一.マスズ
高校一年生、花川春樹。放課後、教室にいた春樹のもとに、同級生・真鈴あやめが現れる。流されるまま、ガラスを割った犯人探しを任されてしまった春樹。
そして些細だけど不思議な謎。ーーどうして、窓ガラスの割れた音がしなかったのだろう?
真鈴あやめは、良く言えば面倒見のいい同級生。悪く言えばおせっかいである。
誰彼構わず、人が困っていたのなら、自分から進んで助けようとする。例えば、誰かの私物がなくなった場合、頼まれてもいないのに探そうとする。これだけ聞けば、皆が皆、良いイメージを抱いてしまう。
しかし、それは間違いだ。少なくとも僕にとっては。
真鈴は困り事の難度に関わらず引き受けようとするので、もちろん彼女の力では解決できないこともしばしばある。そのとき、真鈴は僕が断れないのをいいことに――いや、いちおう僕は毎回断っているのだが、押し切られるのだ――僕に手伝わせる。いや、僕に任せる。自分はほとんど何もしなくなるのだ。僕に事の内容を伝えることだけが自分の仕事だといわんばかりに。
真鈴は僕とは違い、友人も多い。頼れる相手はいくらでもいるだろう。実際、真鈴は何でもかんでも僕を頼るわけではない。彼女が僕を頼るのは、それはほとんどの場合、犯人を探すとき、物を探すとき。つまり、シャーロック・ホームズさんと同じような『探偵』が必要なときだ。
探偵役の僕も、真鈴に頼られる程度には、頭が回るほうだと思う。だが、ホームズさんには、もちろん劣る。万が一に、いや、億が一に、僕にホームズさん並の頭脳があったとする。だが、ここで彼と根本的に違うのは、僕は物事に関わろうとしない。昔の友人風に言うと、『積極的に積極的にならない』。
限られた青春、どうせ過ごすのなら学生らしいことをして過ごしたい、と思うのだ。誰だって、そうだろう?
――とまあ、僕、花川春樹は今、すごく学生らしいことをしている。
放課後の教室、先生に許可をもらい、教室に一人残って勉強している。勉強というか、課題。明日の定期テスト当日までが提出期限なのだ。家では妹がうるさいし、図書室では興味を引く本が多すぎて集中できない。ここが色々とベストだった。だけど、
「……暗いな」
何しろ今まで教室の蛍光灯をつけずに日の光だけを頼りにしていたから。日が傾いてきた。まだ課題はたくさん残っている。僕は腰を上げて、スイッチまで歩き、明かりをつける。そして再び自分の席まで戻る。
耳をすませば、遠くから、カキーンやらドカーンやらと、野球部のバッティング練習の快音が聞こえる。どうやら今年の野球部はかなり力が入っている(僕は今年この高校に入ったばかりの一年生だから、今年以外の野球部を知らないのだけど)らしく、テスト前で部活動禁止命令が出ているのにも関わらず、練習を続けている。あと部活動禁止命令が出ている中、活動しているのは、なんかのコンクールが近いらしい美術部。美術部の部室は確か……美術室だったっけ? この階の一番端の教室。
僕の席は最端の列なのだけど、窓の外に目を向けても野球部の練習風景が見えるわけではない。残念ながら、野球部が活動しているこの高校のグラウンドは、こっちとは反対方向、廊下の窓から見える。僕のすぐ横にある窓から見えるのは、彼方に山、住宅街、街を縫う河川。四階なので、かなり眺めがいい。かといって、いつも見ている光景、さして興味はなく。眼下に目を向けると、この高校のプールがある。そこでは、今年に発会したばかりの水泳同好会が六月に入ってプールを使えるようになったらしく、初活動をしていた。ちなみに全員男子。僕の数少ない旧友曰く『野郎の上半身を見て何が面白い』に、僕は真っ向から反対するわけではないので、外の風景から机の上のノートに視線を移す。
――そして、再び問題に取り掛かろうとしたその時。
「花川くん、いるっ?」
教室のドアを勢いよくスライドさせて入ってきた女子生徒は僕を視界に捉えて、胸を撫で下ろしたようだった。
「あ、よかった! いたんだ!」
昔からずっと貫き通しているポニーテール。真鈴あやめだった。
