祭りの香り
翌朝、雨は上がっていた。
上がってはいたけれど、空はまだ完全には晴れていなかった。
雲の裏に光はあるのに、それがそのまま地上まで落ちてこない。屋根の瓦も、路地のコンクリートも、昨夜の雨を細く残していて、朝のくせにどこか夕方の手前みたいな色をしていた。
二階の窓を、少しだけ開ける。
湿った風が入ってきた。
乾いた朝の風じゃない。洗い上がったばかりの布を、まだ外へは出したくない時の風だった。遠くで一度、カラスが鳴く。その声のあとに、商店街のシャッターが上がる金属音が重なった。
隣の布団は、もう空いていた。
彼女は俺より起きるのが早い。最初の朝からずっとそうだった。眠れていないのかと思ったこともある。でも、最近は少し違うのが分かる。眠れないというより、誰より先に起きて、誰より先に身の置き場を決めてしまう癖みたいなものだった。
布団を足でよけて階段を降りると、居間にはもう朝の匂いがしていた。
味噌汁。焼いた鮭。少し甘い卵焼き。
それに、洗剤と、まだ熱の残った作業場の空気が混ざっている。台所に立つおばさんは、いつものようにエプロンの紐を腰の後ろで結び直しながら、焼き網の上の魚を箸で返していた。
「起きたなら顔洗っといで」
背中を向けたまま言う。
「寝起きの顔で鮭を見られても、こっちも困るから」
「鮭が?」
「鮭も困るし、あたしも困る」
そういう意味の分からない言い方を、おばさんは時々する。
流しで顔を洗って戻ると、透子が店先の受け取り棚の札を入れ替えていた。細い黒縁眼鏡の奥で、目がまだ少し眠そうだった。たぶん、起きるのは早いくせに、朝が強いわけではない。そういうところだけ少し人間らしいと思う。
春樹も俺と同じくらいのタイミングで降りてきて、あくびを噛み殺しながら「おはよ」と言った。
彼女は、窓際のいちばん見えにくい位置にもう座っていた。
借りたTシャツの袖口を少しだけ折って、髪は後ろでひとつに結んでいる。帽子は被っていない。昨日の夜、店先に来た男の顔がふいに頭に浮かんで、俺はそのまま一瞬だけ立ち止まった。
彼女はたぶん気づかなかった。
あるいは気づいていても、気づかないふりをしたのかもしれない。
「立ったままでいない。座んな」
おばさんが言った。
俺と春樹は、素直に座った。
朝の食卓は、いつもより少し静かだった。
静かといっても、気まずいわけじゃない。誰もわざと明るくしない。おばさんも、透子も、春樹も、昨夜のことにわざわざ触れない。その代わり、全員が少しだけ彼女の方に、意識を残しているのが分かる。
味噌汁の湯気。
鮭の皮の香ばしい匂い。
ガラス戸の向こうを通る自転車のブレーキ音。
そういう何でもない朝の音の真ん中に、彼女がちゃんといる。
「今日さ」
春樹が、卵焼きを口に入れてから言った。
「晴れるなら、少し――」
「晴れないよ」
透子が答える。
「昼までは持つけど、夕方また降るらしい」
「言い切るなあ」
「言い切るくらい見れば分かる」
おばさんが平然と言う。
「この子は基本、口が少ないだけで気が強いんだから」
「母さん」
「なに。違う?」
透子は、何も言わずに味噌汁を飲んだ。
春樹が吹き出しそうになって、彼女が少しだけ笑う。笑うたびに、店の中の空気がほんの少し緩む。それを、ここ数日で何度も見てきた。
食事を終えると、店はいつものリズムで動き始めた。
ガラス戸の鈴が鳴る。
受け取りに来る常連の声。
雨上がりの湿気を含んだシャツの匂い。
アイロン台を滑る布の音。
洗濯機の回る低い振動。
昼のクリーニング店は、目で見るより先に音で埋まる。足元、壁、天井のあちこちから細い音が立ち上がって、その全部がいつの間にか「昼」になる。
俺はワイシャツの仕分けをしていた。
春樹は伝票の束を持って、最初の十分くらいは真面目に番号を見ていたが、そこから先は三枚に一枚くらい「これどっち?」と聞く。透子は毎回「見れば分かる」としか言わない。春樹は毎回「その言い方ひどくない?」と言う。透子が態度を改めることは、今のところ一度もない。
彼女は、今日はハンガーにかけたシャツのタグを揃える役だった。
