夏夜の夜道
その夜は、やけに暑かった。
昼の熱がそのまま建物の骨組みに染みこんで、日が落ちても抜けていかない。シャッターを下ろして店を閉めたあとも、作業場の空気にはアイロン台の残り熱が浮いていて、居間へ戻っても床からじんわり温度が返ってくる。扇風機を強にしても、風そのものがぬるい。
おばさんは台所の流しに肘をついて、「こりゃ寝苦しいねえ」と言った。
透子は冷蔵庫を開けたまま、中をのぞきこんでいた。飲みかけの麦茶。残り少ない豆腐。朝の味噌汁の具の余り。冷気が逃げるのを気にして、すぐに閉める。
「氷、ない」
「昼で使い切った?」
「うん」
透子が言うと、おばさんはうなずいた。
「そりゃないわね。冷たいものないと、今夜は全員だらけるよ」
「もうだいぶだらけてるけど」
春樹が、畳に寝そべったまま言った。
彼は上体だけ起こしていて、Tシャツの裾をぱたぱたとあおいでいる。涼しくなるはずもないのに。
「じゃあ、氷と麦茶でも買ってくる?」
「そうしてくれると助かる。ついでにアイスでもなんでも好きなの買っといで」
台所の明かりの下で、彼女が顔を上げた。
昼のあいだ、外へは出ていない。駅前で見た黒い車のことを誰も大袈裟には扱わなかったけれど、じゃあ忘れていたかと言えば、そんなことはなかった。
だから、夜になってから「外へ行く」が出た時、彼女の顔に浮かんだのは単純な嬉しさだけじゃなかった気がした。
「四人で?」
彼女が聞く。
「そうねえ。二人だけより四人の方が自然だろうし」
おばさんは、そう言いながら棚から小銭入れを取った。
「透子、途中で変な気配したら引き返しな。無理に遠くまで行くことないよ」
「うん」
「春樹は面白がらない」
「そこ、毎回入るなあ」
「毎回必要だからね」
透子は眼鏡を外して、レンズをTシャツの裾で軽く拭いた。
「帽子、いる?」
と彼女に聞く。
彼女は少し迷ってから、首を振った。
「夜だし、大丈夫かなって」
「じゃあ、髪だけ」
透子はそう言って、彼女の後ろに回った。
この前買った黒いヘアピンを二本、彼女の前髪の脇に留める。耳にかかる髪を少し払って、左右の位置を見て、結局もう一本だけ足す。彼女は鏡を見ないまま、その手つきに身を任せていた。
「……変じゃない?」
「変じゃない。今日はこっちの方が目立たない」
「目立たないって、褒め言葉?」
「今は」
透子はそう言って眼鏡をかけ直す。
彼女は指先でピンに触れたあと、口元だけで笑った。
夜の外へ出る準備というのは、昼の外出よりずっと簡単だった。帽子もいらない、荷物もいらない、店の名刺を持つ必要もない。ただ、四人とも同じように軽い格好をして、履き慣れた靴を履くだけでいい。
それなのに、引き戸を開ける瞬間は、昼間より静かだった。
商店街の夜は、閉店した店のシャッターと、ところどころ点いた街灯でできていた。祭りのあとに残った提灯はもう外されて、普段通りの通りに戻っている。昼のにぎわいが嘘みたいに、人影は少ない。聞こえるのは遠くの車と、自販機の低い唸りと、どこかの家のテレビの音くらいだった。
空気はまだ重い。
でも昼と違って、熱に押し返されないぶん、歩くだけなら楽だった。
透子が鍵をかけた裏口を一度だけ振り返ってから歩き出す。おばさんの言った通り、無理に急がない。四人で並びすぎず、ばらけすぎず、夜の道をそのまま通る人たちみたいな歩き方だった。
春樹は最初の角を曲がったところで、いきなり言った。
「なんか修学旅行の夜みたいじゃね?」
「一緒にしないで」
透子が即答する。
「修学旅行もっとテンション高いでしょ」
「お前、それ行ったことない人の言い方」
「あるよ。あるけど、たぶんこういう外出の方が楽しい」
春樹は、道端の植え込みをまたいで車止めのブロックを避けた。
その軽さに呆れたような顔をしつつ、透子はちゃんと歩幅を合わせている。
俺と彼女は少し後ろになった。
夜の道だと、彼女の顔は昼より見えにくい。
その代わり、髪を留めたピンの金具だけが時々街灯を拾う。
「暑い?」
聞くと、彼女は「うん」と言った。
「でも、外の方がまし」
「店、熱こもってたしな」
「うん。あれ、どうしてあんなに暑いんだろ」
「布と機械とおばさんの火力じゃない」
そう言うと、彼女は吹き出した。
「おばさんの火力って」
「なんとなく」
「分かるけど」
言いながら笑う。
コンビニの灯りが見えてくると、春樹が先に自動ドアをくぐった。
冷気が白く流れて、四人の腕にひやりと当たる。
昼より静かで、レジの人も暇そうで、蛍光灯だけがやけに白い。
