三.青信号
前回の続き。
オレンジ色をしたアスファルトに伸びる黒い影を追いかけるように歩く。僕たちと同じような、下校途中の学生の姿もちらほら見かける。
「春樹に任せて正解だった。ありがとうな」
隣を進む加賀屋にそう言われた。
こう何度も恥ずかしがらずに『ありがとう』と言えるやつも珍しい。僕はお礼を言われることに対してあまり免疫を持っていないから、少し恥ずかしくなってくる。僕はなんとなく目を合わせづらくなって、すぐ前の真鈴と堺さんを見るともなく見る。堺さんと出会ってから時間は経っていないけれど、楽しそうに真鈴と話に花を咲かせている様子を見ると、もうかなり打ち解けたみたいだ。
「今日は偶然だよ、加賀屋。やりたくてやったんじゃないしな。全部成り行き。真鈴がいなければ――真鈴が言わなければ、僕はきっと井口をあのまま見捨てただろうし」
「謙遜か」
「事実だ」
「そうか」
しばし沈黙。
間をもたすため、ちょっと気になっていたことを訊いてみることにした。
「加賀屋。うっちゃんとかいう被害者――いやまあ、その呼び方は間違っているのだけど、そいつの名前を知ってるだろ?」
「ん。そりゃ当然。同じクラスだからな」
「そいつってさ、どんな奴だ」
「どんな奴……」
加賀屋は少しの間考えてから言った。
「何しろ一度も会話らしい会話をしたことがないからな。内気で寡黙な女子生徒ってことしか。あ、あと小柄。まるで井口とは対照的な奴だな」
「仲は良いのか、井口とそいつ」
僕がおかしな質問ばかりをするからか、加賀屋が訝しむような目を僕に向けた。
「仲は良さそうだったが……どうしてそんなことばかり訊く?」
「ん、いやさ、井口が教室を出て行くときに千円札を乱雑に二つ折にしていたから、大事にしていた千円札みたいだし、変な折り目がついてしまったら、そいつはどう思うだろうと思って。財布の様子を見ると几帳面っぽいしな。一概にどうとは言えないけれど、加賀屋の話を聞く限りじゃ、あながち間違っていないかもしれないし」
「なるほど」
「あとさ、そいつはお守りの存在を明示したけれど、実物を見せようとはしなかった。初めは中途半端な秘密主義なのだろうかなと納得していたんだけど、そうくるともしかしたら、井口が乱雑に扱うのが怖くて見せなかっただけなんじゃないかという気もするんだよな。まあ、邪推かもしれないけど」
「そんな考えもあるかもしれん」
やがて歩道はガードレールで区切られ、狭くなってくる。向こうからランドセルを背負った男の子が走ってきた。僕と前を行く真鈴は道を開けるようにして、端に寄る。
男の子が通りすぎるのを待ってから、僕たちは再び歩き出す。
加賀屋が言う。
「もし、春樹の仮説通りだったら――井口が心配だな」
「うん? どうして心配なんだ」
「仕返しとかされそうだから。井口って単細胞じゃないか。さすがに暴力に発展はしないだろうけど、騙されたりするかもしれん。あいつだったらやってのける……と思う」
やけに自信のなさそうな言い方をする。
「あいつとは、うっちゃんでいいんだよな」
「ああ」
加賀屋は独り言のように続ける。
「ふとあいつが目に入ったとき、腹に一物あるような、何か企んでいるような気がしてしまうんだ。彼女の切れ長の目にはそんな印象を受ける」
「ふうん。なあ、加賀屋。そいつの名前、いい加減に教えてくれ」
言うタイミングがなかっただけなんだけど、あいつだのそいつだのだったら呼びにくいだろ。
「楢だ。楢・卯月」
久しぶりにその名前を聞いた。そうか、確かあいつ八組だったな。
「……ん、なんだ、知ってそうな顔をしてるな」
どんな顔だ。
「同じ坂月市立第三中学校出身だろ。知らないのか」
「知らんな」
まあ、同じクラスにならないとあまり会話する機会はないだろうからな。当然といえば当然か。
「まあ、何にしても加賀屋。応援してるぞ。楢はちょっと気難しいところもあるけれど」
「はあ?」
加賀屋はどうしたらそこまでできるんだというぐらい眉をひそめた。
「ふと目に入ってしまう時点で、それは気になっているんだよ。フォールインラブだ」
「ち、違うぞ? むしろその反対だ」
わかっているのに慌てたように言われるとこちらとしても対応に困るんだけどなあ。
「で、反対とは?」
「嫌いなんだよ」
「というと?」
適当な相槌を打つ。
「あいつ、かなり怖い。女子グループの輪に入って談笑しているときにでも、表情とは裏腹に悪いことを企んでいる気がしてならん。あれ、これさっき喋ったな」
どうして女子グループのほうを観察しているのかは問わないでおこう。
「まあ、加賀屋の気持ちはわかったから。応援してるって」
「うるさい。それに俺はまだ椿さんのことを諦めていないんだぞ」
どうやらこの加賀屋蓮少年、中学三年生の春頃から、身も知らぬ通りすがりの『椿さん』に好意を抱いているらしかった。
「まあ、どこの馬の骨とも知れない年下の少女より、同じ学校の楢のほうがまだ可能性はあるけどなあ」
「年下の少女? 春樹、知ってるのか」
「あ、いや、何でもない」