「古いドアなんだ、壊すなよ」
ここの校舎はかなり古く、ドアや窓の廊下側窓のサッシは全て木製なのだ。しかし真鈴はそれには答えず、机の間を縫うように早歩きで迫ってきた。
「花川くん、ちょっと手伝って欲しいことがあるの!」
……またか。
「いちおう訊くけれど。なんなんだ、その手伝って欲しいこととは」
「そこで、窓が割れていたの」
真鈴が廊下のほうを指す。
「なんだ。破片の後片付けでもしろと? 別にそれだったらしてやらないこともないけど」
「それもあるけど……。それだけのわけないじゃない」
わけないのか。それなら、
「断る」
しかし真鈴は食い下がる。
「断らせない」
なにおう。僕は机の上の課題をあごで指す。
「こっちは提出期限間近の課題があるんだ。邪魔するな」
「そんなのだったらわたしも手伝うから、花川くんは、わたしを手伝って」
真鈴は僕に返事をする間を与えず、僕の腕を無理やり引っ張って廊下に出る。
「……別にどこも割れていないじゃないか」
廊下の突き当たりにある図書室、そこから手前に向かって階段、八組、七組の教室が見えるだけ。どこの部屋も窓は正常だ。廊下の窓は割れていないし。
「そっちじゃない。反対方向」
袖を引っ張られ、真鈴の言葉どおりに振り返る。
「……ああ、あれか」
「うん、そう」
振り返ってすぐに気づいた。明かりのついていない二つ隣の教室の窓に手のひらサイズの穴が空いていた。まあ、明かりのついていないといっても、逆に明かりがついている教室は僕がいた六組だけなのだが。
真鈴はそのまま被害のあった教室の前まで僕を引っ張る。
「お前が見つけたのか?」
「うん」
「何故、先生に言ってない?」
教職員に言えば、すぐに駆けつけてくれるはずだ。しかし、割れた窓の周りはおろか、見える範囲でこの階には誰もいなかった。もちろん、この教室も鍵がかかっていて、人はいない。
「だって、花川くんのところに行く途中だったし。職員室遠いし」
ここは四階。職員室は一階。確かにここに来る途中に窓が割れていたのに気づいたのなら、職員室に行くよりここまでくるほうが早いだろうけど。
「この階にもいるだろ、先生の一人や二人」
「それがいないんだよね。来る用がないし。四階は普通教室以外、ほとんど空き教室だから。人が来るのは、図書室か美術室ぐらいだしね。花川くんと違って、先生も暇じゃないんだよ。知らなかった?」
こいつ、人に物を頼む態度がなっていない。まあ、いつものことだから流すけれど。
「それで、僕に手伝って欲しいこととは、先生を呼んでこいってことか」
真鈴の頼み事としては楽な部類に入るが、僕は大人と話すのが嫌いだ。理由はない。なんとなく。
まあ、薄々分かっていたことだけど、真鈴は首を振った。
「違うよ。それは後でわたしがするから」
「じゃあ何だ」
これは面倒くさそうな手伝いの予感。
「あれ見てよ」
真鈴は、割れた窓の先、つまり無人の教室の中を指さした。
「ボール……だな」
真鈴が示した教室の床の上には、ガラスの破片と一緒に野球部が使うような硬球が転がっていた。割れた窓のすぐそばにある机も被害を受けたらしい。極小のガラスの破片が机上で煌めいていた。いや、それだけじゃない。よく見ると……ほこりだろうか、ごみがのっている。汚いな。
「野球部が打ったボールが運悪くあいた窓から飛び込んできて、教室の窓に当たったんだろ」
教室とは反対側の廊下の窓は開いていて、そのむこうでは、野球部が練習をしている。
「そんなはずないと思うけど」
すぐに否定してくる。
「確かにうちの野球部は今年かなり強いらしいけど、野球部はグラウンドの端からバッティングをしているの。偶然ボールが飛び込んできたのなら、かなりの確率だよ」
「確立がどうのこうのじゃないな。まず無理か」
ここは四階。ボールが飛び込んできたのなら、半端ない飛距離だ。プロ級の。いや、僕はあまり野球を知らないのだけど、僕でもここまで飛ばすのは難しいということぐらいは分かる。
「それで、何が言いたいんだ」
