プロローグ
新月の夜だった。
新月といっても月が太陽と直線的に重なり、地球からは陰になって見えなくなる現象とは違う。この世界においてはもっと単純で、システムめいたことに過ぎない。
彼女は冬枯れした野原に太く横たわる、轍だらけの土の道にぽつんと一人立っていた。白い着物と白い肌が暗闇に滲んでいる。
「怪斗」
呼び止めたのは俺なのに、口火を切るのは彼女だった。
「私、行くから」
鋭い瞳には青い光が湛えられている。睨まれたところで、俺は彼女にどうこうしようなどとは思っていない。むしろ何かをすべき局面であることは、薄々感じてはいるのだけど。
誰も通らない。人にあらざるものですら嫌う、世界の反対へと続く道。彼女はその道を歩もうとしていた。誰の手も借りず、一人ぼっちで。
「……気を付けて」
ようやく絞り出したのはたったそれだけの労いだった。しかし彼女はへたれた俺に、落胆も失望も浮かべることなくただただ力強く頷いた。分かってはいたことだが、俺に対して少しの感慨すらも抱いていなかったのだ。
「あんたも元気で」
そう言って、彼女は手に持っていた重そうな外套を肩から羽織った。すると白い肌そして着物が、漆黒の中に閉ざされる。いつもは月光を含んで淡く光る紺の髪も、新月の下では黒く沈んでいる。
一方で丸く大きな青い目は輝きを増す。仏頂面がデフォルトの彼女からは考えられない顔つきだ。それほどまで追い詰められていたということか。心の奥底にある怒り、不安、恐怖がうねり燃え滾っているのが、俺の目からも伝わってくる。
「私、どうあってでも、絶対に」
――あの人を守ってみせる。
そうだ、と思った。
多分俺たちは今、大きな分岐点にいる。
世界を形作る二つの巨大な構造体の、修復不可能なぶつかり合い。それを象徴するかのように険しく聳える遠くの山脈。その中にある誰も到達したことのない場所に向かって、怯むことなく突き進もうとする彼女。人気のない道にただ立ち竦み、進退窮まっている俺。
俺は普通で、彼女が特別。
生まれながらに持っていた因果の質が違うんだ。俺がどんなに道理を踏み外そうとあがいても、強大な力に引き戻されてしまうのがオチである。よくても及第点の人生しか送れやしないのだ。
分かっている。
分かっているんだ。
何度も自分に言い聞かせる。小さな背中は刻一刻と離れていく。それでも俺は、焦りを感じずにはいられなかった。