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服の森を抜けて

 昼の店というものが、あんなに音でできているとは知らなかった。

 開店してしまえば、二階の和室にいる俺たちには、表の様子はほとんど見えない。見えるのは、窓の外の光の濃さが少しずつ変わることと、商店街の屋根の上をときどき鳥の影が横切ることくらいだった。


 代わりに、音が上がってくる。

 ガラス戸の鈴。

 おばさんの、よく通る声。

 透子の少し低い返事。

 洗濯機の回る振動。

 ハンガーの擦れる細い音。

 アイロン台に布を置く時の、ふ、と息を抜くような音。


 その全部が、階段をのぼって六畳の和室まで届いていた。


 俺は押し入れにもたれて、ぼんやり畳を見ていた。春樹は壁際に寝転がって、片手でスマホをいじっている。さっきからほとんど同じ姿勢のくせに、飽きたとも退屈だとも言わない。そういうところだけ、妙に適応が早い。

 窓辺には、彼女がいた。

 透子から借りたらしい薄い色のTシャツに、膝のあたりで少しもたつくズボン。昨日のワンピースの時とは、体の線の見え方がまるで違う。昨日の彼女が「見せる側の人間」なら、今の彼女はただの若い女の子だった。


 少し覗いて、すぐ引く。

 また少し見て、屋根の向こうを探るみたいに目を細める。

 それを何度も繰り返している。

「見える?」

 俺が聞くと、彼女は振り返った。

「少しだけ」

「何が」

「普通の昼間」

 その答えに、言葉が一瞬止まる。

 窓の外には、古い屋根と電線しか見えていないはずだった。通りそのものは、窓の位置からはほとんど見えない。けれど、彼女にはそれで十分なのかもしれなかった。

 春樹が寝転がったまま言う。

「普通の昼間って、だいぶざっくりしてんな」

「ざっくりしてるくらいがいいんじゃない」

 と、返したのは透子だった。

 いつ上がってきたのか、襖のところに立っている。眼鏡の奥の目は相変わらず静かで、でも今日は少し眠そうに見えた。細い黒縁のブリッジを指で押し上げる。

「お昼、持ってきた」

 お盆の上に、冷たいそうめんと、小さい皿に乗ったきゅうりの浅漬けが二つ、卵焼きが並んでいた。

「おばさんは?」

「下。常連の受け取り」

「透子は食べたの?」

「あと」

 透子はお盆を置くと、そのまま窓際へ行って、少しだけ障子を閉めた。

「見えすぎるから」

 彼女は、素直に一歩下がる。

「ごめん」

「別に。見たいのは分かってるから」

 透子はそう言ってから、ほんの少しだけ彼女の方を見る。言い方はぶっきらぼうでも、責めてはいないのが分かった。

 そうめんを食べる時も、彼女は最初に「いただきます」と小さく言った。

 ちゃんと箸を揃えて持って、つゆを飛ばさないように食べる。その整い方に育ちが出るのかもしれなかったし、たんに緊張しているだけかもしれなかった。

 春樹はというと、最初の一口で「うま」と言いかけて、透子に見られて黙った。黙ったあと、二口目でまた「……うまい」と小さく言い直していた。

「学習してる」

 透子が言う。

「俺だって学ぶ時は学ぶよ」

「そこ威張るところじゃないでしょ」

 それは彼女だった。

 言ったあとで、自分でも少し驚いたみたいに目を瞬かせる。春樹は笑った。

「お、初めてちゃんとつっこまれた」

「すみません」

「なんで謝るの。合ってるし」

 そのやり取りで、部屋の空気がほんの少し軽くなる。

 食べ終わったあと、階下からおばさんが呼んだ。

「透子ー! 悪いけどワイシャツのタグ、二十枚だけ上持ってってくれる?」

「分かった」

 透子が立ち上がると、彼女もつられるように腰を浮かせた。

「手伝います」

 透子が、一瞬だけ彼女を見る。

「別に、今日くらいは何もしなくていいよ」

「でも」

 そこで、おばさんの声がもう一度飛んできた。

「働きたい子は働かせな! 落ち着くこともあるから!」

 透子は、少しだけため息みたいなものをついて、眼鏡を押し上げた。

「……だって」

 それで彼女は、小さく笑って、立った。


 俺と春樹も、結局降りることになった。


 作業場は、夜見た時よりずっと狭く感じた。洗濯機の上に畳んだタオルが積まれ、アイロン台の脇には籠が二つ置かれている。両側に吊られた服のビニールが少し光って、その細い通路の奥に店先の明るさがある。