予想はつくけれど。うんと頷いてから、真鈴が言う。
「野球部が特大ホームランを打ち、教室の窓を狙い撃ちするよりもね、誰かが野球部に罪をかぶせようとしている可能性のほうがはるかに高いと思うの」
真鈴は続ける。
「犯人は、故意かどうかは知らないけれど、ここ、一年四組の教室の窓を割ってしまった」
あ、ここ四組か。僕が六組だから、二つ隣の教室といえば、並び順的に四組か八組になるのは当然だったけど。
「それで、犯人――もしかしたら複数犯かもしれないけど――が、窓を割ったということを隠すために偶然この教室にボールが飛び込んできた、と見せかけたのじゃないかと思うんだけど」
窓が割れている以上、ボールを中に入れるのは容易い。
ここまでの話をまとめて、真鈴のこれまでの頼みごとから推測するに、
「つまり、僕が窓を割った犯人を突き止めろ、と」
真鈴は笑みをつくる。
「そういうこと。花川くんならできるでしょ」
昔――ここでいう昔とは、小中学生あたりのことだが――僕は、探偵ごっこなるものをしていた。僕もまだ子どもだったから。その探偵ごっこで、真鈴の頼み事に一役買ったこともあった。
けれど。
「断らせてもらう。時間がもったいない。時は金なりだぞ」
特にテスト週間のそれは。
「でも、このままだと野球部が疑われるよ。それだと可哀想じゃない」
……おせっかいめ。
あと、不思議なことが一つ、と真鈴。反射的に「不思議なこと?」と訊き返してしまった。
「窓が割れた音、聞いた?」
思い返してみる。
「聞いてない」
部活動禁止命令もあって、今の廊下は静まりかえっている。聞こえるのは、野球部の掛け声と部員が放つバッティングの音のみ。
「でしょ? わたしもすぐそこの図書室にいたんだけど、他の階やこの階の端ならまだしも、この階のここ付近にいたのなら、窓が割れるほどの音なら聞こえると思うんだよね」
「だから、どうした」
「だから、興味を引かれない? 惹かれない? 普通は起こるはずのことが起こらなかったんだよ?」
そこまで無駄なことに時間を費やそうとするお前に引く。ここは手っ取り早く。
「まあ、それなら良い手段がないわけでもない」
「本当っ?」
真鈴が目を光らせる。僕は言った。
「この教室の窓、錠がかかってないだろ。なぜだか知らないが」
これは、二枚の窓をネジ締り錠で固定する古いタイプなのだが、割れた窓が少しばかりあいている。これじゃあ外からでも、錠がかかっていないのが丸分かりである。
真鈴が「うんうん」と二回頷く。
「だから、この教室に侵入して、ボールを回収して処分する。これで野球部は疑われない」
我ながら完璧だ。しかし、どうしたことか、真鈴の表情は瞬時に豹変、険しくなった。
「それじゃあ駄目! 犯人をあげないと! 犯人は野球部に罪をかぶせようとしたんだよ。許せないじゃない!」
むう。僕が逃げたら怒るだろうか。怒るだろうな。というか逃げられないだろう。手伝わないといけなくなるのはわかっている。
だがまだ反論の余地は残っているのだ。
「真鈴よ」
「何、花川くん」
「犯人を突き止めるのは僕達の身分じゃ、まず無理だ」
真鈴がポニーテールを揺らして、首を傾げた。わからないらしい。
「一体何百人の人がこの学校に出入りしていると思う? 容疑者があまりにも多すぎるんだよ」
さすがにここまでいえば、彼女の不屈の心といえど、折れると思った。だけど僕の予想を裏切り、真鈴は不敵な笑みを浮かべたのだ。
「ちっちっちっ。甘いね、花川くん。水飴に砂糖水を加えるのと同じくらい甘いよ」
結局は水飴だろ。
「わたしがそんなへますると思う? わたしも花川くんに任せっきりというわけじゃないんだよ? お分かり?」
あ、自覚していたんだ任せっきりって。
「犯人はすでにこの四階の中にいますよ」
「む。なぜわかる」
真鈴は僕の問いかけに答えるように拳を突き出し、そこから三本指を立てた。
「この校舎に階段は三つあります。一つはすぐそこの図書館に一番近い階段。下足室へも一番近いね」
