小さく僅かな自由
裏口を出てすぐの路地は、まだ昼の熱を持っていた。
けれど、店の中にこもっていた熱とは違って、風が通るぶんだけ薄かった。壁際に積まれたケースの影が長くのび、どこかの家の室外機が低く唸っている。青いテントの骨組みはもう半分くらい陰に入っていて、その向こうの空だけがまだ明るかった。
彼女は、帽子のつばに指をかけたまま、しばらく立ち止まっていた。
外に出たからといって、何かがすぐ変わるわけじゃない。
路地の匂いも、遠くの車の音も、薄い夕方の光も、昨日までこの町にいた誰かにとっては、ただの当たり前だ。
「大丈夫?」
もう一度聞くと、彼女は今度はちゃんと頷いた。
「うん」
その声はまだ小さかったけれど、昨日よりは息が通っていた。
透子が先に歩き出す。眼鏡のレンズの端に夕方の光がうっすら乗って、首の後ろでまとめた髪が歩幅に合わせて揺れる。春樹はその少し横、でも前に出すぎない距離でついていく。おばさんの言った通りだった。
俺と彼女は、そのさらに後ろになった。
裏路地を抜けると、商店街の端へ出た。昼間に二階の窓から見ていた屋根の下へ、今度は自分の足で入っていく。
八百屋の前には、水を打った跡が黒く残っていて、魚屋の氷はもう少し減っていた。店先から揚げ物の匂いが漂って、どこかのラジオが古い歌を流している。
「思ったより、普通だな」
春樹が、振り向きもせずに言う。
「普通ってなに」
透子が返す。
「いや、もっとさ。この近くって、昭和の迷宮みたいな感じかと思ってた」
「意味分かんない」
「褒めてる」
「褒めてないでしょ、それ」
そのやり取りに、彼女が少しだけ笑った。帽子のつばの下で、口元がゆるむ。春樹はその気配に気づいたらしく、「ほら」とでも言いたげに肩をすくめた。
商店街は、夕方のせいか、人の動きがゆっくりだった。買い物袋を提げた人、店先で立ち話をしているおばさん、学校帰りらしい中学生。誰も俺たちを見ていない。少なくとも、そう見える。
彼女はそのたびに、少しだけ目で追っていた。
追うというより、確認しているみたいだった。
この人たちは自分を見ていない。
この世界は自分に気づかないまま回っている。
それを何度も確かめるみたいに。
「コンビニ、行く?」
透子が聞く。
彼女はすぐには返事をしなかった。たぶん、質問の意味より、その選択肢の自由さの方に少し戸惑っていた。
「……行きたい」
「じゃあ行く」
透子はそれで十分、という顔で右へ曲がった。
商店街を外れて少し歩くと、ガラス張りの小さなコンビニが見えた。入口の自動ドアが開くたびに冷気が流れてきて、外のぬるい風とぶつかっている。白い照明が明るすぎるくらいだった。
店に入る前に、透子が彼女にキャップのつばをもう少し深くするよう指で示した。彼女は素直に従う。その手つきが、まだ少しぎこちない。
中は、外よりずっと白かった。
棚。色。値札。雑誌の背表紙。レジ前の揚げ物のケース。アイスの冷凍庫に貼られたポップ。店内放送の、感情のない声。
彼女は入口で、ほんの一瞬だけ足を止めた。
「どうした」
俺が聞くと、彼女は首を振った。
「……いっぱいあるな、と思って」
その言い方が変に真面目で、俺は少しだけ笑いそうになった。
でも笑わなかった。
もし笑ったら、どんな顔をするだろうか。
春樹はもう飲み物コーナーに向かっていて、透子は買うものを最初から決めているらしく、カゴも持たずに牛乳と食パンの棚を見ていた。
彼女は、アイスのケースの前でしゃがんだ。
ふたを開けるたび、冷気が白くこぼれる。細い指が箱とカップの間を迷うように動く。ひとつ手に取って、戻して、また別のものを見る。たぶん、本当にどれを選んでいいのか分からないのだと思った。
「おすすめある?」
急に聞かれて、俺は一瞬つまった。
「俺?」
「ここに今いるの、君しかいないから」
ケースの中を見る。暑い日の帰り道、なんとなく買うものの感覚はある。けれど、誰かに勧める前提で選ぶとなると少し違う。
「……あんまり重くないやつがいいなら、これ」
白いカップをひとつ指した。バニラとミルクの中間みたいな、ごく普通のアイスだった。
彼女はその名前を一度小さく読んで、それから頷いた。
「じゃあ、それにする」
