金星より
分厚い窓ガラスのむこうには、底の見えぬ暗闇と、無数の星が広がっている。
僕は今小さな宇宙船におり、見たこともない計器に囲まれている。
ピカピカと光るモニターのなにか、絶えず何かをモニタリングして動く計器達。
本来、この宇宙船にはエリートの宇宙飛行士が乗り込み、金星を目指すはずだったのである。
この宇宙船は金星の惑星探査船である。名前は……カタカナの、女神の名前だったはずだ。
僕は本当にまったく、いや、ちょっと……と呼ぶのもおこがましい程度しか関係のない、しがない作家である。それも、ゴーストライターだ。
たぶん四日ほど前まで、古ぼけたアパートで古ぼけた小説(の代筆)を書いていたのだ。テレビの中で金星探査線の打ち上げがどうの……とやっていたのを見て、やれやれアイツもとうとう宇宙飛行士か、とほほえんでいたものだが。
それが、どうしてこうなったのだろう。
ピーガガガ、と、唯一使い方を教わっている電話機のようなものが音を立てるので、受話器を手に取り耳に当てる。
「調子はどうだね」
低い男の声がして、調子もどうも、と口から出た声は不満一色である。
「わかりゃしませんよ! まったく! なんだっていうんです」
ここ数日で何回言ったかわからない文句に、ううむ、と電話の向こうがこれまた何十回目かのため息を漏らした。
「気持ちはわかるよ。彼はまだ行方知れずのままでね」
「だからって、双子の弟を金星に送り込むのはめちゃくちゃでしょう!」
「うむ。それはそうなんだがね……我々にもメンツというものがある。計器の様子はこちらで見ているから、君は帰還まで過ごしていてくれ」
「ほかに予備がいたはずでしょう。僕は素人なんですよ」
「それはそうなんだがね……」
まさか、録音じゃあないだろうな、と黙っていると、まあ、とやたらに呑気な声が届く。
「皆で話したんだがね、君以外に適役はいないんじゃないかと満場一致だったんだよ。とにかく、君はそこにいてさえくれればいいから」
「めちゃくちゃですよ」
「では。達者で」
一方的に打ち切られた通話に怒り狂いながら受話器を置く。
どいつもこいつも! ふざけていやがる!
そう。僕にはとても優秀な双子の兄がいたのだ。兄は、それはそれは優秀な宇宙飛行士であった……。
その彼が突如姿を消して、顔が同じだからと私が担ぎ出されて、あれよあれよと宇宙船に詰め込まれたのである。
絶対に他の適任者がいたというのに、だ。まったくもって非合理である。
少し慣れてきた無重力に身を任せて、はあ、とため息を漏らす。酸素はどれくらいあるんだろう。そも、どういう仕組なんだろうか。
涙が出そうになって、袖でぬぐう。
私では、しっかりと鍛えていた兄のために用意されていた服はゆるい。
兄はどこにいったのだろう。私が金星に放り投げられたことは知っているのか。
そもそも、どこまでの人々がこのトンチキな状況を知っているのか。
何度目かの深い溜息を漏らすと、コンコンコン、と軽快なノックが聞こえた。
どこから? とぎょっとすると、さっき見ていたおおきな丸い窓からである。
視線をやると、奇妙なものがあった。
窓の外に、金色のモヤがある。大きさは毛布くらい。とてもドアを叩けるような質感には思えない。
「もし。入れてくださいな。どうぞ、とおっしゃるだけで構いませんから」
大変よく知った言葉が、まるで耳元で話しているように鮮明に聞こえる。怒りと孤独に気が狂ってしまったのだろうか。
「大丈夫ですよ。文明の程度が違うだけですから」
ひどい言われようである。
「私を入れても、あなたには何の影響もありません。少しお話をしませんか?」
モヤの向こうにはとこしえの暗闇が広がっている。今この中にはひとりきりだが、カメラで監視はされているはずだ。
「大丈夫ですよ。どうとでもしてあげますから」
これはこれはご丁寧に。まあ、どうなってもいいか、と思った。
「どうぞ」
「ありがとう」
するり、と入ってきた金色のモヤは、僕の前をふわふわと漂い、それから覆いかぶさってくる。
しばらくそうしてから、目を閉じて、と囁くのでそのようにする。
「どうぞ」
まぶたを上げると、女性がいた。
なんというか、記号的な美女だ。私より少し背が低く、絵に描いたような美しさ。
