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見えないものの近くで

 祭りの翌朝、店の中には少しだけ昨日の匂いが残っていた。

 ソースと、湿った夜気と、提灯の下を歩いたあとの、服にだけうつるような外の空気。

 それが洗剤と熱の匂いの奥に、薄く混ざっている。


 シャッターの上がる音で目が覚めた時、二階の和室にはすでに彼女の気配がなかった。

 いつものことだった。

 彼女は誰より先に起きて、誰より静かに下へ降りる。まだ何も始まっていない時間の方が、彼女には落ち着くらしい。

 布団を蹴らないように足を抜いて、階段を降りる。


 居間には朝の明るさが入っていた。

 天気は昨日より少しだけましだったが、窓の外の空はまだ白く曇っている。薄い雲の向こうに太陽があるのは分かるのに、部屋の中に落ちる光はどこか鈍い。

「起きたなら顔洗ってきな」

 流しの前で味噌汁の鍋をかき混ぜながら、おばさんが言う。

「寝起きの顔が揃うと、朝ごはんまで眠そうになるから」

「理不尽だな」

「朝ってのはだいたい理不尽だよ」

 おばさんはそう言って、鍋の火を少しだけ弱めた。

 透子は、店先の受け取り棚の前に立っていた。

 黒縁眼鏡の奥の目は、まだ完全には開いていないのに、手だけはちゃんと動いている。札を入れ替えて、ビニールを直して、何も考えなくても身体が店の朝を覚えているみたいだった。

