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俺たちの秘密基地

 店先の方を通り過ぎていく足音が、ガラス戸を挟んで遠ざかる。誰かが笑っている声。イチゴ祭典のざわめきはもう薄く、代わりに建物の奥で鳴っている洗濯機の低い振動が、床を通して足裏に伝わってきた。

 誰もすぐには喋らなかった。

 狭い居間の真ん中で、扇風機だけが首を振っている。青い羽根の回る音が一定で、その均一さにだけ救われる感じがした。

「透子、冷たいのもう一杯出しな。そっちの男の子たちも顔が死んでる」

「死んではないです」

 思わず返すと、お母さんは「あんたが決めることじゃないよ」と言って笑った。

 それで、居間の空気が少しだけゆるんだ。

 透子が台所の流しの前でグラスを増やした。氷が当たる軽い音。冷蔵庫を開けた時に一瞬だけ、居間の薄暗さが白く切れる。

 春樹はもう腰を落ち着けていた。さっきまで祭りの人混みを切って走っていたとは思えない顔で、ちゃぶ台の端に肘をつきそうになって、透子に「つかないで」と目だけで止められていた。

「で」

 透子のお母さんが、彼女の方を見る。

 彼女は借りたタオルを膝の上で握ったまま、小さく背筋を伸ばした。さっきまで壇上にいた時みたいな、きちんとした姿勢だった。

「警察沙汰?」

 その問いに、彼女の指先がきゅっと白くなる。

「……では、ないです」

「家出?」

 少し間があった。

「たぶん、そう見えると思います」

「ふうん」

 おばさんは、それ以上すぐには聞かなかった。台所の脇から丸椅子をひとつ引いて、自分も座る。座ってから、俺たち三人をひとりずつ見た。

「追われてるのは見りゃ分かる。けど、刃物持ってるだの、警察が今夜中にここ来るだの、そういう種類の厄介ごとかどうかだけは知っときたいんだよ」

 彼女は、首を横に振った。

「そういうのじゃ、ないです」

「なら今夜はいい」

 言い切る声だった。

「今夜は、って」

 春樹が口を挟むと、お母さんは視線だけであしらう。

「今夜は今夜。明日のことは明日考える。店ってのはね、考えすぎると何も回らないんだよ」

 それから彼女に向き直る。

「あんたは今、腹が減ってるか、喉が渇いてるか、眠いか。その三つのうちどれかだろ。事情を話すのは、身体が少し戻ってからでいい」

 彼女は一度、目を伏せた。たぶん泣きそうになったのだと思う。でも泣かなかった。ただ、握っていたタオルの端が少しだけ歪んだ。

「……ありがとうございます」

「礼は寝てからでいいよ」

 お母さんは立ち上がった。

「透子、二階。押し入れの前の荷物どかしな。布団出すから」

「もう出せる」

「そう。あんたは偉いね」

 透子は何も言わず、眼鏡を指で押し上げてから立った。その仕草がいかにも癖っぽくて、俺は少しだけ目で追ってしまった。

「そっちのお兄さんたち」

 お母さんが俺たちを見る。

「腹減ってるなら、台所にある煮物勝手につままない。ちゃんと皿出すから」

「食っていいんですか」

「勝手につままれんのが嫌なだけ。食うのはいい」

 春樹が、そこで初めて少しちゃんと笑った。

「いい人じゃん」

「うるさい。あんたはまず靴揃えな」

 春樹が玄関の方を振り向く。脱ぎっぱなしのスニーカーが、確かに少し斜めになっていた。

「細かいなあ」

「細かいんじゃないの。店だから見えるんだよ」

 透子はもう階段のところにいた。振り返りもせずに言う。

「春樹さん、足で直すのやめて」

「やってないって」

「今やろうとした」

「こわ」

 そのやり取りが妙に自然で、少し救われた。たぶん春樹もそうだったと思う。俺たちは、ようやく座る場所をもらった感じで、ぎこちなくちゃぶ台の周りへ収まった。

 彼女だけが、まだ少し体を強くして座っていた。

 おばあさんが、台所で火をつける。鍋に何かを戻す音。冷蔵庫の開閉。味噌の匂いと、洗剤の匂いと、熱の残った布の匂いが、狭い空間の中で混ざる。外の華やかな光とは別の、食べ物と生活の匂いだった。

