったものが使われることがほとんどないといえる。お伽噺のような世界を目にすることがないのである。
なら、そういったものが日の目に出るようなことがあったら、どうなるのだろうか。
用いられて起きたことにより、“奇蹟”と称されているのかもしれない。けど、“奇蹟”なんてものがそう簡単に起きるわけがなく、大半は“仮の話がない”という後者になることが多い。
そんな“あやふや”な物だ。どこまでも浮世離れした代物だ。現実から遠く離れた代物と断言せざるを得ない。
そう考えてしまえば、科学技術の発達した今、“悪魔”だの“魔法”だのがあったとしても、すぐに日陰へと追いやられてしまうのではないだろうか。科学の前で“あやふや”というものは、“敵”でしかない。物事をはっきりとさせる科学の前では、到底受け入れられるものではないとも言えようか。
では、どうしてそのようなものを手にしているのか、ということになってくる。魔具を持つ大概の者の理由は、“世の中の金も権力も、あらゆるもの全てを手に入れるのはどうしたらいいか”ということだ。
勤勉に生き、少しずつでもいい、時間が経ってもいい、着々と手に入れる人がいる。逆に、運任せ、ギャンブルのようにハイリスク・ハイリターンで手に入れる人がいる。そのどちらの方法もなしで手に入れるには、やはり“人知を超えた代物”に頼るほかない。“奇蹟”さえあれば、どんなものでも手に入れられるだろうから。
そんな人たちが魔具を求めるのだ。犯人もまた、それに漏れなかっただけのことだ。
廃工場の中は暗く、幾条もの光が不規則な動きで錯綜している。どれも警察官の持つ懐中電灯によるものだ。それがないと足元すら分からないほどで、外から光が入って来たとしても、入り口の辺りを僅かに照らすことしかできない。懐中電灯だけが自分たちの行く先を示す大事な明かりなのである。
この暗さでもし何かを見つけたのなら、「幽霊が出た」と言う人が出てきても何ら不思議でもない。それだけに、この暗さにはおどろおどろしい雰囲気があった。それだけに、“幽霊工場”と呼ばれていることがよく分かるというものだ。
中へと入ってからは、列を組んでいた警察官たちが別々に行動を始めた。勝手な行動をとり始めたわけではなく、各々が二人単位として動き出したのである。それらの内、美加と安雄と隆文が三人単位となっている。元々が奇数人数であるために、どこかが奇数組なっただけのことであり、また、魔具を知る三人が組んだというだけのことだ。――計七組の散開行動である。
懐中電灯を照らしての中の様子として、さすがに廃工場となっているだけあり、機械らしい機械が何一つないように見受けられる。そのためか、建物自体が広く感じられた。物がなければ空間が広く感じるのはどこも同じなのだ、と美加は感想を胸の中で漏らした。
それでも、いくつもの仕切りでフロアが分割されているために、全体としての広さはうまく伝わってこない。さらにこの暗がりではいくら懐中電灯を持っていても、仕切りで塞がれてしまえばなおさら広さなど分かりにくい。
各々の組が手分けをして各フロアへと身を投じていく――。
どれだけの時間が過ぎただろうか。
工場の仲が広いからこそ、手分けをして捜しても早々に見つかるものでもない。相手が人間であるからこそ、考えて動くために、見つけるのは難しい。だからこそ、「犯人なし」という声が木霊する。また、もしかしたら逃げられてしまったのではないのかという焦燥感を誰もが抱くようになっていく。
警察官が中へと入ってきたことは、犯人がこの工場内に潜伏していたらすでに分かっているだろう。ひっそりと入ったわけでもなく、足音も声も聞こえるからこそ、分かっていないと考える方が不自然だろうか。
「どうしますか、柳崎さん」
焦燥感に駆られて、美加は不安を声に出して隆文を見やった。
隆文は何も答えてくれなかった。僅かに暗闇に慣れた目で見える隆文は渋い顔をしたまま、懐中電灯を照らしつつ犯人を捜して歩き続けるだけだ。むしろそれが答えなのだと隆文の無言が語っている。
「黙って、犯人捜せよ」
隆文が答えてくれないことに余計不安になってしまう美加の背中へと、安雄の声と共に何かでつつかれた。懐中電灯の先なのだろうと容易に察することはできるのだが、不意にやられてしまったことでビクリと体を強張らせてしまった。こうも真っ暗な中では、視覚が制限されて他の感覚が研ぎ澄まされているからこそ、恐怖もまた増幅されてしまう。
驚くほどのものではない、と小さく深呼吸して心を落ち着かせる。集中しなければ駄目なのだ、と。同時に気合も入れた。奥歯を噛みしめる力を増し、背筋を伸ばした。
この程度のことで簡単に震え上がってしまった心をどうにかできるわけでもない。だが、真っ暗なな中をずっと感覚もままならずに歩き続けてきたからこそ不安が煽り立てられる。虚勢でも張っていなければ、この真っ暗な空間に心の全てを呑み込まれてしまいそうだと感じた。だからこそ、態度で恐怖を振り払おうというのである。
