怜花に宿る記憶
白い陽が差し込む午前の怜花宮。茗渓は一人、苔むす石畳を踏みしめながら、宮の奥へと進んでいた。春の気配が静かに庭を包み、竹林の梢が風にそよぐ音が心地よい。
「……あれ、こんなところに部屋が?」
迷い込むように辿り着いたのは、半ば朽ちかけた小さな離れだった。長く人の気配が絶えていたのだろう。障子は薄く色褪せ、木の扉には苔がこびりついている。けれど、不思議とそこだけ空気が違った。まるで――誰かが、そこに今もいるような。
「……ごめんください?」
茗渓はそっと扉を開けた。軋む音の先、微かな香が鼻をかすめる。梅か、桃か――どこか懐かしく、優しい香り。
「……あ」
部屋の隅に、鏡台があった。漆塗りの台に、割れかけた鏡。そしてその前に、布で包まれた小箱。何気なく開けると、中には精緻な刺繍の施された手巾と、ひとつの短冊。
――「此処に咲く花は、誰にも摘まれずとも、なお凛として香り立つものなり」
筆跡は繊細で、けれどどこか芯の強さを感じさせた。
「……誰の……?」
そのときだった。背後からふわりと気配がして、振り返ると、窓際に一匹の黒猫が佇んでいた。怜綾だった。だが、いつもと違う。視線がまっすぐ茗渓に向けられていて――何かを伝えたがっているようだった。
「……ここ、好きだよね。怜綾」
茗渓が問いかけると、怜綾は音もなく歩き出し、鏡台の前にちょこんと座った。まるで――誰かを想っているかのように。
*
その夜。満月の光が庭を照らす中、怜綾は人の姿を取り戻していた。茗渓は庭先に腰を下ろし、黙って彼の隣に座る。
「……今日、母上の部屋を見つけた」
怜綾の声は、月光よりも静かだった。
「母上は、かつてこの怜花宮で暮らしていた。冷宮と呼ばれ、誰もが忌み嫌ったこの場所を……母上は、ずっと“怜花”と呼んでいたよ」
「怜花……」
「“哀れ”の『怜』に、“花”の字を添えて。誰にも知られず、愛されず、それでもここに咲く花であれと。母上は、そう書き残していた」
茗渓は、昼に見た短冊の言葉を思い出した。
「母上は、強い人だった。誰にも負けない心の花を、この場所で咲かせた。でも、誰にも見向きされずに……終わった」
怜綾の横顔は、どこか幼く、そして酷く遠い。心のどこかが、きゅうと締めつけられた。
「母上が去ったあと、誰もこの場所に近づかなかった。俺だけが……忘れたくなかった。忘れちゃいけないと思った。だから、今でも……」
「……だから、あの部屋の近くにいつもいるんだね」
茗渓の言葉に、怜綾は一度だけ、静かに頷いた。
「俺は――母上が大切にしていたこの"花"を守りたかった。だけど、あのときは……何もできなかった」
夜の風が、庭をなでてゆく。竹の葉がさわさわと鳴り、誰かの記憶が揺れる音のように聞こえた。
「怜綾……」
「……だから、君がこの場所に来てくれて、嬉しかった。俺一人じゃ、もう守り切れなかったから」
その言葉に、茗渓はふっと笑った。
「じゃあ、私も一緒に咲かせてみようかな。怜花宮に、新しい花を」
「……新しい花?」
「うん。咲いたら、怜綾に一番に見せてあげる。だから――これからも、ちゃんと見ててね」
怜綾の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「……ああ。屋根の上から、ちゃんと見てる」
「猫に戻る気だな、それ!」
笑い合うふたりの間に、夜が優しく降りてきた。
そう、ここはただの冷宮なんかじゃない。
忘れられた愛が咲いていた場所。
そして、これから新しい花が――
また、咲こうとしている場所なのだから。




