二.お前のためならば、僕は何でもする。
前回の続きです。
加賀屋が近くの椅子を引いてきて、そこにかけた。
横目に見ると、堺さんは膝に乗せた手はそのままに、少し身を前に乗り出していた。彼女も話を聞くつもりらしい。表情は真剣そのもので、いつでも謹聴できますよと体で訴えているようだった。
それを見た加賀屋が言う。
「堺といったか。もしかしてあなたも手伝ってくれるのか?」
当然の問いに、堺さんは口元を緩めた。
「もちろんですよ。困っている人は放っておけません。嫌ならもちろん手を引きますが、私も及ばずながら、手伝わせていただきます」
前回はそうだったらしいが、堺さんは今回も見返りを求めているのだろうか。
「あ、ありがとう。堺……いや、堺さん」
「堺でいいですよ。あ、花川さんも別に呼び捨てで構わないんですよ?」
曖昧に頷いておく。なぜだか分からないけれど、彼女を敬称略で呼んだりしたらいけない気がする。これは僕なりの敬意なのだ。
「じゃあ、話してもいいか」
僕が目で促すと、加賀屋は頷いて話し出した。
「クラスメイトである井口菫咲という女子生徒の私物が盗まれた」
堺さんが間髪いれずに問いかける。
「私物とはなんですか?」
「お守りらしい。実物を目にしたことがないから、色などは分からん」
そんなものを盗むとは、なんと罰当たりな。
「お守りは財布の中に入れていたらしい。で、その財布は机の中に入れていたんだと。そんな無用心なことをしていたから、五時間目の体育で教室がもぬけの殻になっているときに盗られたそうだ」
「他の被害はあるのか?」
「いや。俺が聞いていないだけかもしらんが、井口の場合は少なくともお守りだけみたいだな」
隣を見ると、堺さんが腑に落ちない様子だったので、水を向けてみた。
「どうした堺さん。眉なんか寄せて」
すると彼女は慌てたように目の上を手で隠した。
「え、寄せてました? やだ見ないでください」
まあ、言葉の綾なのだけれど。
「ちょっとおかしくないですか? お守りは盗まれたのにお金のほうは被害に遭っていないなんて」
「そうだな。金銭目的でも無差別でもないみたいだから、井口個人に恨みがあるのか、もしくはどうしてもそのお守りを盗み取る必要があったのか」
とまれかくまれ、他人の心の内を読み取ることは不可能なのだから、そこから犯人を絞っていくことはできない。
「それのどこに加賀屋が疑われる要素があるんだ?」
「昼休みいっぱいまではお守りは無事だったんだと。けれど体育の後の休み時間には既になくなっていた。だから五時間目に犯人は盗みを働いたということになるよな」
「戸締りはしていなかったのか?」
今の時代、貴重品を無人の教室に置きっぱなしにさせる学校があるはずがない。この坂月高校はかなり古いが(歴史的にも、校舎的にも)、鍵がないわけではない。前方のドアは、引違い戸を南京錠で固定する旧式のタイプだけど、防犯としては十分機能する。後方のドアや廊下側の窓はねじを差し込む内締まり錠だが、役に立たないことはない。
「いや。戸締りはしてあった。最初の五分間を除いてな。間抜けなことに俺が戸締りをし忘れた。思い出したときにはチャイムが鳴ったあと。体育の先生に事情を話して、一人で鍵を締めに戻ったんだ」
本当にこいつは不運だな。この坂月高校では、その日の日直が戸締りを担当することになっている。お守りが盗まれた日に限って加賀屋は日直に当たってしまったってことだ。
「犯行が可能なのはその五分間のみ。それを知った井口が職員室をたずねて、授業開始五分間の内に廊下で生徒を見た先生はいないかを訊いて回ったそうだ」
「その結果は……」
加賀屋が顔をしかめた。思い出すだけでも嫌みたいだ。
「俺を見た先生はいたそうだが、俺以外の生徒を目撃した先生はいなかったらしい」
「なるほど。それで確実に八組の教室に向かった加賀屋が疑われたってわけだな」
最悪の結果。不運の極み。加賀屋はそういう星の下に生まれたのだと納得するしかない。
「……まあ、よしんば生徒が出歩いていたとしても、先生がそいつらを見つける可能性なんて五分五分だと思うが」
加賀屋は僕の言葉に後押しされたせいか、勢いづいて愚痴をこぼした。
「そうだよな! そう思っていたんだ! それなのに井口の野郎、俺を一方的に責めやがって! あの単細胞が!」
燃えているところ悪いが、お前も中々単純だと思うぞ。口にはしないけれど。
「でも、困りましたね。とどのつまり、容疑者は加賀屋さんひとりだけなんでしょう?」
「う、まあ……その通りだが」
