雨宿りのあいだ
夜の雨は、昼の雨より音がはっきりしている気がする。
店の外に落ちる粒が、ガラス戸の向こうで細かく跳ねる。シャッターは半分下ろされていて、表の明かりはもう細くしか入ってこない。その代わり、店の奥の居間だけが小さく明るかった。
扇風機が回っている。
洗濯機はもう止まっている。
台所では、おばさんが味噌汁の鍋を温め直していた。
雨の日は、店の匂いが少し変わる。
洗剤と、熱と、湿った布の匂いが、いつもより近い。
俺はちゃぶ台の端で、透子に渡された伝票を仕分けていた。春樹は向かいでタオルを畳んでいる。畳んでいる、というより、畳もうとしている。三枚に一枚くらい、角が微妙にずれていた。
「それ、もう少し揃えて」
透子が言う。
「揃ってるって」
「揃ってないから言ってる」
「厳しいな」
「春樹さんにだけ」
「なんでだよ」
「雑だから」
春樹が口をへの字にしてから、わざとらしく丁寧にタオルを広げ直す。
その横で、彼女が少しだけ笑った。
笑う回数が増えた。
最初の頃みたいに、笑う前に一度身構えることも減った。
今みたいに、春樹と透子のやり取りに小さく肩を揺らすような笑い方を、もう何度か見ている。
おばさんが味噌汁の椀を四つ並べながら言った。
「雨の日は余計なことしないのがいちばんだよ」
「余計なことって?」
と春樹。
「たとえば、夜に外へ出るとか」
「刺さるなあ」
「刺してるからね」
おばさんは平然と言って、彼女の前にだけ少し小さめの椀を置いた。彼女は、ありがとう、と小さく言って、それを両手で受ける。
今日は昼のうちから降っていたせいで、外出はしていない。
そのぶん、店の中で過ごす時間がいつもより長かった。
昼間は透子と彼女が二階でタグ付けをしていた。俺は下で、おばさんに言われるままワイシャツを棚へ戻し、春樹は「俺こういう単純作業、嫌いじゃない」と言いながら結局二十分で飽きて、裏口のところで缶コーヒーを飲んでいた。
夕方前、雨が少し弱まった時に、俺は春樹と二人でゴミ出しに出た。
裏口の外は薄暗かった。青いテントの骨組みから水が落ちていて、路地の端に小さな水たまりができている。ゴミ捨て場まではほんのすぐなのに、雨の日はその数十メートルの距離まで少し違う場所みたいに感じる。
ビニール袋を置いた帰り道、春樹が急に言った。
「お前さ」
「うん」
「だいぶ顔変わったよな」
「何が」
「最初の頃、もっと『巻き込まれました』って顔してた」
「してたかも」
「今はまあ、半分くらい自分で入ってる顔してる」
言い返そうとして、やめた。
たぶん、半分どころじゃない。
春樹は路地の向こうを見ながら、片足で濡れた地面を軽く蹴った。
「まあ、いいけど」
その言い方のあとに、少しだけ間があった。
「春樹」
「ん?」
「お前も、なんでこんなに付き合ってくれてるの」
言ってから、少し遅かった気がした。
でも春樹は、嫌そうな顔をしなかった。むしろ、少しだけ笑った。
「それ、今さら聞く?」
「今さらだけど」
「うーん」
春樹はすぐには答えなかった。雨の匂いを吸うみたいに小さく息を吐く。
「たぶん、ほっとけなかったんだろうな」
「彼女を?」
「お前ら両方」
そう言ってから、春樹は笑いを引っ込めた。
「まあ、いろいろあったけどさ」
軽い調子のままなのに、その後ろにあるものだけ少し重くなる。
俺は何も言わずに待った。
「でも、そういう自分の過去を振りかざすのは好きじゃないんだよ」
雨粒が、テントの骨に当たって小さく鳴った。
春樹は前を向いたままだった。
「それで分かってもらおうとするの、なんか違う気がするし」
「分かった気になられるのも、あんま好きじゃないし」
言い終わる頃には、もういつもの声に戻っていた。
「だから、聞かれてもそんな話すことない」
俺は少しだけ笑った。
「話してるじゃん」
「今のは話したうちに入らない」
「都合いいな」
「だろ」
春樹はようやくこっちを見て、口元だけで笑った。
その顔が思っていたより静かで、俺は少しだけ驚いた。
店へ戻ると、透子と彼女が二階から降りてくるところだった。
透子はいつものように眼鏡を指で押し上げていて、彼女は借りたTシャツの袖を少しだけまくっている。階段の途中で、何か話していたらしく、彼女の口元にはまだわずかに笑いが残っていた。
その表情を見て、春樹がすぐにいつもの顔に戻る。
「なに、盛り上がってた?」
「別に」
と透子。
「春樹さんに言うことじゃない」
「おれ、嫌われてる?」
「そこまでじゃない」
「一番傷つくやつだ」
その返しに、彼女がまた笑った。
夜の食事を終えたあと、雨は少しだけ弱くなった。
止みそうで止まない、細い雨だった。
居間のテレビでは天気予報が流れていて、画面の端に並ぶ雨雲の色がやけに濃い。おばさんが「明日もぐずつくねえ」と言い、透子が「洗濯物、乾きにくい」と答える。春樹はソファでもない床でもない半端な位置に座って、スマホの充電を気にしていた。
その時、店先のガラス戸の鈴が鳴った。
全員の動きが、ほんの少しだけ止まる。
「この時間に?」
春樹が小さく言う。
おばさんはすぐに立ち上がった。
「透子、二階」
短い声だった。
彼女が反応するより先に、透子が手首を取る。
「こっち」
彼女は何も言わずに立つ。
その顔に、最初の夜に見た緊張が一瞬だけ戻った。
俺と春樹も立ち上がったが、おばさんは振り向かないまま言った。
「男の子二人はそこ。変に出る方が怪しい」
