一.スミサ
前の章からの続き。
花川春樹は真鈴あやめの頼みごとを引き受ける。彼女曰く、友達がトラブルを抱えているらしい。その友達とは……。
教室には、彼女しかいなかった。窓際の手すりに寄りかかっている、ポニーテールの後ろ姿。
――見間違えるはずがない。あのポニーテールは真鈴あやめだ。
窓のそばの少女はドアが開いた音で僕たちに気づいたらしく、こちらを振り返る。案の定、その通りだった。
真鈴は僕たちを見て驚いたような顔をしてから、相好を崩して、こちらに歩み寄ってきた。
「あ、おかえり、花川くん。堺さんも、おかえり」
「すみません。お待たせしました」
こんなときでも本当に申し訳なさそうに堺さんは謝るから、少し後ろめたい気持ちになる。
「構わないよ。……えっと、誰?」
と首を伸ばすようにして僕と堺さんの後ろに立つ人を見る。
そいつの代わりに僕が答えた。
「加賀屋だ。友人」
「こんにちは、加賀屋くん。真鈴あやめです」
言いながらひょいと頭を下げる。真鈴は初対面の人には礼儀正しくて、しとやかに振舞う。慣れてくると、漸次こちらに気を使わなくなってくるのだ。
「どうも……」
軽く会釈したと思うと、すぐさま僕に耳打ちをしてきた。
「あんな人を待たせていたなんて春樹も中々酷いやつだな」
どうやら真鈴の第一印象を本質と履き違えてしまったらしい加賀屋に忠告しておく。
「騙されるな。僕があいつに今までどれくらい振り回されてきたことか。あいつは鬼だ」
加賀屋がよくわからないというような顔をする。
真鈴が思い出したように言う。
「あ、そうそう。ハルくん」
「何だ」
――って、え?
「……ん? ハルくんとは?」
あまりに自然に言うものだから、思わず聞き流すところだった。
真鈴はニンマリとした笑みを浮かべて、ポケットから一枚のメモ用紙を取り出した。隣で堺さんが『あ、私の書き置き』と呟くのが聞こえた。つまりそれは、堺さんが事件の捜査に加わりたいがために、彼女が独断で残した真鈴への手紙なのだろう。
「堺さんに書かせときながら、『ハルくんより』はないよ」
何のことだ? 知らないぞ。
僕が頭にクエスチョンマークを浮かべていたのを読み取ったらしく、真鈴は不思議そうな顔をして、メモを僕に差し出してきた。
「これだよ。字は堺さんのでしょ。ハルくんがこんな綺麗な字を書けるはずがないし」
僕の目に飛び込んできたのは、とても流麗な文字で、『真鈴さんへ。すぐに戻ってきます。ここで待っていてください』という文。最後に『ハルくんより』と締めくくられている。なんでやねん。
堺さんを横目に見ると、彼女は瞳を悪戯っぽく輝かせていた。口元には笑みがこぼれている。
「小学生の頃に、わたしがハルくんのことをそう呼んでいたなんて、堺さんが知っているはずがないし」
いや、堺さんは知っている。僕が教えたのだから。彼女の様子を見ても、犯人は明白だ。
「それに、ハルくんしか気づかないと思うし。わたしの考えていた命令が、『ニックネームで呼びたい』だっていうことは。普通だったらくどすぎるくらいにわたしが『花川くん』と呼んでいたのに違和感をおぼえたんだよね。『小学生の頃のこと、覚えている?』で、わかったんでしょう? ――わかっているのに黙っているなんて本当に憎い奴だね!」
知らないって。
堺さんは気づいていたのだろうか? それともただ単に思いつきで? まあ、わざわざ問うまい。
「というか、そんな回りくどいことをせずに、はなから好きなように呼べばいい話だろ」
「うーん、まあそうなんだけどね。再会したときに『花川くん』と呼んでしまったせいで、中々タイミングが掴めなくて。今までどこかに行っていたのは、決心をつけるためというか――だってほら、面と向かってそんなことを言うのは恥ずかしいし、堺さんもいたし」
まあ、ありえる話ではあるな。真鈴にしては珍しいけれど。
「別にニックネームで呼んでもいいけれど、せめて『くん』付けは勘弁してくれ」
「じゃあ『ハル』? うん、いいんじゃない?」
まあどちらにしても今の僕には似合わない。
「ところで、わたし、人を待たせているんだ」
「それっていつかの六時過ぎまで待たせてしまった友達か?」
「うん。彼女、トラブルを抱えていて、わたしが協力するって約束しちゃったの」
また真鈴あやめのおせっかい焼きの性分が働いたんだな。
「それで、『わたしの友達にトラブル解決のプロがいるから連れてくる』とも言っちゃったわけ」
「ほう」
「そんなわけで、ハル。一緒についてきてくれないかな!」
「はあ? もしかしてそのプロというのは僕のことなのか?」
真鈴は片目を閉じて(ウインクのつもりらしい)、
「そういうこと。いいかな?」