堺さんの言葉に加賀屋は言葉をつまらせる。テンションの起伏が急だなあ。
それから加賀屋は僕を見た。
「春樹、神に誓って俺はやってない」
「わかっている」
「別に犯人を挙げる必要はない。俺の無実を証明さえしてくれれば」
僕はすぐに返答する。何度問われようが、答えは決まっているのだから。
「できなくてもやるさ。お前のためなら、僕はどんなことでもするからな」
少し考えてから、僕は言った。
「方法はいくつかある。ひとつ。この場をただ乗り越えるだけの方法。不本意だろうが、謝罪し許してもらう。これにて事件は解決」
僕の言葉に真っ先に反応したのは加賀屋ではなく堺さんだった。
「どうして謝るんですか? 無実ですのに」
「無実を証明するより、謝るほうが早くて楽な場合があるからな」
堺さんはまだ納得できないというような顔をしている。
「春樹、それは無理だと思うぜ。井口の性格が問題だ。あいつのことだ、謝るのならお守りを返せと喚き立てるに決まっている」
じゃあ、この案は却下だな。
「ふたつ。犯人を捕まえる。でもその方法が最も難易度が高くて、最も手間がかかる。加賀屋としてもなるたけ早く候補から外れたいだろ」
加賀屋が首肯したのを見て、僕はこれをひとまず保留しておくことに決めた。
「みっつ。加賀屋のアリバイを証明する……だけど、今回は難しいかな。いやまあ、やってみるしかないのだけど」
僕はおもむろに腰を上げた。
「乗り気じゃないけれど、いざとなればよっつめの手段がある。そうと決まれば動こうか」
堺さんと加賀屋の二人も席を立つ。
「加賀屋にも手伝ってもらうぞ。お前は、職員室や先生のいそうな教室を巡って、あることを訊いてくれ。内容はあとで言う」
加賀屋は頷いてから、
「春樹はどうするつもりなんだ」
「それだけど、加賀屋の教室って八組だよな。今誰かいるのか? ちょっと八組で調べたいことがあるから、僕としては誰もいないほうが嬉しいのだけど」
「それなら大丈夫だ。おそらく誰もいない。放課後だから、鍵は開いていると思うし」
「よかった。それじゃあ、やることをしたら、ここではなく八組の教室に集まろう」
「花川さん」
堺さんが詰め寄ってくる。
「私は何をすればよろしいのでしょうか!」
彼女の、ぶれることのない真っ直ぐな視線を向けられ、どうしても僕は目を逸らしてしまう。
「堺さん。堺さんは……すまないが、教室に残っていてくれないか。真鈴がいつ戻ってくるか分からないから」
堺さんの表情が凍りつく。悪い気はする。真鈴のことは僕自身の問題だ。筋違いと言われれば否定することはできない。だけど、今の僕の優先度からすると、加賀屋のほうが重要なのだ。それに人の役に立つことが何より好きな真鈴あやめだから、加賀屋の問題を先に取り掛かることを許してくれるはずだ。
堺さんはそれでもお留守番は嫌みたいで、必死に言葉を探そうとしている。
「え、で、でも、花川さん」
このままでは引き受けてくれなさそうなので、僕はできる限り頭を下げ、手を合わせる。
「頼む。この通りだ。このお詫びはまたいつかするから!」
言いながら、『ああ、こうして借りの泥沼にはまっていくんだな』とかどうでもいいことを思ったりした。
僕の自己犠牲に満ちた(自分で言うのもなんだけど)気持ちが伝わったのか、堺さんは口を尖らせて、『分かりました』と渋々了承してくれた。
席に座りなおす堺さんに『なるべく早く戻るから』と心の中で念じながら、加賀屋と教室を出る。
僕は後ろ手でドアを閉めたあと、加賀屋が木製の無粋なドアの向こうにいる堺さんを見るように言った。
「なんか悪いことしたな」
「それは僕が一番分かっているよ。――加賀屋。それでな、先生達に訊いて欲しいことなんだけど」
加賀屋と別れたあと、少し歩いて一年八組の教室の前に着く。
上の窓から電灯の光は漏れていないから、加賀屋の言う通り誰もいないのだろう。胸を撫で下ろした。
僕はドアの凹みに手をかけて、横に開けようとする――が、ドアは少し揺れただけで堅く閉じたまま。なぜだろう。金具に南京錠はついていないから、鍵はかかっていないはずなんだが。
もう一度挑戦してみるが、やはり動く気配は微塵も感じられない。
腕組をしてドアを睨む。すると突然、背後から声をかけられた。
「もう一枚の扉を使ってみてはどうでしょうか?」
「わっ!」
格好悪く驚きの声を上げながら、振り向くとそこには堺さんがいた。いつもの微笑と悪戯をした子どもの笑みが混ざったような表情をしていた。音も無く後ろに立つものだから、本当に驚いた。戦国時代だったら、僕はとっくに殺されている。