ガラス戸の向こうに、人影がひとつ見えた。
傘を畳む動き。濡れた肩。
それだけで、誰なのかは分からない。
おばさんが店先の明かりをつける。
その顔は、さっきまで味噌汁をよそっていた人と同じだった。何も変わっていないように見える。
引き戸を少しだけ開ける。
「あら、こんばんは」
外に立っていたのは、見たことのない男だった。
三十代くらい。黒い傘。スーツではないが、地元の人間っぽくもない。
男は会釈して、言った。
「遅くにすみません。この辺で、若い女の子を見かけませんでしたか」
声は静かだった。
それが余計に嫌だった。
おばさんは、少しも詰まらずに首を傾げる。
「若い女の子?」
「はい。帽子を被っていて、背の高くない」
「この辺、若い子はみんな帽子くらい被るよ」
それはほとんど笑い話みたいな返しだった。
男は少しだけ困ったように笑う。
「そうですよね」
「うちはクリーニング屋だからね。夜はもう、お客さんもそんなに来ないし」
「そうですか」
「何かあったんですか」
「いえ、大したことでは」
「大したことじゃないのに、雨の中歩いていると風邪ひくよ」
おばさんは、本当にそう思っているみたいな口調で言った。
男はまた少し笑って、「ありがとうございます」と頭を下げる。
それ以上は踏み込まなかった。
そのまま傘を開いて、雨の中へ戻っていく。
ガラス戸が閉まる。
鍵の音がしてから、ようやくおばさんが一度だけ息を吐いた。
「透子、いいよ」
二階へ向けて声をかけると、少し間があってから階段が鳴った。
彼女は、さっきよりもっと静かな顔で降りてきた。透子の後ろに半歩隠れるみたいな位置だった。
「知ってる人?」
春樹が聞く。
彼女は首を振る。
「分からない」
その答えに、おばさんは何も足さなかった。
ただ、店先の明かりを消して、居間へ戻る。
「今日はもう外、見ない」
それだけ言う。
彼女は、小さく頷いた。
それから、自分の手がまだ少し震えていることに気づいたみたいに、片手でもう片方の手首を握った。
透子が、その動きを見ていた。
「上、行く?」
彼女は少し迷ってから、首を横に振った。
「……ここにいる」
「そ」
透子はそれで十分らしかった。居間の隅からブランケットを引っ張り出して、彼女の隣に置く。
「寒いなら使って」
「ありがとう」
春樹は、さっきの男の顔を思い出しているらしく、黙ったまま窓の外を見ていた。
俺も同じだった。
大したことではない。
そう言っていた。
でも大したことじゃないわけがなかった。
彼女がテレビの光を受けたまま、少しだけ伏し目になる。
その横顔を見て、昼の雨の中、春樹が言っていたことを思い出す。
そういう自分の過去を振りかざすのは好きじゃない。
彼女はきっと、それに近いものをずっと抱えている。
何かを話せないこと。
話したとしても、きっとそれがそのまま言い訳や説明にはならないことを、自分でも分かっている顔をしている。
おばさんが台所から温かい麦茶を持ってきて、彼女の前に置いた。
「甘いもんの方がよかったかね」
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫じゃない時は、大丈夫って言わなくていいんだよ」
おばさんはそう言って、いつものように大きく笑うわけでもなく、でもちゃんと余裕のある顔をする。
彼女はその言葉に少しだけ目を伏せて、湯気の立つ湯飲みに手を伸ばした。
しばらくして、テレビの音だけが居間に残る。
透子は伝票を見ている。
春樹はまだ窓の外を気にしている。
おばさんは明日の仕込みのことを考えている顔で、濡れた傘を玄関の隅へ立てかける。
彼女は両手で湯飲みを包んでいる。
誰も何も言わない時間が少し続いて、それが前ほど気まずくないことに気づいた。
雨はまだ止まなかった。
でも、さっき来た男の足音はもうどこにもない。
代わりに、扇風機の回る音と、テレビの向こうで笑う知らないタレントの声と、時々だけ鳴るガラス戸の小さな軋みがあった。
夜の終わり近く、二階へ上がる前に、彼女が小さく俺を呼んだ。
「ねえ」
「うん」
「さっきの人」
「うん」
「……分からなかった」
言い方は、それだけだった。
分からない、の中に何が入っているのかまでは言わない。
俺も、すぐには返せなかった。
「そっか」
結局、それしか言えない。
彼女は少しだけ頷いた。
階段を上がる途中、春樹が後ろから小声で言った。
「しばらく、見に来るかもな」
俺は振り返る。
春樹は、いつもの軽い顔ではなかった。
「でも、今すぐじゃない。そういう感じでもなかった」
「なんで分かるの」
「分かるよ。ああいうのは」
そこまで言って、春樹は少しだけ肩をすくめた。
「まあ、当たっててほしくはないけど」
それ以上は続けなかった。
俺も聞かなかった。
二階の和室の窓には、雨粒が細く残っていた。
障子を少しだけ開けると、外は真っ暗で、商店街の明かりだけがにじんで見える。
彼女は布団に入る前に、一度だけその窓際に立った。
昼間みたいに長くは見ない。
でも、外に何があるかを確かめるように、ほんの少しだけ立ち止まる。
「明日」
彼女が言った。
「うん」
「晴れるかな」
それは天気の話のはずなのに、そうじゃないようにも聞こえた。
俺は暗い窓の向こうを見た。
何も見えない。
でも、雨はさっきよりだいぶ弱くなっていた。
「晴れるといいね」
そう返すと、彼女は少しだけ笑った。




