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人間世界 春②

人間世界の中学校に潜入すると、学級編成なるものが行われていた。研修で学んだ知識が早速役に立つ。人間としての振舞い方は、半年かけて妖怪世界で叩き込まれていたのだ。


小国の采配か偶然の産物か、俺と妖奈は同じ学級になった。今後しばらくのあいだ、この世界では紛れもない「中学一年生」になるのである。


にもかかわらず学校生活が始まっても、妖奈の態度は頑なだった。


問題行動は起こさない。授業が始まれば教科書を開き、クラスメイトに暴言を吐くこともない。ただ基本的な対人行動すらも起こさないのだ。腕を組んで唇を尖らし、伏目がちにじっと机を睨んでいる。


妖怪としての自覚から、極力目立たないようにしていたのかもしれない。それでも雪女の性か、彼女の容姿は目を引いた。最初のうち、友達になろうと話しかける女子も少なくなかった。


しかし妖奈は全て無視した。

そのあいだにも誰も彼もが探り合いながら少しずつ打ち解け合って、仲良しグループが形成されていった。


彼女が「浮いている生徒」と認定されるまで、そう時間は掛からなかった。


○○○


『怪斗、ちょっとはずしてちょうだい』


案内役兼見守り係の火の玉がついに見かねたのは、入学してから数日後のことだった。


二人だけが神社に揃うこと――それが井戸の狭間を開く条件だった。

狭間は厳重管理されている。人間世界の中学校に潜入するといった特殊任務を負っていようと、勝手に行き来することは許されないのだ。


火の玉が現れて『何か変わりなかった?』と聞いてくる。俺たちが「異常なし」と答えるとすぐに妖怪世界に戻される。それが帰宅までの段取りだ。


だからこの日は一言目からイレギュラーだった。そして心当たりなど考えるまでもなかった。隣の雪女を盗み見ると、どこまでも表情は不動だった。


鳥居の下に腰掛けて日の傾いてきた町並みを眺め、俺は言われた通りに時間を潰す。見計らって裏手に戻ると、妖奈は席を外したときの状態のまま微動だにしていなかった。

しかし火の玉から漏れ出る(表情もないのにどうしてかはっきりと分かった)不穏な空気が、二人が噛み合わなかったことを示していた。


『仕方ない、狭間を開くわ』


火の玉がそう言うや井戸の中に溜まっていた土や落ち葉が消えて、暗い穴が深く落ち込む。

先に妖奈が穴を降りた。続こうとした俺を火の玉が呼び止める。


『ねぇ、あんたからも言ってあげてよ』

「無理だよ。俺の言うことに耳を貸すわけないよ」

『でもこのままってわけにはいかないでしょう』


火の玉が溜息をつくと、一回り大きく膨らみ火花が飛んだ。


『心配なのよ。この年頃の人間はすごく難しいの。このままじゃ、あの子が嫌な目に遭わないとも限らないわ』


○○○


月が変わって五月の半ば、火の玉の予感は的中した。

むしろよくもこれまで何も起こらず持ちこたえたものだと、感心するべきところなのか。


その日の朝は、俺が妖奈よりも早く登校した。当初は人間対して身構えてはいたものの、俺は案外要領よくクラスに溶け込んでいた。

通学用のショルダーバッグから教科書を出して机の中に移し、早速クラスメイトの輪に加わろうと席を立つ。その時ちらりと妖奈の席を見た。彼女がまだしばらくは来ないことを俺は知っていた。


狭間は二人揃わなければ通れない。しかし時間はずらして登校するようにと指導を受けていた。潜入者同士が必要以上に馴れ合うのは好ましくないということだった。だから妖奈と俺は、一日ごとに先と後とを交代し、時間を空けて登校していた。

明け方に神社で別れたとき、妖奈が妖怪世界の書物をバックから取り出しているところを見た。人間と交流を持つ気はさらさらないらしい。


そんな主人のいないがらんどうの机。なぜか紙屑が載っていた。


何の変哲もない、ルーズリーフを丸めただけのものだった。中にメッセージが書いてある訳でもなさそうで、遠目からは単なるゴミだ。おおかた前日の放課後に誰かが投げ合いでもしたまま、片付け忘れたのだろう。

俺は軽く考えていた。


その後やってきた妖奈も紙屑をちらりと見ただけで、鷲掴みにしてゴミ箱へ捨ててしまった。


しかし三日後の朝、妖奈の机には紙屑が三つ載っていた。


五日後は五つになっていた。


意図的にやっている。

俺は紙屑を凝視し、それから教室を見回した。


早めに登校してきたクラスメイトが談笑していた。この一ヶ月間ほとんど毎日変化のない、まったく平和な朝の一場面だ。しかしその平和は崩壊の兆しを見せていた。


不気味に平穏を装う教室の中で、たった一人富澤という男だけが、顔を上げて戸惑う俺を見つめていた。最近特に仲良くしている人間だが、俺の行動を心配してずっと伺っていたらしい。目が合うと口パクで「放っておきな」と伝えてきた。


