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 どういうことだろう。ここは一体? 紀代美は辺りを見回した。灰色の、緩やかにカーブした壁が紀代美の周りを囲っていて、筒状になっている。天井は、見えない。高すぎるからか、はたまた存在しないのか。壁には小さなかまぼこ型の穴が無数に開いていて、それに合わせて細い細い道や階段やはしごがあり、穴同士をつなげている。穴の中には何かきらきら光る何者かがいる。声はしない。不気味に思いながら、紀代美は出口を探した。

「そんなものは、無いわよ」

 突然、上空から低い声が降ってきた。ぎょっとした紀代美はそちらを見て、目を見開いた。大きな椅子がゆっくりと降りてくる。足のない椅子。椅子をじっと見ていると、それが降りてくるにつれ、一つとして同じ色に塗られていない爪を備えた美しい裸の足と、何色とも言いがたい、紀代美が見たことの無い色の輝くドレスを着た体と、鼠を一匹乗せた白い肩に首筋、深い赤色の髪に囲まれた愛らしい顔が順々に現れた。十八歳ほどの若い外国人の女が目の前に現れただけだというのに、紀代美は圧倒され、気づけば後ろ手に小鹿を探していた。

「小鹿はここの外よ」

 女は言う。椅子はまるで足があるかのように、丁度良い高さで止まって動かなくなった。

「この子達が怖がるといけないから、呼ばなかったの」

 途端に、壁中からちゅうちゅうと、騒がしい声が聞こえてきた。穴から顔を出したのは、数え切れないほどの鼠たち。その騒がしさと気味悪さに、紀代美は気分が悪くなった。

「ここがどこだか分かる?」

 女が尋ねるので、紀代美は下唇を噛み、負けるものかと女を睨んで、

「絵の中」

 と答えた。

「察しが良いのね。他の連中はぽかんとして何も答えられなかったわよ。まあ、あなたのおばあさまもあなたと同じように答えたけれど」

 紀代美は呆然とした。

「おばあさまがここに来たの? だっておばあさまは」

「亡くなってるのに、そう言いたいんでしょう? あなた、魔力が無いから分からないのね。頭が良くても魔力が無くては駄目よ。あのね、何故あなたがその桃色珊瑚の指輪を持っているか、考えてみて。何故おばあさまがあなたに指輪をあげようとしたのか。何故あなたに英語を教えていたのか。何故あなたがイギリス人の顔をしていないことを嘆いていたのか」

 女はそれだけ言うと、にっこり笑った。可愛いといってもいい若い顔だというのに、女は何故か老獪に見えた。紀代美はそれを観察しながら用心深く、ゆっくりと答えた。

「分からないとしか言いようが無いわ。それは長年の謎で、解けることは無かったのだもの」

「あらそう」

 女は眉を上に上げて、紀代美を馬鹿にしたような目で見た。紀代美は怒りを覚えたが、何も言わずに黙った。 

「あら、いいのよ、思ったことを言ってくれても。あなたがわたしを罵倒しようとしたことも、それを口にしたらますます馬鹿にされると思ったことも、わたしは皆知ってるんだから」