……正直、断りたいのだけど。だけど……堺さんも加賀屋もいるしなあ。特に堺さん。ここで断ったりしたら、『加賀屋さんの頼みごとは引き受けたのに、真摯に頼みこむ真鈴さんのことは見捨てるんですね! 花川さんのことを見損なっていました最低です!』とかなんとか言ってきそう。出会ったばかりの人に嫌われるのは僕としてもなるべく避けたいのだ。
それに、あれだ。命令も成り行きで無くなってしまったしな。その代わりだと思えばいい。
僕はなるべく嫌そうに答えた。
「いいぞ。わかった。引き受けよう」
それから僕は加賀屋と堺さんを順に見た。
「二人は帰ってもらっていいぞ。時間がかかりそうだし」
「ということは」
口を開いたのは堺さんだ。
「別にいても構わないということですよね、花川さん」
「俺も面白そうだから残るぜ、春樹」
加賀屋よ、一体何が『面白そう』なのか。
僕は真鈴に視線を向ける。
「で、その友達のアクシデントというのは何なんだ」
「うん。それなんだけど、わたしはあまり知らないから直接話を聞きに行こう」
言うが早いか、真鈴は僕らの間を割って、教室を出る。
「いい加減、菫咲を待たせすぎているし」
『スミサ』というのが、そのアクシデントを抱えた友達なのか。……あれ、どこかで聞いたことがあるような名前……。
「目指すは八組!」
えっ? それってもしかして――。
案の定、知っている人だった。
先刻まで僕たちが対峙していた茶髪の女子生徒――井口菫咲とこうして輪になって会話をすることになるとは思ってもみなかった。いや、話すときが来ないこともないかもしれないとは思っていたけれど、それがこんなに早く来るとはさすがに予想していなかった。
聞くところによると、真鈴と井口は中学時代からの友人同士だそうだ。先程井口が言っていた、『手伝ってくれる友達』とやらが真鈴のことだそうだ。
屋上かどこかだだ広いところへ駆けて行って大声で叫びたい。
……なんたる偶然だろう!
井口は初めはそれこそ僕たちと同様驚いていたけれど、なだめるように真鈴が説明すると納得したようだった。逆に、僕たちが井口とひと悶着あったことを知り、真鈴は大層たまげていた。
「じゃあ、菫咲。悪いけれど、もう一度話してくれないかな。わたしも状況をまだ掴めていないし」
それぞれが手近な椅子に座る。やはりさっきまで敵対していた者同士だから、どことなく居心地が悪い。
「あたし口下手なんだぞ」
「いいじゃないいいじゃない。時間がないんでしょ」
真鈴に促されて、井口が不承不承といった様子で口火を切った。
「えっと、じゃあ話すから、心してよーく聞きやがれ」
もっと普通に喋ることはできんのか。
「うっちゃんのお守りを盗られた経緯を順を追って話すからな」
「え?」
「誰だって?」
いきなり聞きなれない名前を聞かされて、僕と加賀屋は声を漏らした。
堺さんも当然のことながら知らないみたいで、小首をかしげながら問う。
「うっちゃんとは誰ですか?」
語り手は何を言っているんだという顔をする。
「うっちゃんはうっちゃんだ。お守りを盗られてしまった可哀想な娘」
「それはつまり……、お守りを盗られたのは井口じゃなくて、うっちゃんという奴だってことなのか?」
井口はきっぱりと頷く。
「当たり前だろ」
僕は事件の詳細を加賀屋から聞いていた。その加賀屋は井口菫咲という女子生徒がお守りを盗られたのだと説明した。だが、事実は違ったらしい。そうすれば僕から見た彼女の印象は一変する。井口は友人のために、校内を駆け巡り、お守りを探していたことになるのだから。
加賀屋を睨むと、『すまん。勘違いだ』と返してきた。
それじゃ、状況を正確に理解しているのは井口だけということになる。
あ、いや、違うな。
「井口、お前の可哀想な友人はどこにいるんだ?」
「ん。今は家にいる。体を休めているだろう」
いまいち要領を得ない。
「初めから話してくれないか」
そう頼むと、井口は口を尖らせて、
「最初からそうするつもりだったけれど、お前が口を挟んできたんだろ」
僕に説明するのが余程気に食わないらしく、井口はぶすっとした顔のまま語りだした。彼女が自分でも認めているように口下手なので、ところどころに質問をはさみ(その度に語り手に睨まれ)、要所要所をかいつまんでまとめたものが次だ。
被害者は、元々体が弱い子らしいが、今日は特に体調が優れなかった。それでも大丈夫だと言い張って、平生通りに出席していたらしい。なんとか午前中の授業はなんとか耐え凌いだのだけど、五時間目の体育でついにギブアップ。早退することになった。
それ以外は特に滞りなく体育も済み、井口が教室に戻ると、被害者からメールが一件届いた。
曰く、『財布を机の中に置き忘れたので、持ってきてくれると嬉しいわ』。
昼休み、井口は顔色が冴えない友人を少しでも元気づけるため、一緒に食堂に向かった。食事をしながら、他愛ない話に花を咲かせていたのだが、次の授業が体育だということを忘れていたのだった。急いで教室に引き上げ、着替えを持って更衣室に行ったのだが、そのときは慌てていたのだろう、昼食代を入れていた財布をかばんではなく机の中に入れて、そのまま忘れて帰ってしまった。