そういって、僕の後ろを指差す。当然、八組の隣の壁に張り付くようにしている防火扉を指しているわけじゃないだろう。階段だ。
「そして、その階段から、八組七組六組と続いて、一組の教室の隣にも階段があります。これが二つ目」
中央階段と呼ばれている階段である。
「そして三つ目。この校舎の一番端にある美術室のすぐ隣にもあります」
ほとんど使わない階段だ。
「ここからが本題。一つ目の階段の三階に下りたところすぐでは、わたしの友達がずっとわたしを待っていたのです。わたし、一緒に帰る約束を忘れていたので。じっと動かずに待っていてくれたそうです。やっぱり、持つべきものは友です」
「ひどすぎるだろ」
「わたし、一度は先生のほうへ行こうと下りていって、その友達が待っていてくれたことを知ったんだけど、期待して訊いてみたら、その友達がその階段を使った人はもうずっといないと言うの。真面目な子だから、嘘はつかないわ」
真鈴は続ける。
「二つ目の階段。俗にいう中央階段だけど、これまた三階へ階段を下りたところ部分に他学年の子が三ヶ月後の文化祭に向けて、ブルーシートを広げて何やら作業をしているの。もしや、と思って訊いてみた。そしたら大当たり! 誰もその階段は使ってないらしいの」
なるほど、真鈴の言いたいことが薄々わかってきた。
僕は口を開いた。
「そして最後、三つ目の階段は犯人が使うことはないな」
「うん、そう」
「四組で窓を割ってしまったのなら、わざわざ中央階段をこえ、三つ目の階段まで行く必要なんてない。『急がば回れ』ということわざもあるが、窓を割った犯人がそんな遠回りする必要がどこにある。下足室には一つ目の階段が一番近くて、その次に中央階段が近いんだから。犯人としては、可及的素早く学校を出ていきたいはずだ」
真鈴がぽんっと手をうつ。明るすぎる笑顔で。
「さぁすが! あのころのままだ。中学生のうちに馬鹿になったんじゃないかって心配したけれど、そんなことはなかったんだね」
「うるせえよ」
今はこんなに親しくお話しているけれど、三ヶ月前まではこいつの存在すら忘れていた。校区の違いで、中学校はそれぞれ違う学校だったのだ。
それから彼女は安心したように目を伏せた。
「よかった。少し従容しすぎているところもあるけれど、あのころから変わりない。わたしの最も信頼できる花川春樹のまま」
「あー」
最もというのは、男友達の中で、だよな。こんなとき、なんと返せばいいのだろうか。
「……お前はもっと擦れっ枯らしになるべきだと思うけど」
うん、今回はいいだろう。彼女に協力してあげても。笑いたければ笑え。
「よし、わかった。手伝おう」
「本当っ? ありが……何?」
真鈴が声を上げた。彼女が続けてお礼の言葉を言おうとしたのを、僕は手をばっと突き出して遮った。先に言っておかないと忘れそうだから。
「ただし。条件がある」
真鈴が訝しむように眉を寄せた。
「条件……?」
笑いたければ笑えと言ったけれど、やっぱり笑われるのは好かない。僕なりの悪あがきである。
「そうだ。捜査をして、もし犯人がわかったら、真鈴にそれが誰かを伝える。だが、僕の手助けはそこまで。あとはお前の思う通りにしろ」
今までの経験上、犯人に真相を問い詰めることは楽しい。だが、同時に難しいことでもある。暴力など一切なし、理屈だけで徹底的に相手を上回らないといけない。犯人が誰かを知った時、真鈴は、こいつの性格のことだ、犯人を問い詰めるだろう。だが、彼女に犯人を白状させるだけの慣れや力量があるかと言ったら、そうとは限らない。慣れていなければ、失敗する可能性だってある。
真鈴は少し考える様子だったが、それでも信念を曲げなかった。
「いいよ。そこまでしてくれるんだったら、あとはわたしがする」
さーて、どうなるか。楽しみだ。その前に僕がひと頑張りしないといけないのだけど。
「よし、お手伝いしてさしあげよう」
再び真鈴の表情は太陽のように明るくなる。
「ありがとう!」
――自分には何の利益もないのに。
その笑顔を見ながら、改めて、本当におせっかいだと思った。
続きます。