明るい金の髪だけがモヤと同じ色をしている。
「話しにくいでしょうから。触ることもできますよ」
そうは言われても、ここでいいようにしたいと思うほどの暴力性はないし、そもそも監視されているはずである。
躊躇していると、非常にチャーミングなウインクをした。
「さすが、私が見込んだだけのことはありますね。私はこの銀河に拠点を持っていて、ここしばらく、あなたのいた星を眺めていたんです」
「宇宙線とかは。それに、すごく寒いって聞くけれど」
肩をすくめる仕草はアメリカのドラマのようだ。テレビも見ていたんだろうか。
「どうってことありません。今はあなたと子供を設けに来たんです」
「僕がその、君のパートナーとして選ばれたってこと?」
突然の宣言にぎょっと驚いていると、彼女は大きく頷いた。
「そう。あなたは私にとって、とても理想的なゲノムを持っているんです。あなたが金星に来ることになったのも、私がそのようにしました。あなたにも宇宙に出てもらう必要があって……」
「なるほど。兄は無事かい?」
「元気ですよ」
「兄じゃだめだったのかね」
「彼にはより重要なお願いをしたくて。あなた達双子が持つある因子は、我々銀河に生きる者たちの悲願なんです」
「ずいぶん高度な文明を持っているみたいなのに、こんなみそっかすのような男がいいとは……」
「そう卑下しないで。子供は私が産みますから。協力してもらえますね?」
「ええと」
にこり、と笑うと蠱惑的な仕草で私を抱きしめる。じわじわと温かく、柔らかく、いい匂いがする。
特定の部位が興奮するのを感じると、彼女(?)はぱっと離れた。
「ありがとう。これで十分です。繁殖行動は完了しました。ああ、性行為はやめておきましょう。不衛生ですから」
まあ、ここで変な病気になってもな、と自分に言い聞かせる。
「もう行くのかい」
「さみしいんでしょう。少し一緒にいてあげますよ」
「緩急がうまいなあ。好きになっちゃいそうだ」
彼女が手を繋いでにっこりと笑うと、どうにもそわそわしてしまう。
「どんなところから来たの。仲間はいるの」
「最近は、あなた達が金星と呼ぶ星にいましたよ。あなた達の時間で言うと一五〇年くらい」
「へえ」
「仲間はいますが、みんな違う形をしています。あなた達はとてもそっくりだから見分けるのが大変。それにあっちこっちにいるんです」
「そうかい」
なんだか家族の形態も違うんだろう、そもそも、家族の概念はあるんだろうか。
「兄はどこで何をしてるんだい?」
彼女は表情を曇らせて、それは、と口ごもる。
「あなた達の倫理に照らし合わせると、穏当ではないかもしれません。口外しないでもらえますか?」
「……元気なんだろう? なら良いよ」
「遺伝子サンプルとして私達の母星……にあたる拠点に来てもらっています。私はまず最初に、限りなく近いゲノムを持つあなたと繁殖するテストのために来たんです」
「つまり、兄の前によくにた僕で試したかった?」
こくりと頷く姿に、ずきりと胸が痛む。
「あなたと彼程度の相似関係で問題ないのであれば、今後の繁殖対象が広がります。それに、もしあなたのお兄さんになにかあっても、あなたと私の子供がいます」
なんだよ、なんだってんだ。
よろよろと電話に歩み寄り、受話器を上げる。少し待つと、戸惑いがちな男性のオペレーターが出る。
「宇宙人がここにいて、僕と子供を作った。でもセックスはしていないよ。宇宙人はハグで子供を作る」
視線を後ろに向けると、彼女……は金色のモヤに戻って、僕の頭を覆う。口外しないとは一言もいっていない。
オペレーターが僕の安否を訊ねる声は戸惑いに満ちている。そりゃあ、そうだ。
「兄は見つからないと思う。今頃宇宙人と淫蕩の日々だ」
がつん、と来てからぐらぐらとめまいがして、それから、それから……。
…………いま、何をしていたんだっけ。僕はなんで電話をかけているんだ?
「ああ、悪い。少し寝るよ。なんだったかな」
オペレーターの声を無視して受話器を置くと、なんにもない窓の外を見る。
金星にはいつ着くんだろう。しかし、なんだって僕なんかを無理やり金星に送り出したりしたんだか。
うんと長くて深い溜息を漏らす。当然、船の中はしんと静かだ。