最初の頃は、紐を小さな穴に通す角度ひとつで指先が止まっていたのに、今はだいぶ手が動く。動くけれど、慣れすぎてはいない。ひとつひとつ確かめながらやる。その慎重さが、もともとの性格なのか、ずっとそうやって生きてきた結果なのかは、まだ分からなかった。
「それ、曲がってる」
透子が言う。
「ごめん」
「謝んなくていいから直して」
「……うん」
彼女は素直にやり直す。
やり直す時の顔が、少しだけ真剣で、透子はそれを横目で見てから、もう一枚別のタグの束を差し出した。
「こっちも」
「多い」
「まだある」
「厳しい」
「仕事だから」
「それはそうだけど」
そのやり取りに、春樹が「容赦ねえな」と言って、彼女が小さく笑う。
笑うたび、彼女の肩の力が少しずつ抜けていくのが分かる。
昼を回るころ、客足がいったん途切れた。
店先のガラスに映る通りも、朝より少しゆるくなっている。雨が上がったあと特有の、何をするにも一段遅い時間だった。
その時、法被を受け取りに来た町内会らしいおじさんが、伝票を受け取りながら言った。
「今夜、祭りどうにかやるらしいね」
おばさんが、受け取り棚の奥から包みを出しながら答える。
「神輿は分からないけど、屋台は出すんじゃないかい。ここまで準備して、全部なしも気の毒だしね」
「雨上がりの祭りってのも、まあ悪くないよな」
「転ばなきゃね」
おじさんは、笑って帰っていった。
祭り。
その言葉が落ちた瞬間、彼女の手がほんの少しだけ止まった。
俺は見ていた。透子も見ていたらしい。眼鏡の奥の目が、一度だけ彼女の指先に落ちる。
そのあとも、祭りの話は昼のあちこちから入ってきた。
屋台のテントを誰が張るか。
射的の景品は去年の残りがあるか。
神社の階段はまだ少し濡れているだろうとか。
子ども用の浴衣の裾上げは間に合ったかとか。
彼女は何も聞いていないような顔で、でもちゃんと聞いていた。
法被。屋台。神社。提灯。
そのどれもが、彼女の中ではまだ実感より先に言葉だけで浮いているようだった。
昼下がり、いったん洗濯機が止まったあと、おばさんが伝票の束を机に置いた。
「透子」
「なに」
「夕方の受け渡し、法被三つだけ社務所に持ってってくれる?」
「今から?」
「四時半くらいでいいよ。向こう、取りに来る余裕ないらしいから」
透子は、一拍だけ考えた。
その横で、彼女が顔を上げる。
まだ自分からは言えないみたいだった。
代わりに春樹が、案の定みたいな顔で口を開いた。
「じゃ、俺ら持ってくよ」
「俺らって、お前が勝手に増やすな」
透子が言う。
「いや、ほら。荷物あるし。手伝いってことで自然じゃん」
「お前は祭り行きたいだけでしょ」
「否定はしないけど、それだけでもない」
春樹がそう返した時、おばさんは彼女の方を見た。
「行きたいの?」
問われて、彼女は一度だけ透子を見た。
透子は何も言わない。おばさんも急かさない。
「……行きたい」
声は小さかったけれど、はっきりしていた。
「じゃあ行きな」
おばさんはすぐに決めた。
「法被届けて、その辺を少しだけ見て戻る。真ん中の人混みには入らない。神社の下まで。分かった?」
「はい」
彼女が頷く。
それだけで、顔のどこかにまだ言葉になっていない期待が差した。
「春樹」
「はい」
「あんたは勝手に面白がらない」
「俺そんな信用ない?」
「あると思ってる?」
「ないんだ」
「ないね」
透子が横で小さく息をつく。笑っているのか呆れているのか分からないくらい微かな息だった。
出る前に、透子は二階から帽子を持ってきた。
いつものキャップではなく、少しだけつばの広い、生成りに近い色の帽子だった。彼女の前髪を軽く払って、それを浅すぎず深すぎずに被せる。頬にかかる髪を耳の後ろに入れて、つばの角度を整える。
「これでいい」
「……変じゃない?」
「変じゃない。今日はこっちの方がいい」
「今日は、って」
「昨日より顔色あるから」
透子は、さらっと言った。
彼女は一瞬だけ目を丸くして、それからほんの少しだけ笑う。