――幾つ目のフロアを回ったところだろうか。離れたところで声が上がった。
声の度合いからして、何かを見つけたらしい。美加はその声に身が竦むような思いにさせられた。緊張と恐怖が最大限にまで膨れ上がったためか、単に元から臆病なだけか。
声は僅かながらに反響していて、どちらから声がしたのか判断に悩むところではあるが、隆文が方向を確認するまでもなく向かっていくので、美加と安雄も倣ってついていく。
今すぐにでも走っていかなければならないのだろうが、この暗闇では歩みを速めるののでやっとだ。床にはゴミやら石やら、何度も人の出入りした形跡があちこちに散らばっている。走ろうとすれば、それらで足を取られかねないので、已む無く馳せる気持ちを落ち着かせて歩いていくしかない。
声の上がった方には、一様に光が集まっていく。他の警察官も集まりつつあるようだ。
「柳崎さん、非常に不味い状況です」
美加たちが駆け付けた時には、すでに半数以上が集まっていた。その内の一人が隆文を見やるなり、そう言った。懐中電灯を当てない限り、彼の表情は受け買い知れないものの、代わりに声色から緊張感が伝わってくる。
しかし、何があり、何が不味いのか、になる。美加の目からは判断がつかなかった。正面に警察官たちが何かを囲っているので、そこにその何かがあるのだろうということだけ。手持ちの懐中電灯を照らそうにも、囲っている警察官たちによって隙間がなく、覗き見ることが叶わない。
隆文はその警察官と共に、集団の中へと入っていった。安雄もまた入っていく。美加もさらに続こうとした――のだが、集団に交じるどころか、すぐさま安雄の手に制されてしまった。
輪の中に入れなことでヤキモキとしてしまう。この状況下で安雄が意地悪をして中に入れてくれないのかと考えてもしまう。
でも、この状況下だからこそ、安雄が意地悪をするとは考えにくい。冗談をやっている場合ではない。誰もがそんなことを望んでもいない。至って真面目な理由があるからこそのものなのだ。
なら、どのような理由があるのだろうかと安雄に伺う視線を向けた。
「芒原はそこにいろ」
とだけ、それも簡潔に返ってきた。
せめてもう少し説明があってもいいのに、「どうしてですか」と尋ねた。
「お前に、ゲエゲエと吐かれても困るからだ」
安雄は眉をひそめ、察しろと言わんばかり。
美加はムッとなり、いくらなんでも状況も場所も構わず吐いたりなんかしませんよ、と言い返してやりたかった。けど、ふと金臭さが鼻を衝いてきたので、その言葉を胸の中へと引っ込めた。集団の向こうに何があるのかを察したためだ。
何を見つけて、何が不味い状況であり、吐かれても困り、金臭い――遺体があるのだろう、と。
胸の中でわだかまる感情を抑えるために一呼吸をし。
「い、いつまで経っても、新米扱いしないでくださいよ。は、吐くわけないじゃないですかぅ」
一度は呑み込んだ言葉を改めて吐き出した。ただし、その声は言っている本人にも分かるほどに上ずってしまい、明らかなまでに虚勢である。
「あぁ……まあ、そう言うのならいいが……」
安雄は呆れ顔だ。如何にも虚勢なのだと分かっていても、意気込みを受け入れてくれたらしい。集団をかき分けてスペースを作り、美加の位置からでも見えるようにしてくれた。
美加は近寄るわけでもなく、その場からスペースの先をまじまじと見た。
――奥に見えるもの。
目の当たりにしたことで、口を押えた。体が小刻みに震えてしまう。寒さによることもあるが、目の当たりにしたものが原因で震えてしまう。
吐き気が押し寄せ、幾度となく留飲を繰り返しながらも必死に堪えた。
そのスペースの先に見えた何かは、予想通りの遺体だった。それも、明かりを幾重にも浴びておどろおどろしいモニュメントと化していた。壁に寄りかかるようにして座り、頭をぐったりと垂らしている。眠りこけているだけのように見えなくもない。
でも、そうではない。遺体なのだと知らしめるものがしっかりとある。
額には人差し指でつつけるほどの穴が開いていて、血が滴っている。また、両目は見開かれたままに、焦点の合わない双眸が明かりを反射して、異様さを醸し出している。さらに、遺体の寄りかかっている壁には血がぶちまけられており、床へと広がっていた。
「仲間割れか? 正面から――ズドン、といったところか。二人じゃ逃げられないと思って、片方を消したのかもしれねえな。この顔は、糸間の方か」
安雄は口を押えている美加を見て、だから言わんこっちゃないとため息をつき、厭いた様子で美加から遺体へと視線を変えた。
遺体は安雄の言う“ズドン”からして、正面から撃ち抜かれたということになるだろう。ともなれば、壁の血は至近から銃弾を受け頭部を貫通、後頭部より突き抜けた銃弾と共に噴き出した血によって染められたもの、と状況が語っている。
「となると、すでに逃げられた後かのぅ……。空振りだったということになるやもしれんのぅ」
隆文は両手を合わせて黙祷を捧げてから、手のひらで遺体の両目を閉ざしてやった。