井口は自称『見た目通りのお人好し』だそうだから、メールを見て財布を家まで持って行ってやろうと決心したわけだ。
財布は難なく見つかったが、しかし、お守りが入っていなかった。それから井口はクラスメートや先生たちに聞きまわり、当然行き着く先――加賀屋がお守りを盗んだのだと結論に至った。
話を聞き終え、堺さんが感心したように言う。
「友達のためにそこまでできるってすごいですね。私にそこまでの行動力があるか……」
すると気を良くしてしまったらしい井口は誇らしげになって、
「あたしとうっちゃんは親友だからな。誕生日から血液型まで何でも知ってるぜ」
それから井口は思い出したように、
「そうだそうだ。うっちゃんの財布ならあるぞ。うっちゃんにはあたしから後で一言断っておくから、見てくれ」
スカートのポケットから二つ折りの正方形の財布を取り出し、真鈴に差し出した。赤地にピンク色をした四角形がいくつも重なった幾何学模様がプリントされている。
真鈴はためつすがめつしたあと、僕に手渡してくれた。
「金、盗るなよ」
言われなくとも盗らない。信用されなさすぎだろ、僕。
財布を開く。理由があれど、持ち主の目がないのに財布を覗くのは後ろめたい気になる。理由といっても、事後承諾みたいなものだし。
「えっと……中身は、っと。札入れには、千円札が一、二、……三枚。小銭入れには、百円玉が……四枚に、十円玉が二枚。カード入れには、どこかのカラオケやらなんやらのメンバーズカード含む四枚。……ん? カード入れにもう一枚千円札があるな」
僕は二つ折のそれを取り出して広げてみた。野口英世が凛然とした瞳で僕を見つめる。
「井口、どうしてこの千円札だけカード入れに入っているんだ」
「知るかよ。いざという時の予備かなんかじゃないのか」
うっちゃんのことなら何でも知っているんじゃなかったのか。
「何か普通のと違うのかなあ」
真鈴と加賀屋が千円札に顔を近づけてくる。二人共寄り目になっているのが中々滑稽で面白い。
「んー、やっぱり普通だね」
「そうだな。これが偽札だと言ったら、俺はたまげるぜ」
まあ、僕の目から見ても特におかしなところはない。偽札でもなければ、製造ナンバーがゾロ目でもない。
千円札を二つ折りにして元通りカード入れに戻していると、ふと思い出した。今更ながら、まだ訊いていなかったことがあった。本当はいの一番に尋ねておくべきだったのだ。
「お守りってどれくらいの大きさなんだ?」
井口は肩をすくめた。
「知らない。形も色も全く」
本当にあんたは友人のことを知っているのかと問い質したくなってくる。
「でも菫咲、財布の中にお守りがあったことは知っているんだよね」
真鈴の言葉で、井口は苦虫を噛み潰したような顔をなる。
「さっき昼休みに食堂に行ったって話したよな。そのときにもしんどそうな顔をしたもんだから、『やっぱり早退したら』って言ったんだ。そしたらうっちゃんが『お守りがあるから、平気よ』と返して、財布を持ち上げてぽんぽんと軽く叩いたんだ。あたしさ、実はそのときまでうっちゃんがそんなもの持っていたとは知らなかったんだよ。そう言われるとさ、気になるじゃないか。そんで訊いてみたら『とても大事な物だから、菫咲にも教えられないわ』ってはぐらかすんだ」
――ということは。
「財布が井口さんの手に渡ったのをいいことに、隠していたお守りを盗み見しようとしたんですか?」
僕の疑問を堺さんが代弁してくれた。
井口はばつが悪そうに答えた。
「ほんの出来心と好奇心なんだ。秘密にされるとどうしても気になる性分で……」
言い訳めいた話し方だけど、出来心と好奇心は誰にでもあるもの。僕は勘弁してやろう。
僕は財布を井口に返しながら言う。
「まあ、この財布の中にあったのは間違いないみたいだな。でもやっぱり、お守りの形がわからなかったら探しにくいから、その財布の持ち主に電話して聞こう」
すると、ショートヘアの毛先を揺らして井口は首を振った。
「それはできないんだ。というよりしたくない」
どういう意味だ?
「まだお守りがなくなったことをうっちゃんには伝えていないんだよ。今日までに見つけて届けたらそれで解決だろ? できることならうっちゃんに心配をかけさせたくないから」
言葉の切れ目で、彼女は壁にかかった時計を一瞥する。釣られてみると、四時十五分過ぎだった。
「でも、今日の内にお守りが見つからなかったら、素直に打ち明けるよ」
だから頼む、と井口が茶髪の頭を下げた。
僕の答えは決まっている。そういう事情があるのなら、お前の意向を汲むのはやぶさかじゃない。
そしてどうやら、他の皆の意見と一致しているようだった。
続きます。