どくどくと脈を打つ胸を抑えながら、僕は格好悪い姿を見せたことをごまかすかのように文句を言う。
「一方的に頼んだとはいえ、まさか堺さんが約束を破るとはな」
彼女はペコリと頭を下げてから、顔を上げて言う。
「ごめんなさい。ですが心配ご無用です。『すぐに戻ってきます。ここで待っていてください』と書き置きを残しておきましたので」
あ、その手があったか。
「それは了承したけれど、どうしてきたんだ」
「もちろん、花川さんのお手伝いをするためです」
この人すごいなあ。僕だったらあと百年生きてもここまで献身的にはなれない。
閑話休題。
この頑なに開こうとしないドアをどうにかすることのほうが先決だ。
「ひとまず堺さんの言う通りにしてみるか」
この学校の教室の出入り口はほとんど全て木製の引き違い戸だから、二枚で一組。だからもちろん、この『動かざること山の如し』のドアにも相方がいる。
「こっちはこっちで錠がかかっていると思うんだけどなあ」
引き違い戸はどちらか一枚しか使われない。そちらのほうが楽だからだ。大概の場合、外側のレールを通る側のドアになるだろう。こいつらもご多分に洩れず、レギュラーは南京錠で固定する外側だ。
南京錠で施錠しない方は普段使われないため、鍵がかかっているはずだが、それでもいちおう、堺さんの言われるがままに内側にある戸の引手に手をかける。もしかしたら錠が外れているかもしれない。しかし、そんな僅かな期待を込めた右手が動くことはなかった。
「花川さんが非力なだけじゃないんですか?」
実際にそうだから言い返せない。
内側の戸は外側のそれと違い、南京錠で施錠しないため、教室の内側からしか開錠・閉錠ができない。
はてどうしたものかと細い腕を組んで悩んでいたら、堺さんが僕とドアの前にするりと滑り込んできた。
「私に任せてください」
そう言って、彼女は初めに開かなかったほうのドアの引手に右手を、そのドアの端に左手を添える。
「いくら僕が非力だと言っても、女子である堺さんが僕以上に力持ちだとは思えないのだけど」
「人を性別や見た目で判断してはいけないんですよ、花川さん」
言うと、堺さんは今まで開かなかったのが嘘のように、カラカラとドアを滑らせたのだった。そんなに呆気なく開かれては僕の立つ瀬がないじゃないか!
堺さんは振り向いて、誇らしげに笑みを浮かべる。
「こういうのはコツがあるんですよ。このドアだけじゃないですけど、結構年季が入っているでしょう? だから、戸をスライドさせるためのレールが歪んでいるのだと思ったんです。そういうときはちょっと持ち上げてると簡単に開くんですよ」
「へえ。堺おばあちゃんの知恵袋か」
そう言うと、堺さんは一瞬だけ驚いたように目を見張り、それからニコリと微笑んだ。
「花川さん。私が怒らないと決め込んでいるのでしたら、それは大間違いだと申して上げておきます」
怖いよ。業腹なのを表面に出していないのがなおさら怖い。
「ごめんなさい」
謝るとすぐに怒りは引っ込んだらしい。堺さんは踵を返して教室に入っていく。
「まあでも夏休みに学校中を一斉リフォームするらしいですから、もうしばらくの辛抱ですよ」
それは良いことだけれど、どうしてそんな裏事情を今まで学校に来ていなかった堺さんが知っているのだろう。
彼女の黒い髪を追いかけて教室に入る。案の定、教室はがらんとしていた。
「花川さん。ちょっといいですか?」
「なんだ」
「怒らないで聞いて欲しいんですけど」
申し訳なさそうに堺さんは言う。
「私、加賀屋さんを一番に疑っているんです。彼が最も容易に盗むことができるのは間違いがないですし、それに、『無実証明をするだけでいい』という台詞も引っかかります。それはつまり裏返せば、事件に深入りしないでくれ、と言っているとも取れます」
「考えすぎだと思うけどな。……まあ、何にしても」
僕は言う。
「加賀屋が犯人であろうとなかろうと、僕はあいつの味方をし、あいつを信じる。僕までもが加賀屋の敵側にまわったりしたら……」
適切な言葉が思いつかなくて、僕は始めに頭に浮かんだ言葉を口にする。
「……可哀想だろ」
堺さんは少し考えるようにしてから、頷いた。
「そうですね。わかりました。私も加賀屋さんを信じます」
「ありがとうな」
「ところで、花川さん」
堺さんが訊いてくる。
「花川さんは今から何をするんですか?」
「ん。ああ、よっつめの方法を検討してみるんだ」
僕は一度伸びをした。
さてと、頑張りますか。
続きます。