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人間世界 春①

およそ一年前。彼女とは真っ暗な夜の墓地で出会った。

俺たちは古井戸の前で対面していた。


日迎鳥(ひむかえどり)が「すすり泣く」ような声で鳴いていた。


かわいらしい、というのが第一印象だ。小柄で華奢な体型に色白の肌。おかっぱの髪はさらさらで、月の光を受けて紺色に輝いている。

その身を包んでいるのはこの国では滅多に見ることがない、人の世界の「ブレザー」と呼ばれる着物だった。


怪斗(かいと)。人間名は戸神怪斗(こがみかいと)


親しげに微笑んで先に名乗る。そしてポンッと乾いた破裂音を立てると、俺は小狸へと変化した。つぶらな瞳で少女を見上げ、ふさふさの尻尾を揺らしてみせた。

二回目の破裂音で人型に戻る。


古狸(ふるだぬき)だよ」


俺は友好的に右手を差し出した。手短だが愛嬌があり、掴みは完璧だったのではないか。特に女の子ならば小動物に心ときめかないはずがないだろう。


彼女は俺の手をまじまじと見つめていた。瞳は水晶のように真ん丸で、青く澄んだ色をしていた。小さな口は引き結ばれたまま動かない。感想も感情も漏らさない。そのまましばらく時が過ぎた。


どんな解釈をしたとしても不自然に長い沈黙ののち、彼女はようやく俺の手を取った。


「ような」


年齢相応の、やや高めで控えめな声がそう言った。俺はほっと肩から力を抜く。その瞬間、手の甲に痛みが走った。


「あつっ……!?」


咄嗟に彼女の手を振り払う。握られていた右手にはなぜか白く霜が降りていた。慌ててブレザーのズボンに擦り付けてこそぎ落とす。

俺のそんな道化ぶりを、少女は瞳孔を開いて生気のない目で眺めていた。しかしすぐに興味を失ったようで、蝶が花から舞い立つように前触れもなく井戸に視線を移す。


『人間名、加賀妖奈(かがような)。彼女、雪女なのよ』


俺と彼女の間をふわふわと漂いながら、桃色の火の玉が代わって紹介をした。声は女性で、大人の頭部ほどの大きさだ。


雪女――それを聞いてなんだか納得した。妖奈という少女から未熟ながらに匂い立ってくる天然の美しさ。今は可愛らしいイメージが強いが、成長すれば確実にいい女になることを予感させる。雪女とはそういう妖怪だ。


○○○


そう、俺達は妖怪だ。そしてここは人の住む世界ではない。人の世界に模して創られた、妖怪のためのかりそめの世界である。


○○○


オリジナルである「人間世界」の裏側、異空間に俺たちの暮らす「妖怪世界」はある。


俺が生まれる何十年も前に、妖怪は人間世界に適応できなくなったそうだ。そこで妖怪の力を半分捧げ、人間化することと引き換えにこの世界を創ったのだ。


妖怪は人間世界では淘汰される運命にある。しかし、まさに不幸中の幸いと言うべきか、人間化してしまった半身を使うことで人間世界に潜入できることが発覚した。俺と彼女は人間世界に派遣され、人間文化を学んでいく特命を受けている。


ただこの「人間化」を逆利用した行為は、妖怪の尊厳を損なうとして反感を持つ一派もいる。しかしそれはまた別の話でいい。


妖怪世界と人間世界の均衡が崩れた特殊な空間をトンネルのように通過することで、世界の移動は行われる。この空間を「狭間(はざま)」と言って、墓地の井戸はその入り口に当たるのだ。


○○○



墓場の井戸の狭間を通り、やってきた人間世界。

そこには温かみと色彩が満ちていた。


「これが……」


絶句した。空は青く澄んで高く、雲はふんわりと優しかった。ぽかぽかと麗らかな陽気が梢のあいだを縫って届き、吹く風は柔らかく肌を撫でていく。


しかしなによりも、視界いっぱいに広がる薄桃色が信じられなかった。梢にはち切れんばかりの花を咲かせる桜という樹木。妖怪世界にある張りぼての「桜」よりいっそう生命力に溢れていた。


頭を撫で回してみても、小さな獣の耳には突き当らない。代わりに普段よりも低い位置に、やたらとすべすべした感触の人間の耳が突き出していた。

尻から大胆に生えていた尻尾もどこかに消えてしまっている。尻尾のせいで窮屈だったズボンがようやくしっくりきた。


目の前には木造の建物がある。壁はささくれ立ち、瓦屋根は崩れて地面で割れている。人間世界では神社に出ると、案内役の火の玉は言っていた。この建物が本殿で、俺たちはその裏手にいるのだろう。

そして狭間の出口たる井戸はすぐに見つかった。本殿に引けを取らず相当に年季が入っているようだ。石積みはところどころ崩れ、歯槽膿漏で歯の抜け落ちた口内のような有様になっている。低い木立が覆い被さり枯葉が堆積し、意識しない限りは目に付きづらい。


足が沈み込んでしまいそうなほどの腐葉土の熟成具合から見ても、人が踏み入らなくなってだいぶ経つのだろう。廃神社といっても罰は当たるまい。


「人間世界、来たんだねぇ」


感慨に浸って呟いても何も響いてこない。


そこで妖奈がいなくなっていることに初めて気が付いた。

俺が人間世界に気を取られているうちに、一人でどこかへ行ってしまったようだった。


急いで探し始める。見知らぬ世界の慣れない土地。俺達はこれからたった二人で、異種であることを押し隠しながら人間社会に交わっていくのだ。研修でも助け合っていかなければならないと、さんざん言い含められてきたというのに。


本殿を回り込んで正面に抜けると、開けた空から日差しが爽やかに降り注いでくる。本殿は賽銭箱や鐘が撤去され、格子状の正面窓は腐ってあちこち折れている。赤い塗料が剥げかけた鳥居の手前に、苔むした二対の狛犬が立っている。狛犬の間には、土と同化しかかった石畳が横たわっていた。


その石畳の先に妖奈はいた。


「うわ、すごい」


妖奈の隣に立ってみて、そこから見える絶景に俺は歓声を上げた。


石畳は急な石の下り階段に繋がっていた。開けた梢の間から麓の町が見渡せる。密集している白っぽい住宅地に、この場所が人間世界だと実感させられる。しかし視界の半分は茶色の土地が占めていて、それほど都会的な場所ではないことも分かる。


強い風がさっと吹く。階段の両脇で枝を広げている桜の木が一斉に花びらを散らした。青い空との対比が見事だ。人間世界とはなんとも鮮やかだ。


「これからよろしくね」


気分が高揚してきて隣の妖奈に話しかけた。


しかし彼女は唇を真一文字に結び、忌々しそうに下界をねめつけていた。人間的な黒い瞳に黒い髪。妖怪世界での彼女特有の青い輝きは、人間世界の太陽の下では失われていた。


「妖奈、大丈夫?」


気分でも悪いのかと覗き込む。彼女は俺とは目を合わさず、避けるように階段を下りた。


「……気安く、話し掛けないでよ」

「え?」


怒りに震えたようなその声に、俺は一歩を踏み出しかけたまま硬直した。

数段下ったところで妖奈は振り向き、俺を睨む。可愛らしい容姿からは想像もできないほど、攻撃色を帯びた醜悪な眼差しだった。


「私は好きでこんなとこに来てるんじゃない」


刹那、白い桜吹雪が彼女の背後で渦巻いて流れていった。吐き捨てるようにそう言った妖奈は、一人でずんずんと階段を下りていく。


俺は呆気に取られて立ちすくんでいた。

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