1話 君のヒーローに
冬の空気は、ただ冷たいだけじゃなかった。
吸い込むたびに、どこか重たく、わずかに喉の奥に引っかかるような感覚が残る。吐き出した白い息はすぐに空へ溶けていくのに、その違和感だけは、なぜか消えずに残り続けていた。
「……さっむ」
高校1年生の東雲慧は、マフラーを首元に押し込みながら、肩をすくめた。
夕暮れの光が町全体を橙色に染めている。古びた家々、使われなくなった畑、ところどころひび割れた道路。どこを見ても変わらない景色で、特別なものなんて何もないはずなのに――それでも、慧にとってはここが“帰る場所”だった。
「……なんもねぇな、ほんと」
ぽつりと呟く。
けれど、その“何もない”が心地よかった。
何も起きない日常。
それが続くことが、当たり前だと思っていた。
「おーい、慧ー!」
背後から聞き慣れた声が飛んでくる。
振り返ると、クラスメイトの少女――朝霧ひよりが、少し息を切らしながら走ってきていた。
「ちょ、待ってよ……はぁ、やっと追いついた……!」
「そんな走らなくても逃げねぇよ」
苦笑しながら言うと、ひよりは軽く睨む。
「逃げるでしょ普通に。てかこれ」
そう言って差し出されたのは、一枚のプリントだった。
「今日配られたやつ。絶対忘れてると思った」
「あー……はい、忘れてました。マジ助かる、ありがとう朝霧」
「でしょ?」
満足げに笑うひより。
その顔を見て、慧もつられて少し笑った。
「ほんと、お前お人好しだよな」
「え、なんでそうなるの?」
「普通わざわざ追いかけてこねぇだろ」
「……困るでしょ、慧が」
当たり前のように言われて、少しだけ言葉に詰まる。
「……まあ、助かったのは事実だけど」
「でしょ?」
得意げな顔。
こういう何気ないやり取りが、妙に心地いい。
そのときだった。
遠くの電柱に取り付けられたスピーカーから、ノイズ混じりの音声が流れた。
『――本日未明、県内にて複数の失踪事件が発生――』
「……またこれか」
慧は顔をしかめる。
最近、こういう放送がやけに増えていた。
行方不明。失踪。原因不明。
そして、それに関連するように出てくる単語。
「…… “心喰”ってやつだっけ」
ひよりが小さく呟く。
「らしいな。まあでも、ああいうのって大体都会の話だろ」
「でもさ、ネットで見たんだけど」
ひよりは声を潜める。
「心喰って、 “烙印”の暴走とか、人の恐怖から生まれるとかって……」
「スティグマ、だっけ」
「そう、それ」
慧は少し考えるように空を見る。
「でもあれだろ、断罪執行機関が全部処理してるってやつ」
「……うん」
断罪執行機関。
シグナと呼ばれる能力を扱う人間たちで構成された、半ば軍のような組織。
刻印は、人の“感情”を元に発現する紋様でシグナによって形は異なる。
自分の力を極めた者だけが扱える特別な能力。
そして、その元となるエネルギー――エデン素。
「Lucidiaもそのエデン素から作るんだっけ」
「うん……死んだ人からしか取れないやつ」
ひよりの声が少し震える。
「……黒蜜とかも、それ狙ってるんでしょ」
「まあな。あいつらは普通にクズだろ」
Lucidia。
それは万能の結晶。
薬にもなり、武器にもなり、能力の強化にも使える。
だからこそ、人はそれを求める。
人を殺してでも。
「……なんかさ」
ひよりがぽつりと呟く。
「もしさ、そういうのが本当にこの町に来たらどうする?」
「どうするって……」
慧は少しだけ考えて、
「そんときは――」
少しだけ照れくさそうに笑う。
「俺が助けるよ」
軽いノリで言った言葉。
でも、ひよりは真剣な目でこちらを見る。
「……ほんとに?」
「ああ」
「絶対?」
「絶対」
短い言葉だった。
でも、その約束は確かに交わされた。
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家に帰ると、いつも通りの匂いがした。
温かい料理の匂い。
「ただいま」
「おかえり、慧」
母親の声。
その“当たり前”が、なぜか今日は少しだけありがたく感じた。
「今日もあれでしょ、ニュース」
テレビには、また同じ話題が映っている。
黒い影。ぼやけた映像。
『――現在、心喰討伐指定区域の拡大が検討されており――』
「心喰、ね」
慧はソファに座りながら呟く。
「結局なんなんだろうな、あれ」
「知らないほうがいいこともあるのよ」
母親はそう言って、少しだけ笑った。
その笑顔が、妙に引っかかった。
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翌朝。
「慧、気をつけてね」
玄関で、母親が少し真剣な顔で言う。
「最近ほんとに物騒なんだから」
「大丈夫だよ」
慧は軽く笑って、靴を履く。
「何も起きないって」
ドアを開ける。
冷たい空気が流れ込んでくる。
「いってきます」
「……いってらっしゃい」
その声が、なぜか少し遠く感じた。
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外は、異様に静かだった。
風もない。
音もない。
「……なんだこれ」
一歩、歩く。
足音だけがやけに響く。
「人……いなくないか?」
周囲を見渡す。
誰もいない。
本当に、誰も。
そのとき――
ドン。
地面が揺れた。
「……なんだ?」
ドン。
もう一度。
音が、近づいてくる。
そして――
匂い。
鉄のような、重たい匂い。
「……血……?」
心臓が跳ねる。
ゆっくりと、視線を向ける。
そこにいたのは――
“熊”だった。
だが、それは“心喰”だった。
歪んだ肉体。裂けた口。存在そのものが狂っている。
そして――
人を、喰っていた。
ぐしゃり。
骨が砕ける音。
肉が裂ける音。
それを、ただ無造作に、食っている。
「……なんだよ……それ……」
理解が追いつかない。
現実が、拒絶される。
そのとき。
「東雲くん……!」
背後から声。
振り向く。
自販機の影。
そこに、朝霧ひよりがいた。
血に濡れ、震えながら。
「助けて……」
その一言で、慧の足は止まった。