しまった。つい口が滑った。
「まあ、いいか」
だべっているうちに交差点まで来てしまった。加賀屋とはここでお別れになる。
「じゃあな。まただ」
「おう。また」
堺さんと真鈴もそれぞれ別れの挨拶を言う。加賀屋は手を振ってから、住宅街のほうへと消えていった。
うーん……、気まずい。
今度は真鈴と堺さんの後ろを僕がついていく形になった。相変わらず二人だけで談笑しているし、会話を盗み聞きをするのも悪趣味だろうから、僕はなるべく耳を働かせないようにして歩を進める。
ふうん……。こうして見ると、真鈴よりも堺さんのほうがスカートが長いんだなあ。堺さんってやっぱり校則はきっちりきちんと一条も漏らさずに厳守する人なんだろう。――って、僕、どこ見てるんだ。
堺さんといえば、学校を出るときに訊くと、どうやら電車通学だそうで駅辺りまでは帰り道が一緒になるのだ。
いっそのこと思い切って僕も会話に混じってみようかと、ふとそんなことを思ったと同時に真鈴がこちらを振り返った。俗にいう後ろ歩きをしながら言う。
「そういえばまだ言ってなかったから言うね。菫咲の事件、解決してくれてありがとう」
「どういたしまして」
堺さんが上半身をひねるようにしてこちらを向く。まだ後ろ歩きを止めない真鈴よりかは安全だけど。
「私、ひとつ懸念していることがあるんです」
「なに?」
「結果的には、うっちゃんさんは何も盗られていないじゃないですか」
「楢だ」
「え?」
「うっちゃんさんの名前。楢卯月」
珍しい名前だね、と真鈴。そうだな。姓名共に。
「その楢さんですか? は気づいてしまうと思うんです。財布の中を探られていたことに。いくら楢さんが井口さんに頼んだこととはいえ、勝手に財布を弄っていたことが楢さんに悟られますと……」
「何かしたんじゃないかって疑われる……ね」
そう。何か盗んだんじゃないかって疑われる。盗もうとしたんじゃないかって疑われる。他人の財布を調べまわして何をするつもりだったんだと。
「まあ、あとはあの二人次第だな」
「ううん――」
真鈴は拳をぎゅっと握り締め、言う。どうでもいいけど彼女に電柱が迫ってきている。
「もし菫咲が疑われるようなことがあったら、わたし、楢さんに説明するよ。菫咲は友達だもん」
友達か。
それだったら大丈夫だ。真鈴の出る幕はない。僕が加賀屋を信用したように、楢は井口の言い分を聞き、信用するはずだ。僕の知る楢卯月は、口は悪いが正直なやつだった。
やっと真鈴が前を向いた。そして飛び退く。もう少し会話が続けば真鈴の後頭部に後ろから迫ってきていた電柱――いや、前から迫ってきていた電柱が直撃していたのに。惜しい。
「大丈夫ですか」
「うん。当たらなかったから」
てへへ、と笑う。
「ところで真鈴さん。話が百八十度変わりますが、質問よろしいですか?」
「なあに」
「真鈴さんは、どうしてこの高校を選んだのですか?」
本当に前とつながりのない話だけど、その答え、僕も気になる。
真鈴は肩をすくめた。
「特に理由はないね。近くて学力が合ってたからかな。堺さんは?」
「私ですか。私は……」
多分、顎に手を当てて考えている。後ろからじゃ見えない。短い間のあとで堺さんが頷いた。
「そうですね。『兄が通っていたから』が一番の理由です」
お兄さんがいるのか。いくつ上なのだろう。
それから堺さんは僕を振り向いた。
「兄といえば、花川さんにはいるんですか、兄弟。妹さんとか、お姉さんとか」
僕にも高校の志望動機を訊ねてくるのかと思ったが違った。そう話をつなげてくるか。これには僕ではなく、真鈴が答えた。
「いるよね。妹ちゃんだっけ?」
「妹さんですか」
頷く。
「一つ下に僕より賢いのが一人」
堺さんが小首を傾ける。
「どうして謙遜するんですか」
「本当のことだ」
することは馬鹿だが僕より賢いのは事実。学力においても、推理力においても。
赤信号で足を止める。まばらに車が目の前を滑るように通り過ぎていく。
「へえ。ハルより賢いんだ。確か、椿ちゃんだったっけ?」
「そう。花川椿」
「椿……さん」
堺さんが、僕の名前を聞いたときと同じように、その名前に引っかかりを覚えたようだけど、僕が理由を訊ねる前に、信号が青になっているほうの信号を手で示して言った。
「あ、私はこっちなんで。また月曜日にお会いしましょう。今日は予想以上に収穫が多かったです。お二人とも、ありがとうございました。これからもお付き合いしていただけるとありがたいです」
僕も手を上げて言う。
「もちろんだ。それじゃ、また月曜日に」
「バイバイ、堺さん」
と真鈴が手を振る。
最後に頷いて、彼女は踵を返し、点滅を始めた青信号に急かされるようにバーコードのような白いしましまの上を小走りで進む。渡り終えると、ちょうど信号が赤になったようで、車の列が視界を遮って堺さんの姿は見えなくなった。
「何してんの、ハルー。行くよー」
いつの間にか横断歩道を渡りきっていた真鈴が声を張り上げている。
「おう」
僕は返答して、足を踏み出す。
信号は、青である。
ありがとうございました。