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ガラスの向こうの夏

 八月初めの夕方だった。


 まだ日が落ちきっていないのに、舗装の熱は足裏からじわじわ上がってきた。会場へ続く歩道は人で詰まっていて、前へ進くだけで汗がにじむ。

 ガラス張りのホールの前には映画イベントの大きな看板が並び、その横を黒い服のスタッフが無線を口元に寄せたまま行き交っていた。照明機材の白い光がまだ本番前なのに外へ漏れて、そこだけ少し違う街みたいに見える。


 そのすぐ隣では、イチゴの祭典が開かれていた。


 白いテント。赤い幟。パックに詰められた果実の艶。

 削りイチゴの機械が回る音に混じって、子どもの高い笑い声が上がる。風向きが変わるたび、甘い匂いがこちらへ流れてきて、ホール前に漂う香水や機材の熱っぽさと、うまく混ざらずにぶつかっていた。

「思ったよりすごいな」

 隣で春樹が言った。

 片手でバイクの鍵をくるくる回しながら、入口の上の看板を見上げている。

 大学に入ってから知り合ったばかりの友達だった。講義が何度か重なって、学食で昼を二、三回一緒に食べた。それだけなのに、今日はここまで一緒に来ていた。

「俳優目当て、多そうだな。こういうの、作品より人を見に来るやつもいるし」

「そうなんだ」

「薄いなあ、お前」

 春樹が笑う。

「初めてなら、もっと『おお』とか『すげえ』とか言えよ」

「思ってるけど、口に出ないだけ」

「損してるぞ、それ」

 言い方は軽いが、責める感じではなかった。そういう距離感が、まだ少し不思議だった。


 大学に入ってからの人間関係は、どこか借り物みたいだった。笑っていても、どこまで踏み込んでいいのか分からない。

 春樹とも、たぶんまだその途中にいる。だから今日こうして並んで歩いていること自体、少しだけ現実感が薄かった。


 列が進み、俺たちもホールへ入った。

 中は冷えていた。首の後ろに貼りついていた汗がすっと引く。ロビーの奥ではパーティションの向こうを誰かの影が慌ただしく横切り、見えないところでいろんなものが動いているのが分かった。

 客席に入ると、前方に低いステージが組まれていた。中央に細いスタンドマイク。背後のスクリーンには映画のビジュアル。並べられた椅子の上だけ、やけに明るい。

 映画館の暗さとは違って、まだ全部見えている。これから誰がそこに座るのか、客席のざわめきが先に待っている感じだった。

「始まるまで少しあるな」

 春樹がパンフレットを膝の上に置いて言った。

 俺は喉の渇きを覚えて、「ちょっとトイレ」とだけ言って席を立った。


 ロビーは静かだった。客席のざわめきが扉一枚ぶん遠い。トイレの中は白い照明が均一に明るくて、蛇口の下で跳ねる水だけがやけに冷たかった。

 顔を上げると、鏡の中に男がひとり増えていた。

 仕立てのいいジャケット。皺のない襟元。四十代か、もう少し上かもしれない。関係者だと言われたら、そのまま納得してしまいそうな雰囲気だった。

 男は手を洗いながら、鏡越しにこちらを見た。

「友達は大事にするように」

 水音だけが、少し遅れて止まった。

「……は?」

 声にした時には、男はもうハンカチを広げていた。そのまま手を拭き、何でもない顔で出口へ向かう。

 呼び止めるには、言葉が短すぎた。

 鏡の中に、自分だけが間の抜けた顔で残っている。

 意味が分からなかった。誰かと間違えたようでもなかったし、冗談にしては声色がまっすぐすぎた。


 ロビーへ戻ると、客席の扉の隙間から照明が少し落ちるのが見えた。

 ぎりぎりで席に滑り込むと、春樹が肩だけで笑った。

「なんだよ」

「いや、間に合ったなと思って」

 すぐに司会が、ステージへ出てきて、場内の拍手がひとつに揃った。

 挨拶のあと、出演者たちが順番に呼び込まれていく。


 人気のある俳優が姿を見せた瞬間、客席の空気が一段明るくなった。拍手の粒が細かくなる。女優はヒールの音まで綺麗で、座る前の一瞬の動きまで、ちゃんと見られる側のものだった。