春樹は法被の包みを二つ抱え、俺は残りひとつと提灯用の小さな箱を持った。透子は手提げに伝票とハンカチを入れている。
四人で裏口を出る。
夕方の街は、まだ日は完全には落ちていないのに、通りの色がどこか浮き足立っている。
商店街の軒先には赤い提灯がぶら下がり、全部じゃないにしても、ところどころ先に灯り始めている。八百屋の店先には客よりも片づけの箱が多く、肉屋の前の油の匂いに、どこかの屋台から流れてきたソースの匂いが重なる。遠くで太鼓の試し打ちみたいな乾いた音が、一度だけ、そしてもう一度鳴った。
彼女はその音に、少しだけ顔を上げた。
「初めて?」
俺が小さく聞くと、彼女は少し考えてから答えた。
「ちゃんと歩くのは、たぶん」
社務所は神社の手前にある古い平屋で、透子が戸を開けるなり、中から「助かった!」という声がした。法被の受け渡しはすぐに済んだ。町内会らしい男の人は透子に「お母さんによろしく」と言い、俺たちにはたいして興味を持たないまま奥へ引っ込んでいく。
その「たいして興味を持たれない」ことに、彼女は少しだけ安堵しているようだった。
社務所を出ると、神社の石段の下にはもう屋台が並んでいた。焼きそば、わたあめ、かき氷、射的、金魚すくい。まだ明るさが残っているぶん、灯りだけが先に浮いているみたいに見える。
「ここから先は外側だけ」
透子が言う。
「一周して、人増える前に戻る」
「はい、隊長」
春樹が言う。
「隊長じゃない」
「でも一番判断速いじゃん」
「それはそう」
透子が普通に認めたので、春樹が少しだけ驚いた顔をした。
彼女はそのやり取りに小さく笑って、帽子のつばを指で押さえる。
祭りの真ん中へは入らないと言っても、外れの道にも十分に祭りは流れてきていた。
神社へ向かう人の足音。
浴衣の裾。
子どもの持つ光る剣のおもちゃ。
屋台の鉄板にソースが落ちる音。
ラムネの瓶を開ける、ぽん、という乾いた音。
雨上がりのアスファルトに映る提灯の赤。
彼女は、右も左も少し忙しいくらいに見ていた。
金魚すくいの水槽の前でほんのわずかに歩幅が遅れる。
射的の景品棚に目が止まる。
わたあめの袋が風に膨らむのを見上げる。
「欲しいのある?」
春樹が気軽に聞く。
彼女はすぐには答えなかった。欲しいかどうかを考える前に、それを聞かれること自体がまだ少し新しいみたいだった。
「……分からない」
「正直でよろしい」
「うるさい」
透子が言う。
「聞いといてそれ言うなよ」
「欲しいか分からない時に急かす方が悪い」
春樹は肩をすくめる。
彼女はそんな二人の間で、困ったように、でも少し楽しいみたいに笑った。
人の流れが少し濃くなってきたところで、透子が道をひとつ外した。屋台の並びから離れて、川の方へ抜ける細い道へ出る。少し草の匂いがして、祭りの音が半歩ぶんだけ遠くなる。
「こっちの方が楽」
透子が言う。
「人少ないし」
「地元民」
春樹が頷く。
「祭り慣れしてるな」
「人混みが嫌いなだけ」
「それでも祭りの外側だけ歩くの、だいぶ透子っぽい」
「春樹さんに言われたくない」
そう言いながら、透子は眼鏡を押し上げる。
その横で、彼女が少しだけ透子の顔を見る。見るだけで、すぐには何も言わない。
川沿いの柵があるところで足を止める。神社の境内は木々に隠れて見えない。けれど向こうの空に提灯の赤い反射が薄く揺れていて、音だけが届いてくる。太鼓。人のざわめき。誰かの笑い声。
外れにいるのに、祭りの真ん中が想像できるくらいの距離だった。
春樹が近くの屋台でラムネを四本買って戻ってくる。瓶の首に水滴がついている。一本を彼女に渡すと、彼女は受け取って、しばらく開け方を見ていた。
「やったことない?」
春樹が聞く。
「見たことはある」
「見たことはあるんだ」
「見たことしかないってことも、あるでしょ」
彼女がそう返すと、春樹が少しだけ目を丸くする。
それから「それはそう」と笑った。
ビー玉を押し込む時、彼女は少しだけ身を引いた。ぽん、と乾いた音がして、瓶の中に泡が立つ。その音だけで彼女は笑って、透子も横で小さく口元をゆるめる。
「大丈夫?」
俺が聞くと、彼女は頷いた。
