5
どさっと音がして、紀代美は硬い大理石の地面に落ちた。体中が痛い。骨が折れたかもしれない。そう思って体をそっと動かしてみたが、どこにもおかしなところは無かった。こんなに高いところから落ちたのに、おかしい。魔女の魔法だろうか? そう思って、紀代美は身震いをした。
小鹿が、やはりいた。紀代美をじっと見つめている。この小鹿は紀代美に永遠に付きまとうつもりだろうか。
気がつくと、周りには大勢の少女がいて、紀代美を不思議そうに見つめていた。英語でひそひそささやきあっている。紀代美はどぎまぎしていたが、その会話に頻繁に出てくる、『あれ』という単語が気になった。
「この子、あれと関係あるのかしら?」
「あれに似てるわ」
「あれはどこにいる?」
「分からない」
そんな会話の中で、
「あれって何?」
と紀代美が英語で尋ねると、少女たちはびくりとして紀代美を見た。だが、少女たちはまたお互いを見て、ひそひそと話し出した。
「英語を話したわ」
「日本人なのに」
「あれも日本人だわ」
「イギリス人でもあるわ」
「どう見たって日本人よ」
それを聞いて、紀代美はぴんと来た。鞠子だ。鞠子がここにいるのだ。鞠子はきっと、一人だけ年をとっているから少女たちに疎外されて『あれ』などと呼ばれているのだろう。老いた体でこんなところで働かされているなんて、少しは気の毒だ。そう思った紀代美はまた少女の一人に話しかけた。黒い巻き毛の少女だ。
「鞠子はどこ?」
「鞠子?」
少女が尋ね返すと、他の少女が指を唇に当てて、
「口をきいちゃ駄目よ」
と言う。かっとなった紀代美が歩み寄ると、その亜麻色の髪の少女はいかにも嫌そうに退いた。
「鞠子はどこって聞いてるの」
紀代美が言うと、少女たちはくすくす笑いながら紀代美から遠ざかっていく。
「何なのよ」
少女たちは駆け出した。とても楽しそうに。
「ねえ、鞠子はどこ?」
少し離れたところから紀代美を見ている少女たちに話しかけた。少女たちは紀代美を見つめていたにも関わらず、その途端すっと目をそらした。
「一体何なのよ」
紀代美は頭に血が昇っていた。無視されるなどということは、今までの経験で一度も無かった。どんな人間も、紀代美の言葉を謹聴し、彼女に注目してきたのだ。彼女を特別視するあまり、「外国の血が入っているからだ」と言う不愉快な連中もその中にはいたけれど。と、そう思って紀代美は思い当たった。そうか、自分は見た目が違うからこんな目に遭っているのだ。少女たちの言葉の感じがとてもきちんとしているので、上流階級の、古い英語なのだと分かる。彼女たちは外国人を見た事が無い昔のイギリス人なのだ。そういえば、上で紀代美を突き飛ばした少女たちはわけの分からないことを言っていた。もう二十一世紀だというのに、今は十八世紀だとか十二世紀だとか言っていたのだ。彼女たちはその時代から来たのだ。妙なことだけれど、きっとそうだ。
「でも、こんなに馬鹿にされる筋合いは無いわ」
紀代美は怒りを思い出して、ずんずん歩き出した。作業をする少女たちがちらちらと紀代美を見る。紀代美はそれをいちいち睨み返しながら歩いた。石の塊、つるはし、金鎚、彫刻刀などがあちこちに落ちて、少女たちはそれをたくみに操りながら紀代美が歩いた森とそっくり同じものを作っていた。ドアの辺りに行くと、やはりそっくり同じだった。
紀代美はそこで気づいた。ドアを作っているのは一人の少女だった。その出来具合はあまり良いとは言えず、少女は必死にそれを彫っていた。周りの少女が囃し立てる。