 その中に、ひとりだけ、少し輪郭の薄い子がいた。

 淡い色のワンピース。細い肩。映画で高校生役をやった新人だと、春樹が来る前に言っていた気がする。

 司会に話を振られると、その子はきちんと笑った。声も小さすぎず、受け答えも素直で、変な引っかかりはどこにもない。なのに、見ているうちに、何かだけがうまく噛み合っていない気がした。

 笑うたびに、口元より先に目を見てしまう。光を受けているのに、目だけが少し遠かった。

 トークは軽く弾んだ。撮影中の話。共演者の癖。司会の振りに客席が何度も笑う。春樹も途中からちゃんと楽しそうだった。


 俺は何度か、その子の方を見た。

 自分の番じゃない時、彼女は膝の上で手を重ねていた。指先まで整っていた。整いすぎていて、そこにだけ別の緊張が残って見えた。

 イベントが終わると、場内の人間が一斉に立ち上がった。椅子の脚が擦れる音。出口へ流れる背中。香水と汗とざわめき。

「俺、パンフ見てくる」

 春樹が、言った。

「先、外いる?」

「いや、適当にそのへん」

「了解」

 それだけ言って、人の流れに混ざっていく。


 俺は少し息苦しくなって、ロビー脇の人気の少ない通路へ出た。

 ガラスの向こうに、まだイチゴ祭典の灯りが見えている。赤い幟の下を、紙カップを持った親子が横切っていく。ホールの白い光は硬くて、外の灯りは少し滲んでいた。

「……すみません」

「え?」

 振り返る。

 さっき壇上にいた子が、そこに立っていた。

 近くで見ると、思っていたより幼い。照明の下より顔色が薄くて、ワンピースの生地だけがやけに柔らかそうだった。

 彼女は一度だけ通路の奥を見た。それから、声を落とした。

「逃げるのを、手伝ってほしいんです」

 言われた意味が、すぐには頭に入らなかった。

「逃げるって……」

「ここから、出たいんです」

 彼女の声は小さいのに、不思議なくらい揺れていなかった。むしろ揺れていないことの方が切迫していた。

 何か言わなきゃいけない気がした。けれど、何を言えばいいのか分からない。

「俺、そういうの――」

「なに、揉めてる?」


 横から春樹の声がした。

 いつの間にか戻ってきていて、俺と彼女を交互に見る。パンフレットを丸めたまま、状況を飲み込むのに一秒もかからなかったみたいだった。

「ここから出たいんだって」

 俺がそう言うと、春樹は一瞬だけ眉を上げた。それから彼女を見る。俺を見る。もう一度彼女を見る。

「……あー」

 息をひとつ吐いて、少しだけ笑う。

「そういうやつか」

「春樹」

「いいよ、分かった。お前、そういう時に一番だめな顔するもんな」

「どんな顔だよ」

「断りきれない顔」

 春樹がそう言ったちょうどその時、通路の向こう、人の流れの隙間から、眼鏡の女の子がこちらを見ていた。


 人の波の向こうに、眼鏡の女の子が立っていた。

 地味なTシャツ。細い黒縁。肩で切った黒髪を後ろで束ねている。祭りのざわめきの中なのに、その子のいる場所だけ妙に輪郭が静かだった。

「そのままだと見つかるよ」

「え?」

 その子は俺を見なかった。少女だけを見ていた。

「表はだめ。イチゴの方を抜けて。旧商店街の裏。青いテントを曲がって二軒目。裏口があるから」

 言い終わると、すぐに人影の奥へ引く。

 春樹が、鍵を抜いた。

「お前は走れ」

「は?」

「俺が先にこの子連れて出る。お前はイチゴの方。旧商店街。青いテントの先、裏路地で合流」

「待っ――」

「待たねえ」

 春樹は、もう彼女の手首を軽く引いて、駐輪場の方へ向かっていた。

「来なかったら、お前の好きな人、同じ学部じゅうにばらすからな」

「誰が好きだって」

「今はそこじゃねえだろ」

 彼女が一度だけ振り返った。何かを確かめるみたいな目だった。俺はとっさにうなずいていた。