雑誌棚には、今週号の芸能誌が並んでいる。冷凍庫のガラスには、店内の光がくっきり映っていた。
「アイスは一人ひとつまでだよ」
透子が言う。
「二つ食いたいって言ってないだろ」
「春樹さんは言いそうだから先に言う」
「信用ねえな」
春樹が言いながら冷凍庫の方へ行く。
俺は、麦茶と袋入りの氷を取りに奥の棚へ向かった。
彼女は入口近くで少しだけ立ち止まってから、ゆっくり中へ入ってきた。夜のコンビニはたぶん初めてじゃない。けれど、昼とは違う空気に戸惑っているようにも見えた。
透子は買うものが決まっているらしく、もうカゴにパンと氷菓を入れている。彼女だけが、どの棚を見ればいいか決まらないまま、少しずつ歩いていた。
「何にする?」
俺が聞くと、彼女はアイスのケースを見たまま答える。
「迷ってる」
「この前も迷ってた」
「これ、みんな似てるのに名前が違う」
「それはだいたいそう」
「分かんなくなる」
俺はケースを覗きこんだ。
カップ。バー。モナカ。氷菓。チョコ。バニラ。ラムネ。
どれを勧めても、どうせその場の気分でしかない。
「暑いから、さっぱりしたやつにすれば」
「さっぱり、って?」
「この辺」
ラムネ味の細長いバーを指すと、彼女はそれを手に取って、表示をまじまじと見た。
「本当にラムネなんだ」
「アイスだけどな」
「名前だけ、じゃないんだ」
それで結局、彼女はラムネ味のアイスを選んだ。
透子は抹茶のカップ。春樹はチョコモナカ。俺はコーヒー味の棒アイスにした。
レジで会計を待っているあいだ、春樹が雑誌棚を見て「あ」と言った。
俺も反射でそちらを見る。
映画イベントの記事が、小さく載っていた。
舞台写真が二枚ほど。大きく扱われているわけではない。メインは別の俳優の熱愛報道で、その端に、イベントレポートとして載っているだけだった。集合写真の中に、彼女の姿もあった。
ただ、そこに写っているのは、もう今ここにいる人とは少し違って見えた。
白い照明。整った笑顔。隣に並ぶ俳優。
いま、冷凍庫の前でラムネ味を迷っていた人と、ちゃんと繋がっているのに、同時に全然別の誰かみたいでもある。
彼女も、気づいていた。
でも見なかった。
見ないまま、空になったカゴの持ち手を指先で持っていた。
透子が、ごく自然にその前へ半歩入った。
「先、出る」
その一言で十分だった。
外に出ると、冷気の膜が剥がれて、また夜のぬるさが戻ってくる。
けれど手の中のアイスと、袋の中の氷がある分、気分までべたつくことはなかった。
店の前には、駐車場の端に低いコンクリートの縁があった。
そこで食べて戻ることにする。
春樹が「こんなとこ座るの高校生っぽいな」と言いながら、先に腰を下ろした。透子は「高校生でも、もう少しまともなとこ座る」と返しつつ、結局その隣に座る。俺と彼女はその少し離れたところに並んだ。
アイスの袋を開ける音が、夜だと妙に響いた。
彼女はラムネ味のバーを取り出して、すぐには食べずに、それを少し眺めていた。
青い粒が混ざっている。
「まだ確認してる」
俺が言うと、彼女は「だって」と笑った。
「こういうの、名前だけかと思ってた」
「何にそんなに疑い深いんだよ」
「分からない。たぶん、ちゃんとその通りだと、ちょっと嬉しい」
言葉の後半だけ、少し声が低くなった。
何の話をしているのか、一瞬だけ迷う。アイスの名前の話なのか、もっと別の何かなのか。
彼女はそこでようやく一口かじった。
歯が当たる小さな音。
冷たさに一瞬だけ目を細めて、それから声を漏らす。
「……ほんとにラムネだ」
春樹が、チョコモナカの袋を握りつぶしながら笑う。
「そんな感動することある?」
「あるよ」
彼女は真顔でそう言って、それから口元をゆるめた。
透子は抹茶のカップをスプーンですくいながら、その様子を横目で見ている。
「この前のより、そっちの方が好き?」
透子が聞く。
彼女はアイスを持ったまま少し考えた。
「この前のは安心する感じで、こっちは楽しい感じ」
「味の感想が独特」
春樹が言う。
「でも分かる気がする」
俺がそう言うと、彼女はこっちを見た。
街灯が横から当たって、ヘアピンの金具が小さく光る。
「本当に?」
「本当に」
そう答えると、彼女はそれ以上確かめないまま視線を戻した。
四人で夜のコンビニの前に座ってアイスを食べている。
文字にしてしまえばそれだけなのに、今この場にいる感覚は、たぶんその言葉よりずっと細かい。
道路を一台、バイクが抜けていく。
信号の青が変わる。