「出来ないわよ、あなたなんかに」
「帰れないわよ、あなたなんかは」
「孫が来るなんて、嘘でしょう? 嘘つき!」
黒髪の少女は泣いているように見えた。紀代美は急にむかむかして、そこに走っていった。小鹿がこつこつと足音を鳴らして付いて来る。
「止めなさいよ! 見ていて気分が悪いわ」
少女が驚いたように紀代美を見た。紀代美も驚いた。少女はイギリス人に見えたが、アジア人の特徴も多分にある顔立ちだったのだ。そして、何よりも指輪の少女に似ていた。これ以上無いくらいに。
「紀代美……」
声も出せずにいる紀代美に、少女は駆け寄り、抱きついた。そして紀代美の肩を涙で濡らした。
「この人たちがね、わたしをいじめるのよ。わたし、何にもしていないのに。日本人だっていうだけで突き飛ばしたり、悪口を言うのよ」
紀代美はこの事態の奇妙さに馴染めずに、口をぱくぱくさせていた。少女たちは皆気まずそうな顔で紀代美たちを見ている。紀代美は深呼吸をした。自分を落ち着かせて、ようやく頭の中の疑問を言葉に出した。
「おばあさま?」
「そうよ、紀代美。わたしはあなたのおばあさまよ。迎えにきてくれて本当に良かった」
鞠子なのか。この美しい少女が。薄い色の目をした、若々しい肌の少女が。
「指輪、届けてくれてありがとう」
「……ええ」
紀代美は鞠子が指輪をじっと見つめているのに気づいて、指輪を抜いて渡した。鞠子はその左手の薬指に指輪を通した。その途端、がたごとと何かが地面を揺れながら走る音が聞こえてきた。途端に、周りの少女たちが押し寄せてくる。
「貸しなさいよ! あなたばかり帰れるなんて、ずるいわ」
「ひどいわよ。わたしの娘はわたしを迎えに来なかったのに」
「どうしてよりによってあなたなの。皆にさげすまれてるあなたなの」
押し合いへしあいして、少女たちは鞠子の指輪を奪おうとする。鞠子が紀代美に抱きついて離れようとしない。紀代美は叫んだ。
「いい加減にしなさい!」
すると、黒い蒸気機関車が目の前に現れた。少女たちは散り散りばらばらに離れて行って、紀代美たちをじっと睨んだ。
鞠子はにっこり笑った。
「迎えが着たわ。帰りましょう、一緒に」
紀代美はわけが分からず、鞠子に誘われるままに蒸気機関車の客席に乗った。小鹿も飛び乗ったが、紀代美は気にしないことにした。と、少女たちがまた押し寄せてくる。
「わたしたちも乗せてよ!」
「永遠に石を彫り続けるなんていや!」
「お願い、お願い」
少女の一人が入り口に入ろうとした時だった。扉が勝手に閉じた。少女たちの泣き声が響き渡る。紀代美はその様子にぞっとして鞠子を見た。鞠子は、にっこりと笑っていた。紀代美の背中が粟立った。
「せいせいするわ」
「わたしたち、帰るの?」
紀代美は恐る恐る尋ねた。
「そうよ」
鞠子はいかにも嬉しそうに笑っていた。
「あの子たちも乗せて良いんじゃない? こんなに空いてるし」
機関車の座席には、二人以外誰もいなかった。外では泣き声が続いている。
「何を言うの、紀代美。あんな人たちが乗っていいというの? これはわたしの機関車よ。あなたとわたし以外誰も乗せやしないわ」
「おばあさまをいじめていたのもきっと、あんな仕事をさせられて苛立っていたからよ」
紀代美がそう思った通りに言うと、鞠子は鋭い目で紀代美を睨んだ。
「わたしに逆らう気?」
紀代美は唇を噛んだ。また、始まった。彼女は死んだのに、何故自分はこんな目に会うのだろう?