「そんな簡単に決めていいの」
「だって、君が勧めたから」
言われて、妙に責任が重くなる。
彼女は立ち上がると、そのカップを両手で持ったまま、少しだけ満足そうな顔をした。大げさじゃない。けれど、選んだというだけで、少し嬉しそうだった。
レジの前で並んでいると、雑誌棚の方に彼女の視線が動いた。芸能誌の表紙が二冊、三冊、派手に並んでいる。ひとつの見出しが、夏の映画イベントを扱っているらしかった。
彼女の指先が、カップの縁で止まる。
俺は、何も言わなかった。
言えなかった、という方が近いかもしれない。
先に透子が会計を済ませて振り向き、その視線の先に気づいたらしかった。
「外、先行く」
それだけ言う。
彼女は小さく頷いて、すぐにレジの方へ体を向け直した。
会計を終え、四人で店を出る。
冷房に慣れた腕に外気が触れると、夏が一段だけ近づいてくる。春樹は袋から缶コーヒーを取り出しながら、「川の方行く?」と言った。
「近いし」
「行ってもいいけど、暗くなる前まで」
透子が、釘を刺す。
「分かってるって」
「分かってない顔してる」
「ひどいな」
その軽口に混じって、彼女がアイスの蓋を開ける。木べらを折る音がした。
ひとくち目を口に入れて、目を少しだけ見開く。
「どう」
俺が聞くと、彼女はまた一拍置いてから答えた。
「……冷たい」
「それはそう」
「あと、思ってたより甘くない」
「よかったじゃん」
「うん」
川沿いの道は、夕方になると少し広く見えた。堤防の上まで上がると、向こう岸の家並みと、まだ明るい空が同時に目に入る。水は思っていたより静かで、光だけが細かく揺れていた。
四人で、堤防のコンクリートに腰を下ろす。
春樹は缶のプルタブを開けて、すぐに「これ苦」と言った。透子はそれを無視して牛乳を少し飲み、眼鏡を押し上げる。彼女は膝を揃えたまま座って、アイスをゆっくり食べていた。
「ここ、よく来るの?」
彼女が、透子に聞く。
「たまに」
「春樹さんは?」
「俺はこっち来てから。ひとりでバイク流してると、そのうちこういうとこ着く」
「それ、全然説明になってない」
「でも分かるでしょ」
「分かるのがなんか嫌」
透子の返しに、春樹が笑う。
その笑い声は川沿いの風に混ざって、どこか遠くへ行く。
少しして、春樹が飲み物を買い足すとかで自販機の方へ立った。俺もつられて腰を上げる。缶の冷たさが足りなかったのと、春樹がひとりだとどうせまた適当なものを選ぶからだった。
「何飲む?」
と、俺が聞くと、彼女は顔を上げた。
「……なんでもいい」
「一番困るやつ」
春樹が言う。
「じゃあ麦茶な。無難だから」
「無難で選ばないで」
透子が低く言う。
「じゃあ透子は?」
「水」
「堅」
「飲むだけだから」
「君は?」
彼女は少しだけ視線を落として、それからごく小さく言った。
「……麦茶で、いい」
「よし」
春樹が、小銭を入れ始める。
そのあいだ、俺は振り返った。堤防の上で、透子と彼女が並んでいる。二人とも前を向いて、川の方を見ていた。話しているようには見えない。
自販機の機械音が終わる。ペットボトルが落ちる音。
その時、向こうの道路に停まっている黒い車が、視界の端に入った。
ただの車、にも見えた。
運転席に人がいるかは、この距離では分からない。
少し目を細める。
その間に春樹が「はい」と麦茶を押しつけてきた。
「なに見てんの」
「いや……」
もう一度見ると、車はなかった。曲がったのか、最初からよく見えていなかったのかも分からない。
「なんでもない」
「そう」
春樹はそれ以上聞かなかった。聞かなかったが、俺の視線が向いた方へ一度だけ目をやっていた。
堤防へ戻ると、ちょうど彼女が透子に聞く声がした。
「なんで私を助けたの?」
春樹が隣で歩きながら、「お」と小さく言う。俺は何も言わない。
透子はすぐには答えなかった。
麦茶のボトルを受け取って、一口だけ飲む。眼鏡の向こうの目が、川面ではなく、もう少し手前の空気を見ていた。
「なんでだろー」
少しだけ投げやりに聞こえる声だった。
「分かんない」
彼女が少しだけ目を丸くする。
透子は、ほんのわずかに口元をやわらげた。
「……けど、あなたが助けてほしそうな顔をしてたから、かな」