 昼のクリーニング店は、熱と洗剤と人の手つきでできていた。

 おばさんは作業台の前に立って、伝票を口にくわえそうな勢いで仕分けをしていた。オレンジ色のTシャツの袖をまくり、白いエプロンの裾で手を拭く。

「ほら、あんたたち。邪魔にならないとこで手ぇ動かしな」

「どうすればいいですか」

 と聞いたのは彼女だった。

 おばさんはその顔を見て、手元のタグをひと束差し出す。

「難しいことはいいよ。名字と番号が合ってるかだけ見て、透子の言う通りに留めな」

「はい」

 透子が籠を寄せる。

「こっちが受け取り済み、こっちが夕方渡し。タグは内側。外から見えると邪魔だから」

「うん」

「糸、絡ませないで」

「……うん」

 彼女の返事が二回目で少し弱くなって、透子がごく薄く口元を緩めた。見逃しそうなくらい小さい笑いだった。

 俺はタオルの山を畳む役になった。春樹は何故か洗濯物の仕分けを任されていたが、三枚に一枚くらいで「これどっち?」と聞いている。

「春樹さん、見て」

「見てるって」

「見てないから聞いてるんでしょ」

「その理屈はそう」

「理屈じゃなくてそのまま」

 透子は春樹に対してだけ、少し会話のテンポが速い。春樹もそれに慣れてきている。

 彼女は、最初こそタグを指で持つ手がぎこちなかったが、十枚もやる頃には少しずつ早くなった。細い指先が、小さな穴に紐を通す。

「それ、曲がってる」

 透子が言う。

「ごめん」

「謝んなくていいから、やり直して」

「……うん」

 やり直す時の顔が、さっきより少しだけ真剣で、俺はなんとなく見てしまう。

 おばさんがその様子に気づいたらしく、作業台の向こうから言った。

「あんた、見てるなら手も動かしな」

「動かしてるよ」

「口で言うんじゃないの」


 タオルを一枚余分に畳んでから、春樹が小さく吹き出した。

「この家、全員つよいな」

「まだ家じゃないでしょ」

 と、透子。

「え、もうだいぶ家感あるけど」

「それは春樹さんだけ」

「ひど」

 その会話に紛れて、彼女が少しだけ肩を揺らして笑う。

 笑い声までは出ない。


 午後の熱は、店の中で少しだけくぐもる。扇風機が作業場にも届くように向きを変えられ、洗濯機が止まるたびに、かわりに外の商店街の音が入ってくる。


 子どもの声。

 自転車のブレーキ。

 遠くで誰かが品物を呼ぶ声。

 それらが、一度だけ途切れた時、彼女が手を止めた。


「どうした」

 俺が聞くと、彼女はすぐに首を振った。

「……今、車の音が」

 透子も一瞬だけ表を見る。その反応が早い。

 おばさんが、作業台の上のシャツを広げながら言った。

「商店街の前の道、昼は配送の車も通るよ」

「うん」

 彼女はそれで納得したふうではなかったけれど、それ以上は何も言わなかった。

 ただ、しばらくしてからまた作業に戻る時の動きが、少しだけ慎重になっていた。

 俺は畳み終えたタオルを積みながら、店先のガラスの向こうを見たくなった。でも、おばさんにも透子にも、彼女にも、見える位置に行くなと言われたばかりだ。

 結局、俺は何も聞かずにタオルの角を揃え続けた。


 日が傾き始めると、店の中の空気が少し変わった。

 外の白さが抜けて、ガラス戸から入る光に橙が混じる。作業場の床に吊るされた服の影が細長く落ちる。洗濯物の熱も、ようやく夕方の風に押され始める。

 おばさんが帳面を閉じた。

「よし。今日はここまで」

 腕を伸ばして、肩を鳴らす。透子がその横で、受け取り棚の札を整えていた。彼女はその手元を見ていたが、少ししてからおずおずと聞いた。

「本当に、外……」

「行くよ」

 おばさんは、あっさり言った。

「行くって言ったら行くの。あたしはそういうとこ守るよ」

 それから、俺と春樹に顎をしゃくる。

「男の子二人は前歩きすぎない。先行かれると、連れてる感じが出るから」

「連れてる感じって」

「そのまんまだよ。並んだり、少し離れたり。自然に見える方が大事」

「はい、おばさん」

「返事だけいいねえ」

 春樹が笑う。


 透子は二階に帽子を取りに行った。戻ってきた時、薄いベージュのキャップを彼女に渡す。彼女はそれを受け取って、少しだけ戸惑うように持った。

「被ったことない?」

 春樹が言う。

「……あまり」

「新人女優様、ガード固えな」

「春樹」

「冗談だって」

 春樹がすぐに両手を上げる。彼女は怒ったようには見えなかった。むしろ、帽子を前にして、どう被るのが自然なのか迷っているみたいだった。

 透子が無言で近づいて、彼女の前髪を少しだけ指で払う。帽子を軽く乗せて、つばの角度を直す。眼鏡の奥の目が近い距離で細くなる。

「これでいい」

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 今度はちゃんと、透子もそう返した。

 それだけのやり取りだったのに、なぜか少し胸がざわつく。二人とも同じくらいの年なのに、そこだけちゃんと女の子同士の距離で、俺はたぶんその中には入れない。

 おばさんが店先のシャッターを半分だけ下ろし、表へ出た。

「じゃ、ちょっとだけね。商店街と、その先まで。変な感じしたらすぐ戻るよ」

 そう言って振り返る。その顔には、心配と余裕が同じくらいあった。

 透子が先に靴を履く。春樹は自分のスニーカーの踵を踏みかけて、「春樹さん」と低い声で呼ばれて踏み直した。

 俺たちが裏口の方へ回ると、彼女が最後に出てきた。

 帽子を深くは被っていない。借り物のTシャツに、少し大きいズボン。手には何も持っていない。ただ、外へ出る前の人間みたいに、指先だけ少し握られていた。


 裏口の引き戸を開けると、夕方の風が入ってきた。

 熱はまだ残っていた。でも昼の熱ではなかった。どこか薄くて、通り過ぎていく感じの風だった。

 商店街の裏路地には、洗った布と土の匂いが少しあった。青いテントの骨組みが、昼見た時より陰になっている。遠くで風鈴みたいな音が鳴る。

 彼女はそこに立ったまま、一歩目を出すまでにほんの少し時間がかかった。

「大丈夫?」

 と聞くと、彼女は俺を見る。

 それから、ひどく小さくうなずいた。

「……うん」

 透子とおばさんが先に路地へ出る。

 春樹が俺の肩を軽く押して、「行くぞ」と言った。

 俺たちは四人で、ようやく夕方の外へ出た。


 それは逃亡の続きというより、まだ名前のついていない何かの始まりみたいだった。

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