 紀代美はぞっとして後ずさりした。壁から聞こえる鼠の声が少し近くなった。

「答え、知りたくないの?」

 女がまたにっこりと笑った。紀代美はきょろきょろと辺りを見回して、どうせ逃げ場は無いのだと思うと、勇気を振り絞るしかないことに思い当たった。紀代美は前に進んだ。

「全部聞かせて」

 紀代美は女を再び睨んだ。女は嬉しそうに笑った。

「答えは簡単。おばあさまはその指輪を自分に届けさせるためにあなたに託したの」

「だっておばあさまは」

「おばあさまはここにいます」

 女は小首を傾げて笑った。

「おばあさまは魔力が無いから、一番辛い労働をしているわ。独りぼっちで」

「おばあさまは今お葬式に――」

「お亡くなりになったんでしょう? なら魂はここに来るのが道理だわ。だって契約したんだもの」

「おばあさまの魂がここにあるの?」

「あるわよ。一人だけ日本人の血が混じっているから、可哀想に、仲間外れにされてるわ。あなたも同じ運命ね。気の毒に」

 女はちっとも気の毒ではなさそうに言った。

「それって契約をしたから? ならわたしは契約なんてしないわよ。おばあさまみたいになりたくないもの」

「あらあら、本当に頭がいいわね、紀代美」

 くっくっと女が笑った。

「無理、だけどね」

 細めた目で、女は紀代美を見た。紀代美は女を睨み返した。

「紀代美、また質問をするわ」

「何?」

「この国は何という国?」

「え?」

「分からないのならいいわ」

「名前なんてあるの?」

「あるわよ。あのね、『約束の国』というの。素敵でしょう? わたしが付けたの」

「そう」

「そう、じゃないわ。あなたは約束をしたわよ。まずはあの迷路で会った男の子のプロポーズを断る約束」

「え?」

「あの子はあなたが高校三年生の時にお付き合いをするのよね」

「嘘よ」

「嘘じゃないわ。あと、あなたはあの男の人との子供を身ごもるわ」

「嘘!」

「本当よ。そして結婚するのね」

 紀代美は頭がくらくらしてきた。あの走馬灯の様な光景が本物になるなんて、考えたくも無かった。迷路で出会った彼らは、まだ紀代美にとっては他人でしかなく、魅力など一つも感じられないただの邪魔な存在だった。あれが、将来? あれが、結婚相手? 信じたくも無かった。

「あと、あなたは不幸な離婚をします」

 女がどこか嬉しそうに言った。紀代美は女に詰め寄ろうとしたが、女は椅子ごと避けた。

「本当よ。だってあなた約束したんだもの」

「約束なんて、してないわ!」

 紀代美はどんと足を踏み鳴らした。鼠たちが一斉に鳴きながら穴の中に消えた。

「あの子たちを驚かせないでちょうだい」

「あなたが嘘を言うからよ!」

「嘘なんて言ってません。あなたは約束をしました。迷路で見た走馬灯の様な風景、あなたは将来の自分の中にいたのよ。でもあなたはその自分の感情に振り回されて、振りほどくことも出来なかった。お腹に赤ちゃんがいる。その時『嘘だ!』と心の中で叫ぶことが出来たら、あなたは将来妊娠しなくて済むのよ。結婚しよう、と言われて、『嫌だ!』と叫ぶことができたらあの人と結婚しなくて済むのよ。あなたは意思が弱かった。自分かわいさに自分に呑まれてしまった」

「じゃあ、離婚は?」

 紀代美は恐る恐る聞いた。

「離婚の約束なんて、わたしは……」

「あなたは迷路のゴールに着いたとき、あの人と結婚式を挙げたわ。そのままだったら幸せになれたのにね。あなたは我慢をしなかった。将来の夫と寝ることを嫌だと思ってあっという間に逃げた。それは約束。あなたのここでの行動、意思は約束よ」

「だってあの人は知らない人よ」

「将来は愛する人よ。馬鹿ねえ。ちょっと我慢すれば良かったのに」

 女はくすくす笑った。紀代美は恥ずかしさと絶望感で涙が出てきた。

「ここは『結婚の国』とも呼ぶのよ。おばあさまはあなたに従順さを教えれば良かったのにね」

「祖母に会いに行くわ」

 紀代美は小さく呟いた。

「祖母がこの指輪を必要としているというのなら、持っていくわよ。でもわたしはここで契約なんかしない。妊娠も結婚も離婚も、ここで決められたことは全部無効にしてやるわよ」

「そう、頑張って」

 女は変らぬ余裕の笑みを浮かべてそう言った。紀代美は女を見つめながら言った。

「一つだけ聞くわ」

「何?」

「あなたは誰?」

「わたしは、わたしはね」

 女が上空に上がっていく。それだけでなく、遠ざかっていく。鼠の鳴き声が遠くなる。紀代美は先ほどの引力に引き戻されていることに気づいた。

「わたしは、魔女。二千年前から生きている、魔女よ。そしてあなたたちの」

 目の前がぐるぐる回る。音が滅茶苦茶になる。けれどもこれだけは聞こえた。

「あなたたちの先祖」

 気づくと紀代美は先ほどの絵の前に座っていた。朝である。夜や月や星は全て箱の中にしまわれたらしい。小鹿が心配そうに紀代美を舐めている。紀代美はうつろな目で小鹿を見た。

