一.そして夏
夏休み前のある日。
花川春樹は真鈴あやめから、堺麻子が窮地に陥っていると聞く。
堺麻子は、教壇に立ってペコリと一揖した。
「堺麻子と申します。今日からどうぞよろしくお願いします」
六月という中途半端な時期から登校してくるようになった堺さんは、実は転入ではなく欠席をしていたのだけど、それでもやっぱりクラスメートのほとんどとは初対面。朝礼のときに、楠居先生の提案で自己紹介をすることになったのだった。
彼女が頭を上げて、ニコリと天使のような微笑を浮かべると、次には教室中がどっと沸いたのだった。……男子を筆頭に。
「こちらこそよろしく!」
「前はどこの学校に通っていたの?」
「黒髪で眼鏡とかはっきり言ってすげータイプなんだけどっ!」
「わからないことがあったらなんでも聞けよ!」
「先週、教室に来ていたよね!」
ガッツポーズとか、男子がもう気持ちいいくらい歓喜している。この騒ぎに乗じていない男子生徒でさえもニヤニヤと笑みを浮かべている。男がどれだけ馬鹿で単純な生き物かってことがよくわかった瞬間だった。いやまあ、僕も男なんだけど。
転校生がやってきたら教室中が騒ぐのは毎日太陽が昇ってくるのと同じくらい当然で、その日は一日中、堺さんを暇があれば男女問わずに誰かが取り囲み、質問攻めをしていた。噂を聞きつけた他のクラスの人達もやってきた。
のちのちわかってきたことだけど、どうやら彼女、転校生として通していくつもりらしい。欠席で通すよりも、転校生で通すほうが気楽と思い至ったのだろう。
誰からの問いかけにも丁寧に答える堺さんを隣席からぼんやりと眺めていて、僕よりも上手くやっていけそうだなと思った。
加賀屋蓮と井口菫咲とのどさくさから二週間後。うだるような暑さと蝉の鳴き声を従えて夏がやってきた七月初旬のある日。転校生騒ぎのほとぼりも冷め、堺さんは邪な気持ちを持った男子生徒をあしらうことに慣れてきたようだった。
放課後。僕が帰ろうとバッグを肩にかけたとき。
真鈴あやめがポニーテールを揺らしながら僕の机までやってきて言うのだった。落ち着かない口調で。
「ハル、またわたしの頼みごと聞いてくれないっ?」
彼女は僕のことをハルと呼ぶ。僕の名前――花川春樹のハルをとっているのだ。
「聞くだけならいいぞ。動かないが」
「今、そんな軽口叩いているわけにはいかないの」
叱られた。
「堺さんがピンチなんだって!」
なんと。
隣の席にはその堺さんの姿はない。
非常事態なら仕方がない。目で先を言うよう促す。
「一昨日ね、堺さんに、学校にも慣れてきたし、何か部活動でもしてみればって提案して、わたしと一緒に文化系クラブをいくつか回ってみたの。体験入部というより見学みたいな感じで。でね、将棋部に行ったときのことなんだけど」
真鈴はそこで言葉を切り、じっと僕を見た。
「堺さんのこと、どう思う?」
「は?」
「外見だよ。どう見える?」
少し考える。眼鏡に、一度も染めたことがないだろう長い黒髪。あと外見ではないけれど、物腰が柔らかい。
「真面目、優等生」
「いや、そっちじゃなくて」
「ステレオタイプの委員長とか?」
「堺さんは委員長じゃないでしょ。――えっとね、堺さんってカワイイじゃない?」
「ん。いやまあ、美人じゃないって言えば嘘になるけれど」