そして俺はその言葉に従う他なかった。

この病的な部屋の中での余計な行動は身の破滅に繋がるのだと、本能的に悟ってしまったのだ。胸糞が悪くて仕方がない。しかし人間の恐ろしい群集心理に放り込まれて、いつのまにか身動きが取れなくなっていた。


少し遅れて遂に妖奈が到着した。


戸口に立つと同時に全てを把握したようで、すぐに自分の机に目をやった。そして視線をそのまま固定して、教室の中に入ってくる。


空気ががらりと変わったのが分かった。


誰もが我関せず顔をしておきながら、さり気なく彼女を観察していた。ある者は会話の合間に盗み見て、ある者は背を向けながらもその背中に感覚を集中させている。


彼女が机の前まで来たとき、くすくすと忍び笑いが聞こえてきた。過剰に神経の尖った教室の中で、その声は不気味に浮かび上がっていた。派手物好きな女子グループからの声だった。

奴らが犯人か、心の中でそう呟いたのは俺だけではないだろう。


妖奈は死んだように瞳孔を開いて紙屑を見つめていた。

表情を変えないで、両手で五つの紙屑をさっとひとまとめにする。

こねるように圧縮しながら顔を上げ、首だけ回して教室を一瞥する。


空気、時間、血液。あらゆる流れが急停止した。


音が反響しながら遠ざかり、やがて何も聞こえなくなる。

筋肉が引きつり、誰も動けない。呼吸の仕方が思い出せなくなる。麻痺してしまった全器官の中で、冷たい汗だけが勝手に噴き出してくる。


まるで教室が、丸々巨大な氷塊に閉じ込められてしまったようだった。


ほんの一瞬が延々と引き伸ばされていく。


何が起きたのか理解した俺だけが、かろうじて我に返った。コホンと咳払いして全身に軽く衝撃を与え、体の機能を取り戻す。


「えーと、さっきの話なんだけど」


白々しく会話を切り出す。


透明な氷山は瓦解して、教室にいつもの色彩が戻っていく。

人間たちは事態を呑み込めず、しかし結論として何も起こっていないものだから戸惑いを隠せていない。息を吐いたり肩を回したりと、とにかく平静になろうと努めていた。自分一人が意味もなく動揺しているのだと思い込んでいる。


咳払いやうめき声に満ちた教室で、がたんと椅子の倒れる音が響く。それからすすり泣く女の声。派手女子グループから聞こえてくるとすぐに察しがついた。

しかし構ってやる者は誰もいない。不自然に見えない、聞こえないふりをしていた。

妖奈は無感情に顛末を眺めていたが、何事もなかったような顔をして紙屑を捨てに行った。


○○○


「妖奈、その」


学校が終わって神社へ戻ると、妖奈は必ず俺より先に着いていた。この日も石段に腰掛け、俺が登ってくるのを認めるや、すぐさま井戸に向かうために立ち上がった。


「ちょ、待って」


慌てて駆け上がると、妖奈は面倒くさそうに振り向いた。


「今朝のこと。というか、ここ最近のこと。……ごめん」


妖奈はくいっと片眉を持ち上げた。


「何のこと」

「あの、朝のこと。俺、何もしなくって」

「それか」

「でもさ」妖怪としてこれだけは言っておかなければならない。「人間相手に瘴気はやりすぎだと思う」


彼女の目がさぁっと冷え込んだのが分かった。


瘴気とは、古来より妖怪が持つ人に害をなす気のことだ。百鬼夜行を見た人間がそれから数日間高熱にうなされた末に亡くなったという逸話、それは瘴気に当てられたためだ。

ただ妖怪自体が弱体化していることに加え、人間と接触することもないために、それを使える妖怪は少なくなっている(ちなみに俺は出せない)。妖奈は誰かの下で特殊な訓練でも積んだのだろうか。


梢越しに見える町並みが、太陽の残滓に照らされている。桜はもう散りきって、若葉が枝の関節から吹き出していた。


「……軽く威嚇しただけ」


妖奈がおもむろに呟く。


「それは分かるよ。実害はなかったし。だけど今の人間は平和ボケしてて耐性がないんだよ。ほら、あの軽さで泣いちゃうくらい。俺らとは生きてる世界が全然違うんだから」


刺激しないように忠告したつもりだが、妖奈は気に食わなかったらしい。人間風情が、と吐き捨てるように言った。


「人間風情が挑発してくるのが悪いんじゃない」


俺は口をつぐんだ。あまりに価値観が違いすぎる。

人間中心に考えている俺とは反対に、妖奈は人間を根っから拒絶している。何が気に入らないのか。それとも妬ましいところでもあるのだろうか。


ただ一つだけ好転したことがあった。この件からというものの、妖奈をいじめようとする者はいなくなった。

人間たちには何が起こったのか最後まで分からなかったに違いない。それでも本能的に危険因子を察知したようだ。


しかし同時に、妖奈に多少でも好意的に関わろうとする者もいなくなった。

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