彼女は一瞬、言葉を失ったみたいに透子を見る。
それから、自分でも信じきれないみたいに聞き返した。
「そんな顔、してた?」
「してた」
「透子にだけ?」
「たぶん」
そこで彼女が笑った。
声を立てない笑いだった。息が先に漏れて、それにつられて口元がほどける。昨日の壇上では見なかった笑い方だった。
「なにそれ」
「私もそう思う」
透子も少しだけ笑う。口元だけ先にゆるんで、あとから眼鏡の奥の目が細くなる、あの笑い方だ。
春樹がそれを見て、「女子会?」と言った。
透子はすぐ真顔に戻って「別に」と返したけれど、彼女の頬にはまだ笑ったあとの気配が少し残っていた。
川沿いの風が少し強くなる。彼女の帽子のつばが揺れた。
透子が「押さえて」とだけ言い、彼女が片手で帽子を押さえる。その何でもない仕草が、妙に落ち着いて見えた。
日がさらに傾き始めると、堤防の上の影も長くなった。おばさんの「暗くなる前まで」が頭のどこかに残っていて、透子が立ち上がる。
「戻ろ」
春樹が「もうちょい」と言いかけて、透子に見られてやめる。
帰り道は、来た時より少しだけ足並みがばらけた。
春樹と透子が少し先を歩く。買った食パンの袋が透子の手元で揺れている。俺と彼女は、その後ろになった。
信号で立ち止まる。
赤。
街灯が点き始めて、まだ明るい空と、少しだけ重なりが悪い。
彼女はアイスの空になったカップを袋の中にしまい、信号の向こうを見たまま言った。
「ねえ」
「うん」
前を向いたままの声だった。
「君が連れ出してくれたから、私、こんなに楽しいこと知れたんだよ」
言葉がそこで少し止まる。
信号機の機械音が、規則正しく鳴っている。
「……ありがとう」
うまく返事ができなかった。
ありがとう、と言われるようなことをした自覚が、まだ追いついていない。あの時、結局のところ走っただけだ。春樹が決めて、透子が道を示して、おばさんが入れてくれた。その流れの中にいただけに思える。
「俺は、そんな」
そう言いかけると、彼女は少しだけ首を振った。
「最初に手を引いたの、君だったから」
それは違う、と言おうとして、やめる。
イベントの通路で、彼女に声をかけられて。
春樹が戻ってきて。
その前に、自分が何をしたかを思い返す。
たしかに、何かひとつだけ、頷いた。
来る、と。
行く、と。
それだけのことだったのに、それが彼女には残っているらしかった。
青になる。
春樹が前で「ほら」と手を振る。透子が半歩だけ立ち止まって、こっちを見ている。
俺たちは歩き出した。
横断歩道を渡る途中で、彼女がふと視線を右へやった。つられて俺も見る。少し離れた道路脇に、黒い車が停まっていた。
さっきの車と同じかどうかは分からない。
距離もある。
フロントガラスに夕方の色が映って、中は見えない。
けれど、彼女の足が一瞬だけ止まりそうになった。
「どうした」
小さく聞くと、彼女はすぐに歩き出す。
「……なんでもない」
そう言う声が、さっきまでより少しだけ硬くなっていた。
透子も、春樹も、何も言わなかった。
ただ、商店街へ戻る角で、春樹が何気ない顔で進む道を一本ずらした。透子はそれに何も言わずについていく。
彼女はたぶん、そのことにも気づいていた。
けれど、そのまま黙っていた。
商店街の灯りが近づく。
揚げ物の匂い。
八百屋の片づける音。
小さな子どもが母親に引かれて歩いていく後ろ姿。
彼女はその家族連れを、ほんの少しだけ目で追った。
追って、すぐにやめた。
旧商店街の角を曲がる頃には、黒い車はもう見えなかった。
いなかったのか、本当にいたのかも分からない。
裏口から店へ戻ると、洗剤と熱の匂いが先に迎える。
おばさんは居間のちゃぶ台に腕をついて、伝票を見ながら「あら、お帰り」と言った。
「どうだった」
春樹が「平和」と答え、透子が「うるさかった」と言う。
彼女は帽子を脱いで、しばらくそのつばを見ていた。
外の匂いを持ち込んだみたいに、少しだけ顔がやわらかかった。
それを見て、おばさんが麦茶を出す。
「楽しかったかい」
彼女は一度だけ俺たちの方を見た。
それから、ほんの少し頬をゆるめた。
「……うん」
それだけだった。
でも、そのたった一音が、この古い店の居間で響いていた。