 彼女はその匂いに、少しだけ目を上げた。

 その顔が、壇上にいた時よりずっと年相応に見えた。

「名前」

 春樹が、思い出したみたいに言った。

 彼女がそちらを見る。

「さすがに、呼び方ないと不便じゃん」

「春樹」

 俺が止めると、春樹は肩をすくめた。

「いや、聞き方が雑なのは分かってるけどさ。ほら、こっちも名乗ってないし」

 それは確かにそうだった。逃げるだの走るだのの勢いで、ここまで来てしまっただけで、まともな自己紹介なんて誰ひとりしていない。

 透子が二階から戻ってくる。

「私は透子」

 ぶっきらぼうなくらい簡単に言って、そのまま居間へ降りてくる。

「眼鏡の人でいいなら、それでも」

「透子でいいよ」

 春樹が言う。

「俺、春樹」

 それから俺を見る。仕方なく、自分の名前も続けた。

 彼女は小さくうなずいた。俺と春樹の名前を、それぞれ一度だけ心の中で並べるみたいな間があった。

「……私は」

 そこまで言って、少し止まる。

 止まったまま、視線が卓の木目に落ちる。

「今は、名前じゃなくていいです」

 春樹が何か言いそうになって、やめた。俺も何も言わない。

 代わりに透子が言った。

「じゃあ、そのままでいい」

 あっさりしすぎるくらいの言い方だった。けれど彼女は、それに少しだけ助けられたように見えた。

 おばさんが、盆を持って戻ってくる。

 麦茶、冷やしたトマト、煮物、小さく切った卵焼き。豪華じゃない。けれど急ごしらえの感じがしない。

「食べられるだけ食べな。残してもいいから」

 そう言って、彼女の前にだけ少し小さめの茶碗を置いた。


 食事の時、彼女は最初の一口を口に入れるまでに少し時間がかかった。けれど、食べ始めると、思っていたよりちゃんと食べた。無理にでも飲み込んでいる感じではなく、本当に腹が減っていたらしい。

 俺も急に空腹を思い出した。煮物は少し甘くて、味が濃い。汗をかいた身体にちょうどよかった。

 春樹は二口目くらいで「あ、これうま」と言って、すぐに「食べる時は静かに」と透子に言われていた。

「母さんの煮物、味が濃いから」

「いいじゃん、走った後なんだし」

「だからって声でかい」

「怒られてばっかだな、俺」

「今のところ、そうだね」

 透子はそう言って、トマトの皿を少し彼女の方へ寄せた。彼女は一瞬それに気づかなかったが、二秒くらい遅れて「……ありがとう」と小さく言った。

 透子は頷きもしなかった。自分の麦茶を飲むだけだった。


 食べ終わる頃には、外の祭りの音はもっと遠くなっていた。ガラス戸の鈴が二度鳴ったが、そのたびお母さんがいつもの顔で店先に出て、何事もなく戻ってきた。常連の受け取りだの、明日の引き渡しだの、そういう短いやり取りだけで済んでいるらしかった。

 そのたびに彼女の肩は少しだけこわばったが、お母さんが何も言わずに「大丈夫」と手で示すと、少し遅れて力が抜ける。

 店を閉める頃には、洗濯機の振動も止んでいた。

 シャッターを半分下ろしたあと、透子が裏口の鍵を確かめに行く。

 春樹が「手伝う」と言って立ち上がり、すぐに「そこ、足ひっかける」と透子に言われていた。洗濯籠の陰で本当に危うく躓きかけて、「見てた?」と小声で聞き返していた。

 俺はその間、居間の隅に積まれた洗いたてのタオルをなんとなく眺めていた。白くて、まだ少し熱が残っていそうな厚みだった。

「手伝うなら、それ運んどくれ」

 おばさんが、俺に言う。

「二階。押し入れの前に置いといて」

 言われた通りに抱えると、思ったより重かった。腕に柔軟剤と熱の匂いが移る。階段は急で、足元の木が少し鳴った。

 二階の和室は六畳くらいだった。古いタンス。押し入れ。小さな窓。畳には日に焼けた色の差が残っている。透子が先に片していたらしく、部屋の真ん中には布団が二組、少し離して敷かれていた。