「くそばばあと言ってもわたしはもう平気。あなたの内心が分かったのだもの。動揺なんかしないわ」
鞠子がくすくす笑う。と、機関車が動き出した。がたごとと、壁に向かう。壁に当たると、今度は垂直になって崖を進む。それが済むと、機関車は紀代美がたどった道を進みだした。
「でも、あなたもっと英語を勉強しなきゃね」
唐突に、鞠子は真顔でそう言った。
「見た目で差別されるのはもう仕方ないわね。あの人たちの性質だもの。でも英語は完璧にならないといけないと思うわ。あそこで生活していけない」
紀代美は驚いた。
「おばあさま、わたしが契約をして、将来あそこで働くというの?」
「そうよ。契約は避けようがないの。紀代美は死んだらあの魔女の奴隷になるのよ」
にこにこ笑いながらそう言う鞠子に、紀代美は怒りを爆発させた。
「契約なんてしないから。でもおばあさま、おばあさまはわたしにここへ迎えに来させるために指輪をあげる、なんて言ったのね。そうなればわたしが将来おばあさまみたいに奴隷にされるかもしれないと知っていて。ひどいわ」
「ひどくなんてないわ」
鞠子は心外そうにそう言った。
「あなたがここで働いても大丈夫なように、一生懸命英語を教えてあげたじゃない。あなたがイギリス人らしい顔じゃないからあの人たちにいじめられるんじゃないかと心配してあげたじゃない。その気持ちが分からないの」
「分からないわよ」
紀代美は怒鳴った。機関車はどんどん進み、湖の上を通り過ぎた。
「うるさいわねえ。あなたにはわたしの真心が通じないのね。悲しいわ。偶然ご先祖の指輪を見つけて知りもしないご先祖の魂を開放してあげたあと、契約なんかしてしまって、こんなところに囚われることになったときから、わたしの子孫のことを心配していたのよ」
「まず自分の心配をしていたくせに」
紀代美は鼻で笑った。そして、その時思いついたことに驚いて、愕然とした。
「おばあさま、あの人たちはわたしたちの親戚なの?」
「そうよ」
鞠子は当然のように言った。
「あの人たちは魔女の子孫。魔女は自分で作った指輪を追ってここにやって来た少女たちを捕らえて契約させて、働かせてるのよ。わたしたちもあの魔女の子孫だわ。若い世代はわたしとあなたくらい。魔女は十分少女奴隷を溜め込んでいるくせに、まだ欲しいのね」
「あの魔女は何が目的でこんな場所を?」
紀代美が愕然としてそう尋ねると、鞠子は興味がなさそうに、
「分からないわ」
と言った。自分はもうここには関係がないからそんなことを言えるのだろう。そう思うと紀代美はますますこの少女の姿をした老婆が嫌いになった。
「ねえねえ、紀代美。あなたは結婚した? どんな男と?」
鞠子がらんらんと目を輝かせてそんなことを聞くので、妙に思って外を見ると、あの巨大なベッドが大理石の広場にたたずんでいた。紀代美は嫌なことを思い出して、ぷいとそっぽを向いた。
「あなた離婚する? 離婚しそうよねえ」
「うるさいわね」
紀代美がそう怒鳴ると、鞠子はくすくす笑った。
「そうなんだ」
「うるさいったら」
紀代美が睨むと、鞠子は少女のように両手を口元に当てて笑っていた。苛々する。
「あなた細かい約束もしてしまったでしょう? たとえば?」
「何もしてないわ」
「とんでもなく不幸なことが起きればいいとここで思えば、実現するのよ、現実に」
急に鞠子の声のトーンが下がった。
「わたしは長男を事故で亡くしたわ」
そういえば、と紀代美は思い出した。おじは二十歳で自動車事故に遭って亡くなったのだった。そして紀代美は思い出した。「何かとんでもないことが起きればいいのに」。そう願ったことがある。それは実現するのだろうか。いや、しない。契約などしないのだから、しない。