 春樹は俺より少し遅れて降りてきた。髪を適当にかき上げたまま、「おはよ」と言って、そのまま居間に座る。

 彼女は窓際の、店先からいちばん見えにくい位置にもう座っていた。

 手元には、昨日のラムネの瓶があった。

 洗って、水気を切って、ちゃぶ台の隅にそっと置いてある。中のビー玉が朝の白い光を受けて、ほんの少しだけ青く見えた。

「それ、持ってるんだ」

 俺が言うと、彼女は少しだけ驚いた顔をしてから、瓶の方を見る。

「……だめ?」

「だめじゃないけど」

 透子が店先から振り向かないまま言った。

「邪魔にならないならいい」

「邪魔にはしない」

「瓶って、案外すぐ邪魔になるよ」

 透子は、そんなことを言う。

 彼女は瓶を両手で持ったまま、小さく頷いた。

「気をつける」

 おばさんが、味噌汁をよそいながら笑う。

「好きにしな。祭りの景品みたいなもんでしょ」

 彼女は、少しだけ首を傾げて、それから「そうかも」と小さく返した。


 朝ごはんは焼いた鮭と、味噌汁と、ほうれん草のおひたしだった。

 何でもない朝の献立なのに、こうして四人でちゃぶ台を囲んでいる。どこか不思議な光景だった。

 最初の頃は、誰がどこに座るかも定まっていなかった。

 今は何となく決まっている。


 おばさんが台所に近い側。

 透子がその向かい。

 春樹は入口寄り。

 俺は窓に近い側。

 彼女はその少し奥、いちばん視線の届きにくいところ。

 誰も相談して決めたわけじゃない。

 けれど、毎日同じような場所に座っていると、それがもう自然に思えてくる。

「今日は昨日より人来るかねえ」

 おばさんが言う。

「祭りの法被とか、浴衣とか、持ち込み増えそう」

「増えるよ」

 透子が言った。

「煙とソースと泥で最悪のやつ」

「言い方」

 春樹が笑う。

「でもまあ、合ってるかもな」

 彼女も、箸を持ったまま少しだけ笑った。


 朝食のあと、店はすぐに忙しくなった。

 ガラス戸の鈴が何度も鳴る。

 法被。浴衣。ワイシャツ。町内会の腕章。

 昨日の祭りの気配を連れた服が、次々店へ入ってくる。


 煙の匂い。

 雨に濡れた布の重さ。

 襟元に残った汗。

 そういうものが、狭い作業場の空気の中に少しずつ積もっていく。

「透子、そっち先に仕分けな」

「うん」

「春樹、その籠足で寄せない」

「足で寄せるの早いんだって」

「そういう問題じゃない」

 その横で彼女はタグの紐を揃えていた。

 最初の頃よりだいぶ手が慣れていて、作業の途中で止まることも減った。


 彼女はまだ、店の中では自分の居場所を少し探るように動く。

 どの棚に何があるか。

 どのタイミングで動くと邪魔にならないか。

 おばさんが次に何を言いそうか。

 そういうことを少しずつ覚えているようだった。

 昼近く、彼女が初めて自分から台所の方へ行った。

「お茶、出します」

 言い方は、まだ少し遠慮がちだった。


 おばさんは一瞬だけ目を上げて、それから「あいよ」とだけ言った。

 透子は眼鏡の奥からその様子を見て、小さく言う。

「コップ、そこじゃなくて右」

「……あ、うん」

「その上の段」

「うん」

「それ、麦茶じゃなくてだし」

「ごめ――」

「謝らなくていいから、そっち」

 彼女は慌てながらも、麦茶のポットを見つけて、なんとか四つ分のコップを並べた。

 その様子を見ていた春樹が、小さく吹き出す。

「新人バイトみたい」

「春樹さんは黙って」

「はい」

 透子の言い方が、少しだけ速かった。


 昼を回ると、いったん客足が引いた。

 作業場に残るのは洗濯機の回る低い音と、窓の外を通る自転車のベルの音くらいになる。

 おばさんが帳面を閉じて、腰を伸ばした。

「洗剤、今日のうちに一箱取ってこないとだったねえ」

「じゃあ俺、行くよ」

 春樹が言う。

「一人で持てる?」

「持てる持てる」

「どうせ途中で片手になる」

 透子が言う。

「じゃ、二人で行きな。あんたと」

 そう言って、おばさんが俺を見る。

「ついでにコーヒーも切れてるから二本。あと電球。店先の小さい方のね」

「はいはい」

 春樹が、伝票の端を受け取る。


 店を出る前、俺はなんとなく彼女の方を見た。

 彼女はタグを揃えながら、ほんの少しだけ顔を上げて、そのまま小さく頷いた。


 表へ出ると、空気はまだ湿っていた。

 雨のあとの晴れきらない昼は、街の輪郭を少しだけぼかしていた。アスファルトの端には水気が残り、排水溝のところに小さな葉が溜まっている。

 商店街の提灯は、半分くらい取り外されていて、祭りがちゃんと終わったことをようやく思い出させる。

 ホームセンターまでは歩いて十分くらいだった。

 春樹は買い物かごを持つと、最初の三分は真面目に洗剤の棚を見ていた。四分目くらいから急に工具コーナーに寄り道し始める。

「何見てんの」

「いや、こういうの好きでしょ、男って」

「ひとくくりにしないで」

「お前、好きそうだけど」