ただの転校生というだけで、あそこまで男子生徒が群がってきたりはしないだろう。
「だから、ちょっかいとか多いわけ」
真鈴が拳を握り締める。
「将棋部のひとりが堺さんに言い寄ったわけだよ。――わたしを差し置いてね!」
お前はどこに怒っているんだ、という質問はよしておこう。
僕はかけていたバッグを机に下ろし、もう一度椅子に腰掛けた。
「……ん、じゃあ、まあ、最初から話してくれ」
「うん。協力ありがと。……ごほんっ。そう、あれは一昨日のことだった――」
真鈴はベタな前置きで過去を振り返りだしたのだった。
「えっと、じゃあ次は将棋部に、なるかな」
わたしは手帳を見ながら隣を歩く堺さんに聞こえるように呟いた。
「真鈴さんってすごくしっかりしてますよね」
彼女はわたしの手元の手帳を指差す。文化系クラブの名前と活動場所が、わたしの字で羅列されている。
「事前に調べておいてくれたんですよね」
「あ、うん、そうだけど。余計なおせっかいじゃなかったらいいのだけど」
「そんなことないですよ! すごく嬉しいです! 部活を見て回るのに付き添ってくれた上に、ここまでしてもらっちゃって。本当にすみません」
「いいよいいよ。困っている人は放っておけない性分だし」
そんな申し訳なさそうに言われたら、こっちが困る。
「真鈴さんの前に、花川さんに声をかけたりもしたんですけど、断られちゃいましたし」
「……そう。ハル、面倒臭がりな一面があるしね」
なんだろ。なんだか複雑な気持ち。断ってくれてよかったと思っている自分がいた。
「あ、ここだね。将棋部がいる――化学講義室」
化学講義室は普通教室と同じくらいの大きさがあるのに、将棋部の部員と思われる人たちは隅の方に固まって談笑していた。全員で四人。男子生徒のみ。第一印象で物を言っちゃうけれど、教室でも隅の方でヒソヒソ話していそうなそういう人たちだった。
「ごめんください。体験入部したいんですが……」
堺さんが少し開いたドアから中に声をかけると、彼らの視線がこちらに向いた。皆が皆、普段見慣れない訪問者を明らかに警戒している様子だった。
早くも、帰りたくなってきた。でも、堺さんを置いてわたしだけ帰るわけもいかないし……。
ひとりが、席を立った。長身の眼鏡をかけた人。
「えっと……いらっさひ。僕が、部長の浦風」
向こうが年上なのに、緊張がわたしにまで伝わってくる。彼が噛んだ時、思わず吹き出しそうになった。
「二人とも、一年生かな」
「はい。あ、でもこちらの方は私の付き添いで来てくれただけですので」
「そうなんだ。じゃあ、こっちに……」
浦風部長と堺さんのやり取りを見ていると、他の部員達のひそひそ声が聞こえた。
「一年だってさ。お前、何組か知ってる?」
「ああ、眼鏡じゃない方は六組だったぜ、確か」
「いやいや、そっちじゃなくて、おしとやかな方」
「いいや、知らねえなあ。訊けばいいだろ」
堺さんは最近学校に来始めたばかりだから知らないのだろう。
「お、お前が訊いてくれよ。ちょっと恥ずかしい」
「はあ? チキン過ぎるだろお前」
「じゃあおしとやかじゃない方に訊けばよくね?」
「あ、それ名案」
なんだおしとやかじゃない方って。わたし、まだ一言も発していないのだけど、どうしてそんなことがわかるわけ?
ため息をつく。
……ねえ、堺さん、本当に帰りたいのだけど!