 駐輪場の端に停めてあった黒いバイクの車体が、街灯を鈍く返す。春樹がヘルメットを彼女に押しつける。戸惑う彼女の肩越しに、祭りの赤い幟が揺れていた。

 セルの回る音。低い振動。腹の底に響くエンジン。

 彼女が後ろにまたがる。春樹が半身だけこちらへ向けた。

「急げ。今だけはちゃんと来い」

 バイクが跳ねるように出た。タイヤが白線を切って、外の灯りへ滑り込む。イチゴ祭典のざわめきの向こうへ、赤と白の光を裂くみたいに走っていく。

 一拍遅れて、俺も走った。

 ガラス扉を抜ける。甘い匂い。呼び込みの声。紙皿を持った人の肩。赤い幟。笑い声。削りイチゴの機械音。その全部の隙間を、ぶつからないぎりぎりで抜ける。

「すみません」

「ごめん、通して」

 誰かの腕に触れ、誰かの買い物袋が揺れる。俺の横を小さな子どもが駆け抜ける。祭りの明かりが視界の端で流れていった。

 青いテント。

 旧商店街。

 細い路地。

 息が上がる。けれど足は止まらない。

 路地の奥で、さっきの眼鏡の女の子がこちらを見ていた。

「遅い」

 それだけ言って背を向ける。

 俺は何も返せないまま、そのあとを追った。

 古い建物の脇に回ると、すりガラスの引き戸があった。彼女がそれを開ける。

 洗剤と熱の匂いがぶわっと来た。

 中は薄暗く、両側にビニールを被った服がぎっしり吊られていた。ワイシャツ、スーツ、制服、ワンピース。

 細い通路を人ひとりぶんの隙間だけ残して、服の列が奥まで続いている。肩にビニールが触れるたび、さらさらと小さな音がした。

「こっち」

 眼鏡の女の子がハンガーの列を指で押し分ける。

 通路の先に小さな明かりが見えた。そこへ抜けると、作業台と洗濯籠の向こう、居間らしい空間に春樹と彼女がいた。

 バイクで飛ばしたせいか、春樹の前髪が少し乱れている。彼女は借りたらしいタオルを膝の上で握っていた。

 そして、その奥にもうひとりいた。

 オレンジ色のTシャツに白いエプロン。髪を後ろでざっくりまとめた女の人だった。眼鏡の子の母親らしい。その人は俺の顔を見るなり、驚くより先に言った。

「走ってきた顔してるねえ。ほら、まず座りな」

 声が大きいのに、不思議と安心する響きだった。

「透子、水」

「もう出してる」

 眼鏡の子――透子が麦茶の入ったグラスを卓の上に置く。

 女の人は、彼女に視線を戻した。

「事情はあとでいい。顔色悪い子に先に喋らせても、ろくなことにならないからね」

 それから、俺と春樹を見た。

「そっちの二人も。立ったままでそわそわしない」

 その言い方が、妙に正しかった。

 彼女は、ようやく少しだけ肩の力を抜いたように見えた。けれど、膝の上の指先はまだ白かった。


 春樹が俺を見て、小さく肩をすくめる。

 俺は息を整えながら、狭い居間を見回した。ちゃぶ台。古いテレビ。回りっぱなしの扇風機。隅に積まれたタオル。開け放したままの台所。外の祭りの音はもう遠く、代わりに洗濯機の低い駆動音だけが建物の奥で鳴っている。

 ここだけ、世界の裏側みたいだった。

「……名前、聞いてもいい?」

 俺がそう言うと、彼女は一瞬だけ顔を上げた。

 答えはすぐには返ってこなかった。

 代わりに、店先の方でガラス戸の鈴が小さく鳴った。

 全員の動きが、ほんの少しだけ止まる。

 透子の母は眉ひとつ動かさず、俺たちに向かって静かに言った。

「大丈夫。今はまだ、うちの客だよ」

 その言葉の意味を考える間もなく、表で誰かの足音が通り過ぎた。

 彼女は膝の上のタオルを、少しだけ強く握った。

 八月は、まだ始まったばかりだった。

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