「おや」

 廊下の角を曲がって、双子がやってきた。紀代美は彼らのことも、ぼんやりと見た。

「あの方にお会いしたんだね」

 と赤いの。

「謎が解けてほっとしただろう?」

 と青いの。

「ええ、すっきりしたわ。ところであなたたちはあの魔女の作り物?」

「そうだよ。この家も、ぼくらも、君の気に入るようにあの方が作って下さったんだよ」

 と赤いの。

「この森もそうさ。君が約束をしやすいように、女の子たちに作らせたものなんだよ」

 と青いの。

「この森は全部作り物なのね?」

「まあ、女の子たちと、あの方以外はあの方が作ったものだからね」

 と赤いの。

「動物なんかはぼくらが作るんだが、その小鹿は見たことが無いけどね。でもおおかたあの方が特別に作られたんだろう」

 と青いの。

「そう」

 紀代美は青ざめていた。作り物、作り物、作り物。作り物だらけの世界。気持ち悪い。逃げ出したい。鞠子のように死後ここで働かされるなんて真っ平御免だ。この心地良い場所も、感じの良い双子も、全て魔女が作ったもの。もう、嫌だ。

「わたし帰るわ」

 紀代美は立ち上がり、自分が寝ていた部屋に入った。そこにあった黒いハンドバッグを掴むと、どんどん歩いていく。

「おいおい、どうしたんだい」

 と青いのが言う。

「ゆっくりしていきなよ」

 と赤いのが肩を掴む。紀代美はそれを振りほどこうとした。すると、双子の声が、突然重なる。

「どうせ遅かれ早かれ契約するんだからさ」

 きゃあっと紀代美は叫んだ。走りだす。振り返ると、双子は真顔で立っていた。醜い鬼の顔。怖い、と紀代美は思った。作り物の自動人形が、魔女が入力したそのままの言葉を吐いた。ぞくぞくと背中が寒くなる。逃げたい。怖い。紀代美は玄関にたどり着くと、下駄箱に丁寧にしまってある自分の革靴を掴んで裸足で家を出た。庭を走り、桟橋に着く。舟はあった。あの男も、いた。

「わたし、自分で漕ぐわ。どいて」

 靴を履きながら紀代美が言うと、男は黙ったまま紀代美のほうを見つめていた。

「あなたってあの双子よりも単純に出来てるのね。わたしを進ませろ。ただそれだけの命令で動いているのね」

 男は動かなかった。紀代美はため息をついた。

「まあいいわ。あなたのことはただのぜんまい巻きの人形程度に考えるわよ。あの双子のように複雑な回路で出来ていて、魔法なんかが使えるよりよっぽどまし。乗るわよ」

 紀代美は舟に乗った。すると、ととと、と足音が聞こえてくる。

「小鹿が来たわ。早く出して!」

 しかし、男は動かなかった。紀代美と男の間に身軽に小鹿が乗ってくるまで、そのままだった。舟が動き出した時、紀代美は小鹿に言った。

「あなたは魔女の手下よね。どうして付いて来るの?」

 小鹿は睫に囲まれた大きな目で紀代美を見て、ゆったりと舟底に座った。

「あなたのことは、もう信用しないわ」

 小鹿は紀代美を見つめ続けていた。紀代美が目をそらしても、ずっと。紀代美はそれが気味悪くて、湖の新しい岸辺にたどり着くと早速道を走り出した。小鹿は跳ねるように走って付いて来る。振り返ると、舟の男は、岸辺に降りて地面に腰を下ろしていた。

「暢気なものね」

 そう呟いて前を向くと、あっと声が漏れた。道が終わっているのである。鋏で切り落とされたかのようにぷっつりと。紀代美はその道の終わりにたどり着くと、下を覗きこんだ。小鹿も隣にいる。茶色と乳色の混ざったような大理石の一枚板は、下の方にも続いているようだった。崖は四メートルほどの高さである。そこにはおおまかに出来た新しい森があった。そして、驚いたことに、白いワンピースを着た少女たちが大勢いて、何かをしていた。見ると、その幼い手でつるはしを操り、道となる部分を掘っているのだ。また他の少女たちは彫刻刀で木を削り出していた。紀代美が通ってきた森の複製品を作っているように見えて、紀代美はぞっとした。

「どうしよう」

 紀代美は冷や汗をかいた。

「帰り道が分からない」

 小鹿はじっと紀代美を見つめている。と、後ろのほうから笑い声が聞こえてきた。いつか聞いた声だ。声はどんどん近づいてきて、紀代美が振り向くと――。

「帰り道はおばあさまにお聞きなさいよ」

 プラチナブロンドの少女が、髪を振り乱して笑い、紀代美を突き飛ばした。紀代美は足を滑らせた。落ちていく。崖の上では三人の少女がいかにも楽しそうにけらけら笑っていた。どうしよう。どうしよう。


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