部員のひとりがわたしに堺さんのクラスを聞くだけ聞いたあと――ありがとうすら言わなかったのがわたしの怒りを更に助長させた――彼らと堺さんはわたしなど蚊帳の外で対局を始めてしまった。
わたしは少し離れた椅子に腰をかけて、堺さんを彼らに任せて、ケータイを触っておくことにした。
たまに目をやると、部長さんはしばらくするうちに舌が回るようになったみたいで、まだ多少噛むけれど、率先して話すようになっていた。他の三人はたまに口を挟むだけで、明らかに口数が少なっている。美少女が現れるだけでここまでわかりやすくなるんだなあ。面白い。
他の部もあとひとつぐらいは回っておきたいらしくて、あらかじめ時間を限定をしていたため、体験入部は小一時間で終わった。
部長が、名残惜しそうにわたしたち――わたしには目もくれないけれど――を化学講義室の入口まで見送る。他の部員たちはわたしたちが席を立ってプレッシャーがなくなったのか、早くも笑顔で談笑し始めていた。
「よかったらまた来てね。正式に入部しなくても、僕たちは皆歓迎するから」
堺さんは笑顔で受け答えする。
「はい。楽しかったです」
「き、君ならセンスあるから強く、なれるよ」
「そうですか? 嬉しいです!」
「……えっと、それで、さ」
髪をぼりぼりかきながら、部長さんは詰まりながらも喋る。いつまでわたしを無視し続けるつもりなのだろう。というかいつ帰してくれるのだろう。
「こう、言っちゃあなんだけど」
「はい」
それにしても二人で会話するようになってから、部長さんの顔に緊張の色が戻ってる。いくら美少女相手でも緊張しすぎ。ちょっと滑稽だ。
と思っていたら。
「……君のことがさ、す、好きになったみたい。つ、付き合ってくれないかな」
な。
なんですと。
浦風さん、出会ってから行動に移すまでが早い! というかわたし、この場にいないことになってません!?
突然の告白を受けた、肝心の堺さんはといえば、微笑を崩さずに少し間を置いてから答えた。
「ごめんなさい。だって私たち、お互いにまだ何も知らないじゃないですか。お友達から始めませんか」
「じゃ、じゃあさ。どこか、出かけ、ません、か。……友達として」
おお、堺さんの言葉を逆手に取ってきた。それでもアタックを続ける彼に、一周回って感心する。脈なしだと思うけどなあ。
少し悩む素振りを見せた堺さんが何か言う前に、部長さんは言った。
「やっぱり、駄目ですよね」
「いえ、そんなわけじゃ……」
それでも言葉を濁す堺さん。
「じゃあ、こうしてくれません、か」
部長さんが提案する。
「もし僕が、君に将棋で勝ったら……デートを、してくれませんか? だけど、君が僕に勝ったら、もうあなたには、絶対に近づかないから」
「なっ」
思わず声を出したのはわたしだ。
「それは汚いじゃないですか! 将棋ってあなたの得意分野でしょう? 堺さんが不利ですよ!」
「いや、わかってるよ。もちろん、それだけだと、堺さんの方が、不利だから。僕の駒をいくつか取り除くし、先手後手とかも、そちらが自由に決めてもいい」
「それでも……」
わたしは納得できない。危険な賭けだ。
それなのに、堺さんは頷いてしまった。
「いえ、いいですよ」
「本当に?」
「ええ。ただし、こちらに有利な条件をひとつ、くれませんか?」
「条件」
頷き、堺さんは目線の高さまで上げた拳から、指を一本立てた。以前にも見たことがあるけれど、これが彼女の癖なのだろう。
「はい。二戦しませんか。私たちが一度でも勝てば、賭け事は私の勝ちにしてください」
「ふむ」
浦風部長は腕組をして、唸る。
「ちょっと待って堺さん」
口を出してごめんなさいだけれど、ちょっとさっきの言葉が引っかかった。
「私たちって?」
堺さんはわたしに意味のわからない微笑を見せてから、部長さんを見た。
「二戦のうち、ひとつは私と部長さんでやりましょう。もうひとつは、申し訳ないですけど、他の誰かと真鈴さんでお願いします」
「ちょっと、堺さんっ?」
わたしは将棋とか、オセロとか、そういうゲームがてんで駄目なのだ。それにもし負けたら責任が取れない。
堺さんはわたしに軽く頭を下げた。
「真鈴さん。お願いします。手伝ってください。真鈴さんにしか頼めないことなんです」
え……。
そんなに強く頼まれても……。
部長さんがわたしに訊ねる。
「君は堺さんの、付き添いらしいけど、将棋が苦手なのかい」
わたしは情けないことに勢いよくうんうんと頷いた。
「本当に彼女で、いいの堺さん」
「ええ、真鈴さんが適任です。ああ、一つ約束してくれませんか。当然の約束です」
わたしが了承していないのに、堺さんは勝手に話を進める。
「勝負に、他人の口出しは厳禁です」
続きます。