 窓のところに、彼女が立っていた。

 振り返った時、もうワンピースではなかった。透子のものらしい、くすんだ色のTシャツに、薄いジャージのズボン。首元が少し大きくて、肩の線が余計に細く見える。

「ごめん」

 思わず言うと、彼女は首を振った。

「いえ」

 その返事の方が、まだイベントの時の声に近かった。

 タオルを押し入れの前へ置く。何か言った方がいい気もしたが、何を言えばいいのか分からない。

 彼女の方から先に口を開いた。

「さっきは、ごめんなさい」

「え」

「急に、知らない人にあんなこと頼んで」

「いや……」

 違う、と言いかけてやめた。違うわけでもなかった。

 本当に急だったし、俺だってまだ何が起きているのか半分くらいしか分かっていない。

「でも」

 彼女は窓の外を見たまま言う。

「あなた、ちゃんと来てくれたから」

 言葉がそこで途切れる。


 小さな窓の向こうには、商店街の屋根と、その向こうの暗い空が少しだけ見えた。祭りの灯りはもう届かない。代わりに、どこか遠くでバイクの音が一度、短く上がって消えた。

「春樹が急かしたからだよ」

 そう言うと、彼女は少しだけ笑った。

 本当に少しだけだった。唇の端が一瞬動いて、すぐ元に戻る。でも、壇上で見た笑い方とは全然違った。

「でも、来るかどうか決めたのは、あなたでしょう」

 返す言葉が見つからない。

 階下で透子の声がした。

「布団、上だけで足りる?」

「足りなきゃ下の毛布持ってくる」

 おばさんの声も返る。広い家ではないのに、こうして上と下で呼び合うだけで、ちゃんと暮らしの音になるんだと思った。

 彼女は窓辺に立ったまま、小さく息を吐いた。

「変ですよね」

「何が」

「こんなところにいるの」

 そう言って、自分の着ているTシャツの裾を少しだけ指でつまむ。


 変、と言われれば変なのかもしれなかった。映画イベントの壇上にいた子が、古いクリーニング店の二階で、借り物のTシャツを着て立っている。そこだけ切り取れば、たしかに現実感が薄い。

 でも、いま目の前にあるのは、柔らかくなった畳と、小さい窓と、言いすぎていない夜の匂いで、そっちの方がよっぽど本当っぽかった。

「今の方が、ちゃんとして見える」

 口にしてから、少し変なことを言ったと思った。

 彼女はきょとんとして、それからほんの少しだけ首を傾ける。

「それ、褒めてますか」

「たぶん」

「たぶんなんだ」

 今度の笑い方は、さっきよりもう少しだけ自然だった。


 階段を駆け上がってくる足音がして、春樹が襖の隙間から顔を出した。

「お、いた」

 俺と彼女を交互に見て、にやにやするほどでもない顔になる。

「母ちゃんが、風呂は今日は順番にしろって。あと、お前ら明日からどうするかは朝決めるってさ」

「母ちゃんってお前のじゃないだろ」

「もうだいぶ人んち感ないじゃん」

「ないのはお前だけだよ」

 春樹は笑って、襖をもう少し開けた。

「とりあえず今夜はここでセーフ。よかったな」

 彼女はその言葉に、返事の代わりに小さくうなずいた。


 風呂は狭かった。洗面所の鏡の端が少し欠けていて、天井の換気扇の音が大きい。なのに湯船に浸かると、ようやく足の裏から緊張が抜けていくのが分かった。

 出たあと、居間の扇風機の前に座ると、もう眠かった。

 透子は伝票の整理をしていた。眼鏡のレンズに蛍光灯が映って、時々まばたきのたびに白く切れる。

「眠そう」

 と、透子が言う。

「……そう見える?」

「見える」

「透子さんも」

「私はいつもこれくらい」

 それが本当なのかどうか分からなかったが、言い方が少し面白くて、俺は小さく笑った。

 春樹は透子の母に借りたらしいバスタオルを首にかけて、ちゃぶ台の横で大の字に近い格好になっている。

「俺、下で寝てもいい?」

「だめ。男の子は下」

「いいじゃん、広いし」

「店に誰か来た時うるさいから」

「容赦ねえな」

「知ってる」

 透子と春樹の会話が、もう半分くらい形になっていて、そのことに少し驚いた。春樹はどこでもすぐ入っていくくせに、ちゃんと嫌われないぎりぎりを歩くのがうまい。


 彼女は風呂から上がったあと、一度も鏡を見た形跡がなかった。濡れた髪を透子に借りたタオルで拭きながら、居間の隅に静かに座っている。その顔は疲れていたけれど、壇上の時みたいに硬くはなかった。