「ちょっとだけ、びっくりした」
瓶を口元に運ぶ仕草が、ぎこちなくはないのに少し慎重で、見ているこちらの方が落ち着かなくなる。
春樹が少し先の自販機を見て、「俺もう一本なんか買う」と言って歩いていく。俺も何となくついていく。
「何飲む?」
と聞くと、彼女は少しだけ考えてから言った。
「……今は、いらない」
「透子は?」
「水で足りる」
「堅いなあ」
「飲むだけだから」
自販機の前で小銭を入れながら、ふと振り返る。
四人でまた歩き出す。
祭りの音は少しずつ近づいたり遠ざかったりして、道の曲がり角ごとに聞こえ方が変わる。川沿いの草の匂いの向こうから、焼き鳥の煙が細く漂ってくる。彼女はラムネの瓶を両手で持ったまま歩き、その中のビー玉が時々小さく鳴った。
その時、向こうの道路脇に停まっている車が目に入った。
黒いセダン。
この前のコンビニ帰りに見たものと同じかどうかは分からない。
彼女の足も、ほんのわずかにだけ遅れる。
透子がそれに気づく。
春樹も、缶を口元に持っていくふりみたいにしながら、その方向へ一度だけ視線を流す。
「戻ろう」
透子が言った。
いつもと同じ声。
だから逆に、そこに余計な感情がないことが分かる。
「そろそろ混むし」
春樹が「だな」とすぐに乗る。
俺も、彼女も、何も言わずにその流れに入る。
帰り道、彼女は一度だけ後ろを見かけて、でも本当に振り返る前にやめた。
その仕草を見て、春樹が何でもない声で言う。
「大丈夫」
前を向いたままの言い方だった。
「追いつかれる距離じゃない」
その軽さに、少しだけ救われる。
救われながら、どうしてそんな言い方ができるのかと少しだけ気になる。
商店街に入ると、空はもうだいぶ暗くなっていた。提灯の赤が濃くなり、人の流れも増えている。おばさんと約束した外側だけの時間は、もう終わりでよかった。
旧商店街の角を曲がるころ、彼女がぽつりと俺に言った。
「こういうの、知らなかった」
歩きながらの小さな声だった。
「祭り?」
「ううん。もっと……」
言葉を探すように少しだけ黙る。
「こういうふうに、ただ歩くだけで、ちゃんと楽しいっていうの」
すぐには返せなかった。
春樹と透子が少し先で何か言い合っている。提灯の灯りが道の端に揺れて、誰かの家の風鈴が一度だけ鳴った。
「そっか」
結局、それしか言えない。
彼女はそれで十分みたいに小さく頷いた。
ラムネの瓶を持った指先が、少しだけ汗で光っている。
店の裏口に着くと、おばさんが戸を半分だけ開けて待っていた。
「おかえり」
「ただいま」
透子が答える。
「法被は渡した。問題なし」
「問題ある時は先に言いな」
おばさんはそう返してから、彼女の帽子を見る。帽子のつばに手が伸びかけて、でも外の空気ごと取ってしまいそうで、やめたみたいだった。
「どうだった」
彼女は少しだけ考える顔をした。
それから、ラムネの瓶を持ち上げる。
「ビー玉、入ってました」
おばさんが一瞬だけきょとんとして、それから笑う。
「そう」
「あと」
彼女は、言い足すかどうか迷うみたいに一拍置いた。
「……楽しかった」
その一言は、たぶん、彼女が自分で思っていたよりちゃんと嬉しいものだった。
言ったあとで少しだけ照れたみたいに目を伏せる。
おばさんはそれを聞いて、「よかったねえ」とだけ言った。
居間に戻ると、祭りの音はもう遠くなっていた。
代わりに、店の奥の扇風機の回る音と、洗剤の匂いと、誰かが持ち込んだ外の湿り気が残っている。
春樹はちゃぶ台に肘をついて、「たこ焼き食いたかった」と言い、透子に「結局それ」と返されていた。
彼女は帽子を脱いで、しばらくそのつばを見ていた。
そこに何かが残っているわけでもないのに、今日見たもののどこかが、まだその帽子についているみたいな見方だった。
俺は窓際に立って、店先の外を一度だけ見た。
通りには提灯の赤が少しにじんでいる。
黒い車は見えない。
見えないけれど、いないとも言い切れない。
背中の方で、ビー玉が瓶の中で小さく転がる音がした。
振り返ると、彼女がラムネの空き瓶を傾けて、それをじっと見ていた。