川を越え、長い道を進み、紀代美が座った椅子とテーブルの横を進んでいくと、あの懐かしいドアが見えてきた。紀代美は嬉しさに胸がはちきれそうだった。機関車は静かに止まり、扉が開く。鞠子が嬉しそうに降りる。紀代美も降りる。小鹿も降りる。
目の前のドアへ続く道は、空飛ぶ椅子に座った魔女によって塞がれていた。
「どいて」
紀代美が怒ってそう言うと、魔女は、
「誓うんならね」
と笑った。紀代美はいきり立つ。
「誓わないわよ。何を誓うっていうのよ」
「ここで起こった全ての約束と、あなたの魂をわたしに受け渡すことを」
「嫌よ。通して!」
「通さないわ」
紀代美は無理やり魔女の後ろに行って、ドアを開けようとした。ドアノブが回らない。
「開けてよ」
「あなたが契約してくれるんならね」
「紀代美、ちょっと辛抱すればいいのよ。わたしはまだ一日しか働いてないもの。あなたみたいな可愛い若い子孫に託せば、すぐに開放されるわ」
鞠子が紀代美の肩を抱いて言う。紀代美は怒鳴る。
「おばあさまは解放されたくてそう言っているだけだわ。わたしは契約せずに帰るんだから」
「そう」
魔女が呟く。その瞬間に、紀代美は機関車に乗っていた。どういうことなのか分からず、紀代美は窓に張り付いて魔女を見る。
「あなたが契約してくれないなら、あなたは永遠にここの旅行者となるしかないわ。機関車をあげる。好きなだけ、今まで行った場所に行けばいいわ。楽しいでしょう?」
魔女がぞっとする笑みを浮かべた。機関車が動き出す。元の道に戻っていく。ドアが、遠ざかっていく。永遠? 永遠にここを? 紀代美はあまりの恐ろしさに、気づけば叫んでいた。
「契約するわ! 契約する!」
いつの間にか地面に立っていた。紀代美は心臓が暴れるのを抑えようと必死だった。恐ろしかった。でも、別の恐ろしいものに出くわしてしまった。
鞠子はにっこり笑っている。魔女も笑っている。小鹿は、いない。小鹿がいた辺りに、桃色の指輪が落ちていた。
「あなたの桃色珊瑚の指輪よ。あなたの一挙一動をずっと見続けた指輪だから、これからあなたの身に起こることには間違いは無いわね」
そう言って、魔女は紀代美の震える左手の薬指にそれをはめた。褪せたような桃色珊瑚の指輪には、紀代美そっくりの少女の横顔が彫りつけられていた。
「失くして子孫に伝わらなかったら、あなたはここから戻れないわ。大事にね」
魔女はぽんと紀代美の肩を叩いた。その途端、紀代美は走り出した。ドアに飛びつき、ノブを回す。あっけないほど簡単に開いた。
「またね」
魔女の声を背に、紀代美は階段に足をかけた。降りてきた、螺旋階段。今度は上っている。泣きながら。
「ねえ、待ちなさいよ。一緒に帰りましょうよ」
鞠子の華やいだ声が聞こえてくる。嬉しくて仕方が無いという風に。紀代美はそれを聞くと足をますます速めた。鞠子はけらけらと笑いながら追いかけてくる。ぐるぐる回りながら絶望的な気分で幸せな人間の声を聞く。狂ってしまいそうだ。
「来ないでよ。天国に行きたいなら一人でゆっくり行きなさいよ。わたしはまだ生きるんだから」
笑い声はまだ聞こえてくる。
「止めて、止めてよ」
「止めないわ。だって楽しいんだもの。幸せなんだもの」
けらけら、と聞こえる。紀代美は振り返る勇気さえなくしていた。振り返ると、そこにいるのは化け物かもしれない。
けらけら、けらけら、けらけら。笑い声は止まらない。やっとドアが見えてくる。紀代美は振り返らずに叫んだ。
「くそばばあ、あんたが行くのは天国じゃなくて地獄よ。永遠にさよなら!」
ドアを開けて、慌てて閉じる。臙脂色の色鮮やかな部屋を見渡すと、何となく祖母の気配を感じて、恐ろしくなった。紀代美は逃げ出した。これでもう、鞠子とは永遠に会わずに済む。