「まあ少しは」

「だろ」


 店へ戻ると、作業場の空気が少し変わっていた。

 窓際の小さな扇風機が二階へ向けられていて、透子が脚立の上で何かを直している。彼女はその下で脚立を押さえていた。

「何してるの」

 俺が聞くと、透子が上から答える。

「和室の電気、昨日ちょっと切れかけてたから」

「あ、それ電球」

 俺が買ってきた袋を持ち上げると、透子が脚立の上から少しだけこっちを見た。

「早い」

「春樹が寄り道しなかったから」

「したけどな」

「したんだ」

「すぐ戻っただろ」


 夕方前、和室の電球を替え終わったあと、二階に少しだけ風が通った。

 窓を開けると、曇っていた空の向こうに、うっすら青が戻ってきている。

 彼女は窓のところで立ち止まり、少し外を見た。

 見てからすぐ引くのではなく、今はちゃんと、数秒ぶん立っていられるようになっていた。

「ねえ」

 彼女が言う。

「うん」

「今日、少しだけなら、また外、出られる?」

 その質問に、透子が先に振り向いた。

 俺も、春樹も、つい彼女を見る。

「今日はもう夕方から混まないし」

 透子が、窓の外を見ながら言った。

「でも駅前くらいなら行ける」

「駅前?」

 彼女が少しだけ目を上げる。

「パン屋と本屋と、あと小さい雑貨屋ある」

 春樹が「お、デートコース」と茶化して、透子に「黙って」と切られていた。

 おばさんは下からそれを聞いていたらしく、階段の下から声を飛ばす。

「日が落ちる前に戻るなら行っといで! その代わり、人多い方行かない!」

「分かった」

 透子が答える。

 彼女は一度だけこちらを見て、それから本当に小さく、でもはっきりと笑った。


 駅前へ向かう道は、商店街と違って少しだけ開けていた。

 スーパー。文房具屋。美容室。

 地方の駅前らしい、何でも少しずつある感じの通りだ。

 人は多すぎない。学校帰りの高校生が二人、アイスを食べながら歩いている。会社帰りにはまだ早く、自転車の人の方が多かった。

 彼女は、パン屋の前で一度止まった。

 焼きたての匂いが、ガラス越しでも分かる。

 食パン。あんぱん。クリームパン。

 どれもそんなに特別じゃない。

 でも彼女は、ショーケースの向こうを少し見つめていた。

「入る?」

 俺が聞くと、彼女はすぐには返事をしなかった。

 返事をしないまま、ガラスに映った自分の帽子を少しだけ直す。

「……入ってもいいのかな」

「店だから、入るためにあるんだよ」

 透子が言う。

「そういうものなの」

「そういうもの」


 結局、四人で入った。

 パン屋の中は、思っていたより狭かった。天井が低く、焼いた生地とバターの匂いが満ちている。トレーを持って、トングでパンを選ぶだけのことに、彼女は少しだけ真面目な顔をしていた。

「どうしよう」

「好きなの取れば」

「好きなのが分からない」

「見た目で決めれば」

「それで失敗したら?」

 彼女がそう言うと、春樹が横からすぐに言った。

「パンに対して失敗って、だいぶ平和だな」

 彼女は少し黙って、それから笑った。

 その笑いを見ながら、俺はメロンパンをトレーに乗せた。

 結局、彼女は小さなクリームパンを選んだ。

 透子は食パンの耳を揚げた安い袋菓子みたいなものを取る。春樹はソーセージパンを選んで、「分かりやすい」と透子に言われていた。


 本屋では、彼女は雑誌のコーナーを避けた。

 避けた、というより、最初から見ないように歩いた。

 それが自然すぎて、たぶんずっとそうしてきたんだろうと思った。

 代わりに、文庫の棚の前で足が止まる。

 何を読むわけでもなさそうなのに、背表紙を目で追っている。

「本、好き?」

 俺が聞くと、彼女は少しだけ考えた。

「好きかどうか、あまり考えたことない」

「そういうことってある?」

「あるよ」

 透子が横から言う。

「自分の好きなものが、あとから分かること」

 彼女はそれに何も返さなかった。

 でもそのあと、文庫を一冊だけ手に取って、裏表紙を見て、戻した。

 その仕草が、何かを試すみたいに見えた。


 雑貨屋では、彼女が小さなヘアピンの前で止まった。

 安い、三本入りの黒いピンだ。

 今どきそんなものを特別に見る人もいないくらいの、どこにでもある商品。

「いる?」

 透子が聞く。

「いや……」

「じゃあ見ただけ?」

「うん」

 でも、その「うん」には少しだけ未練があった。

 透子はそれを見ていたらしい。かごも持たずにレジへ行って、戻ってきた時にはそのピンを持っていた。

「はい」

 彼女が、驚いた顔をする。

「え」

「安いし」

「でも」

「貸しでいい」

「なんの貸し」

「あとで考える」

 彼女はしばらくピンと透子の顔を見比べて、それからようやく受け取った。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 透子はそう言って、眼鏡を少しだけ押し上げる。