コンビニのガラスに店内のポップが映る。
誰かの家の犬が遠くで一度だけ吠える。
春樹が食べ終わったモナカの袋を丸めながら、急に彼女へ向かって言った。
「お前さ」
彼女が顔を上げる。
「この前より、笑うの普通になったな」
彼女は、少しだけ言葉に詰まった。
「……そうかな」
「そうだよ」
春樹は軽い声で続ける。
「今の方がかわいい」
「人の笑い方そんな見てる?」
「見てるだろ。お前こそ、人の食べるとこめちゃくちゃ見てるし」
「それは、今のは違う」
「なにが違うの」
彼女は少し黙って、それから小さく言った。
「みんな、普通にしてるから」
春樹は一瞬だけ口を閉じた。
からかいの続きを探さないまま、そのまま自販機の明かりの方を見る。
透子はスプーンの先をカップの縁に当てて、乾いた音を立てた。
「普通じゃないの、春樹さんだけでしょ」
「それ、微妙に傷つく」
「事実」
その返しに、彼女が笑う。
そのまましばらく、会話が途切れた。
途切れたけれど、変な沈黙ではない。
アイスを食べるのに忙しいだけの時間。
彼女はバーを半分まで食べたところで、持ち方を変えた。溶けた雫が手に落ちる前に、包装の紙を少し下げる。その動きがあまりにも慎重で、透子が隣から手を伸ばした。
「こう」
と言って、紙の折り方を少し直す。
「落ちる前にこっち折る」
「……あ、ほんとだ」
「いつもそうしてるから」
「いつも」
「アイスくらい食べるよ」
透子が言うと、彼女は頷いた。
やがて、彼女がぽつりと口を開いた。
「ねえ」
誰に向けたのか分からない呼びかけだった。
でも声の向きは、たぶんこっちだった。
「うん」
と返すと、彼女は前を向いたまま言った。
「君が私を連れ出してくれたから、こんなに楽しいことを知れたんだよ」
そこで一度だけ言葉が切れる。
「前にも聞いたよ。その言葉」
「何度でも言うよ」
春樹も、透子も、何も言わなかった。
コンビニの機械音だけが、うしろで細く鳴っている。
「……本当にありがとう」
うまく返事ができなかった。
彼女はこっちを見ないままアイスを持っている。
見ないまま言えるくらいには、その言葉をちゃんと自分の中で固めてきたのかもしれなかった。
「……俺だけじゃないよ」
結局、それが最初に出た。
「春樹も、透子も、おばさんもいたし」
「知ってる」
彼女は、今度は少し笑って言った。
「でも、君が居たからみんなとこうしてアイスを食べれているんだよ」
その言い方が静かで、かえって否定しづらい。
春樹が、そこでようやく口を挟んだ。
「そこは素直に受け取っとけよ」
「そういう時だけちゃんとしてる」
「いつもちゃんとしてるだろ」
「それは違う」
透子が即答して、四人とも笑った。
笑ったあと、彼女はアイスの残りを一口で食べた。冷たさに少し目を細めて、空になった棒を指で持ったまま、空を見上げる。
「なんか」
彼女が言う。
「今日、ちゃんと夏って感じする」
その言葉に、俺も空を見た。
夜なのに熱が残っていて、コンビニの前でアイスを食べていて、帰れば古い店の扇風機が待っている。
夏と呼ぶには、たしかに十分だった。
戻る道では、春樹と透子が先を歩いた。
氷の袋が春樹の手の中で鳴り、透子はその横で「溶けるから振るな」と言っている。彼女は俺の少し隣で歩いていた。
歩幅は合っていた。
「さっきの」
俺が言うと、彼女はこっちを見る。
「うん」
「……ありがとう」
彼女は何も言わなかった。
その横顔を見ながら、店までの道は思っていたより短かった。
裏口に着くと、おばさんが鍵を開けて待っていた。
「遅くない?」
「十分くらいだよ」
「十分でも心配する時はするの」
おばさんはそう言いながら氷の袋を受け取る。
透子が「暑いから全員遅い」と言って、春樹が「意味分かんねえ」と返す。
居間に戻ると、昼の熱はまだ残っていた。
テーブルの上に氷の袋が置かれ、冷えた麦茶が注がれる。
彼女は空になったアイスの棒を捨てる前に、一度だけ手の中でくるくる回した。
それから、何でもない顔でゴミ箱へ入れる。
夜はまだ長い。
外に黒い車がいるかどうかは、この時間にはもう確かめようがない。
古いクリーニング店の居間で、扇風機の風に紙袋がかすかに鳴る。
透子がヘアピンを外してやりながら「少し曲がってる」と言い、彼女が「え」と慌てる。
春樹は氷の袋を額に当てて、子どもみたいな声を出している。
おばさんはそれを見て、「うるさい」と言いながら笑っている。
たぶんこういうものも、いまはもう日常の中に入っている。