 透子のお母さんが、麦茶を置く。

「寝るならもう寝な。夜更かししてもいいことないよ」

 それから彼女を見て、少しだけ声をやわらかくした。

「ここじゃ、誰も急かさないから」

 彼女は、その言葉に答えなかった。答えなかったけれど、ほんの少しだけ目を閉じた。


 その夜、二階の和室で布団に入ってからも、すぐには眠れなかった。

 畳の匂い。隣の布団から聞こえる、ごく浅い寝返りの音。窓の外を通るバイク。遠くで鳴く虫。洗った服に残った熱が、建物全体にまだ少しだけこもっている。

 暗がりの中で目を開けたまま、昼間のことを思い返す。トイレの男。壇上の彼女。春樹の背中。赤い幟。服の列の奥の明かり。

 友達は大事にするように。

 あの言葉が、遅れて頭の中に戻ってくる。

 薄暗い天井を見たまま、隣の気配に意識が向く。眠っているのかどうか分からないくらい静かだった。

「……起きてる?」

 小さく聞くと、少しだけ間があってから、同じくらい小さい声が返ってきた。

「起きてます」

「寝れない?」

「少し」

 俺も、と言いかけてやめた。そう言うほど正直でもない気がした。

「明日、どうなるんだろうな」

 独り言みたいに言うと、隣で布団がわずかに鳴る。

「分かりません」

 その言い方には、不思議と投げやりな感じがなかった。本当に分からないから、分からないと言っているだけだった。

「でも」

 彼女が続ける。

「さっき、窓から見えたんです」

「何が」

「商店街の屋根」

 それだけ言って、少し笑った気配がした。

「変ですよね。そんなの、どこにでもあるのに」

 俺は暗がりの天井を見たまま、答えを探した。

「どこにでもあるから、いいんじゃない」

 今度は、少し長めの沈黙があった。

「……そうかもしれない」

 それきり、会話は途切れた。


 気づけば布団をかぶって眠っていて、店先の鈴で目が覚めた。

 六畳の和室に、夏の朝の光が薄く差している。畳の目が白く見える。階下から話し声がしていた。おばさんの通る声と、透子の少し低い返事。洗濯機が回る音。シャッターを半分上げる金属音。


 一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。

 隣の布団は、もう空いている。

 慌てて起き上がって階段を降りると、居間には誰もいなかった。店先に顔を出しかけたところで、透子に腕を軽く引かれる。

「だめ。見える」

「ごめん」

「まだ開店前だけど、人いるから」

 透子は眼鏡の奥から店先を見たまま言う。

「昼はあまり出ない方がいい」

「あの子は?」

 透子が、顎で二階を指す。

「母さんといる。あと、あの人」

「あの人?」

「その子」

 言い直し方が少し雑で、俺はなんとなく分かった。

「まだ寝てるかと思った」

「起きてた。起きるの早い」

 その言い方に、ほんの少しだけ感心みたいなものが混じっていた。


 台所から、透子のお母さんの声が飛ぶ。

「起きたなら顔洗ってきな! 朝ごはん冷めるよ!」

 その明るさに、建物全体が朝になる。

 洗面所で顔を洗って戻ると、ちゃぶ台に焼き魚と味噌汁と卵焼きが並んでいた。

 彼女はもう居間にいた。髪を軽く結び直していて、昨日より少しだけ普通の女の子に見える。見える、というのも変だけれど、そうとしか言えなかった。

 ただ、窓の方に背中を向けて座っている。店先から見えにくい位置を、自然に選んでいるらしい。

「おはよう」

 と、言ってみる。

 彼女は少しだけ驚いた顔をして、それから小さく返した。

「……おはようございます」

 そのあとに透子のお母さんが味噌汁を置きながら、何でもない声で言った。

「今日は昼のうちは上でおとなしくしときな。夕方になったら、買い出しついでに外に出な」

 味噌汁の湯気が上がる。

 彼女が顔を上げる。俺も春樹も、ほとんど同時に透子とお母さんの方を見た。

「いいの?」

 春樹が先に聞いた。

「ずっと閉じ込めといても、余計煮詰まるだけだろう」

 お母さんは平然と焼き魚をほぐす。

「ただし帽子。何かあったらすぐ戻る。分かった?」

 最後の問いは、彼女に向けられていた。

 彼女は、ほんの一拍遅れてうなずく。

「……はい」

 その返事はまだ小さかった。けれど、昨日の夜より少しだけ、声が自分のものになっている気がした。


 ちゃぶ台の向こうで、春樹が俺にだけ分かるくらい小さく口の端を上げる。

 俺は味噌汁の湯気越しに、窓際に置かれた帽子を見た。


 八月の朝の光が、古いガラスを通って、少しだけやわらかくなっていた。

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