 その横顔を見て、春樹が「女子ってそういうのあるよな」と分かったようなことを言い、透子に「一括りにしないで」と返されていた。


 駅前を離れる頃には、空の端が少しだけ赤くなっていた。

 曇り空の夕方は、晴れの日より色が鈍い。その分、電柱の影や店の看板の灯りだけが先にくっきりして見える。

 彼女は買ったばかりのヘアピンを、指先でいじっていた。

 袋から出して、また入れて、光に透かすみたいに少し持ち上げている。

「そんなに珍しい?」

 春樹が聞く。

 彼女は、首を振った。

「珍しいんじゃなくて」

 そこで少し言葉を探す。

「自分で選んで、持って帰るっていうのが」

 春樹は「そっか」とだけ言った。

 透子は何も言わない。

 俺も何も言えなかった。


 帰り道、駅前の大きな交差点を渡る手前で、彼女の足がほんの少しだけ止まった。

 次に、視線。

 向こう側の道路沿い、信号待ちの車列のいちばん後ろに、黒いセダンがいた。

 この前の祭りの帰りに見たものと同じかどうかは分からない。

 でも、同じかどうかを考える前に、身体の方が先に覚えていた。

 透子が一歩だけ彼女の前へ出る。

 春樹は信号が変わるのを見ながら、わざとらしく伸びをした。

「行こ」

 と、いつも通りの声で言う。

 青になる。

 四人で渡る。

 渡りきって、角をひとつ曲がるまでは、誰も何も言わなかった。

 店の裏口が見えるところまで戻ってから、ようやく春樹が小さく言う。

「さっきの、見た?」

「見た」

 透子が短く答える。

「俺も」

 彼女は、少し遅れて頷いた。



 おばさんは、俺たちの顔を見ただけで何かを察したらしく、何も聞かずに裏口を閉めた。

「手ぇ洗ってきな」

 そう言ってから、少しだけ声を低くする。

「話はそれから」

 洗面所で水を流す音が、やけに大きく聞こえた。

 手についた湿気を落として、居間へ戻る。

 ちゃぶ台の上には、もう夕飯が並び始めていた。

 煮物。冷ややっこ。焼いた茄子。

 暮らしは、待っていても止まらない。

「同じかどうかは分からない」

 透子が先に言った。

「でも、黒かった」

「雨の日のやつと、形似てたな」

 春樹が続く。

 おばさんは黙って聞いていた。

 彼女はちゃぶ台の端を軽く握っている。

「今すぐどうこうって感じじゃない」

 春樹が言う。

「でも、見失ってはないって感じはする」

 その言い方が妙に具体的で、俺は春樹を見る。

 春樹は気づいても何も言わなかった。


 おばさんがため息ともつかない息をひとつだけ吐く。

「なら、しばらく駅前はやめとくかね」

 誰も反対しなかった。

 彼女だけが、少しだけ目を伏せる。

 それでもおばさんは、そこで話を終わらせた。

「ごはんにしな」

 いつもの声だった。

「冷める」


 食後、彼女は買ってきたヘアピンを透子に見せていた。

 透子が「それ、前髪止めるなら二本の方がいい」とか何とか言って、結局彼女の髪を少しだけ留め直している。

 春樹はそれを見て「完成された女子会」と評し、透子に「うるさい」と切られていた。

 俺はその様子を少し離れたところから見ていた。


 祭り。パン屋。駅前。黒い車。

 今日あったことのどれもが、まだそのまま身体に残っている。

 それでも目の前では、彼女が鏡代わりにスマホの黒い画面を見ながら、慣れないヘアピンの位置を気にしている。


 二階へ上がる前、彼女が小さく俺を呼んだ。

「ねえ」

「うん」

「今日、楽しかった」

 それだけだった。

 俺は頷いた。

「うん」

「でも」

 彼女は、そこで少しだけ言葉を切った。

「次、また行けるかな」

 次、が何を指すのかは分かる。駅前か、パン屋か、雑貨屋か、あの交差点か。

 あるいは、普通に出かけることそのものか。

 すぐには答えられなかった。

 答えたところで、ほんとうのことにはならない気がしたからだ。

「行けるといいね」

 結局、そう返す。

 彼女は、少しだけ笑っていた。

 

 夜、和室の窓から外を見ると、街はもう静かだった。

 交差点も、提灯も、駅前の看板も、ここからは見えない。

 見えないのに、今日見た黒い車の輪郭だけは、まだ頭のどこかに残っていた。

 それでも布団に入ると、彼女の気配は昨夜より少しだけ近かった。

 店の空気も、透子の短い声も、春樹の軽口も、おばさんの台所の音も、全部が前より少しだけ身体に馴染んでいる。

 外では見えないものが少しずつ近づいているのかもしれない。

 でも同じだけ、ここでしかできない暮らしの輪郭も、少しずつはっきりしていく。


 その両方を抱えたまま、夏はまだ終わる気配を見せなかった。

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