表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/50

怜花に宿る記憶

白い陽が差し込む午前の怜花宮。茗渓は一人、苔むす石畳を踏みしめながら、宮の奥へと進んでいた。春の気配が静かに庭を包み、竹林の梢が風にそよぐ音が心地よい。


「……あれ、こんなところに部屋が?」


迷い込むように辿り着いたのは、半ば朽ちかけた小さな離れだった。長く人の気配が絶えていたのだろう。障子は薄く色褪せ、木の扉には苔がこびりついている。けれど、不思議とそこだけ空気が違った。まるで――誰かが、そこに今もいるような。


「……ごめんください?」


茗渓はそっと扉を開けた。軋む音の先、微かな香が鼻をかすめる。梅か、桃か――どこか懐かしく、優しい香り。


「……あ」


部屋の隅に、鏡台があった。漆塗りの台に、割れかけた鏡。そしてその前に、布で包まれた小箱。何気なく開けると、中には精緻な刺繍の施された手巾と、ひとつの短冊。


 ――「此処に咲く花は、誰にも摘まれずとも、なお凛として香り立つものなり」


筆跡は繊細で、けれどどこか芯の強さを感じさせた。


「……誰の……?」


そのときだった。背後からふわりと気配がして、振り返ると、窓際に一匹の黒猫が佇んでいた。怜綾だった。だが、いつもと違う。視線がまっすぐ茗渓に向けられていて――何かを伝えたがっているようだった。


「……ここ、好きだよね。怜綾」


茗渓が問いかけると、怜綾は音もなく歩き出し、鏡台の前にちょこんと座った。まるで――誰かを想っているかのように。



その夜。満月の光が庭を照らす中、怜綾は人の姿を取り戻していた。茗渓は庭先に腰を下ろし、黙って彼の隣に座る。


「……今日、母上の部屋を見つけた」


怜綾の声は、月光よりも静かだった。


「母上は、かつてこの怜花宮で暮らしていた。冷宮と呼ばれ、誰もが忌み嫌ったこの場所を……母上は、ずっと“怜花”と呼んでいたよ」


「怜花……」


「“哀れ”の『怜』に、“花”の字を添えて。誰にも知られず、愛されず、それでもここに咲く花であれと。母上は、そう書き残していた」


茗渓は、昼に見た短冊の言葉を思い出した。


「母上は、強い人だった。誰にも負けない心の花を、この場所で咲かせた。でも、誰にも見向きされずに……終わった」


怜綾の横顔は、どこか幼く、そして酷く遠い。心のどこかが、きゅうと締めつけられた。


「母上が去ったあと、誰もこの場所に近づかなかった。俺だけが……忘れたくなかった。忘れちゃいけないと思った。だから、今でも……」


「……だから、あの部屋の近くにいつもいるんだね」


茗渓の言葉に、怜綾は一度だけ、静かに頷いた。


「俺は――母上が大切にしていたこの"花"を守りたかった。だけど、あのときは……何もできなかった」


夜の風が、庭をなでてゆく。竹の葉がさわさわと鳴り、誰かの記憶が揺れる音のように聞こえた。


「怜綾……」


「……だから、君がこの場所に来てくれて、嬉しかった。俺一人じゃ、もう守り切れなかったから」


その言葉に、茗渓はふっと笑った。


「じゃあ、私も一緒に咲かせてみようかな。怜花宮に、新しい花を」


「……新しい花?」


「うん。咲いたら、怜綾に一番に見せてあげる。だから――これからも、ちゃんと見ててね」


怜綾の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「……ああ。屋根の上から、ちゃんと見てる」

「猫に戻る気だな、それ!」


笑い合うふたりの間に、夜が優しく降りてきた。

そう、ここはただの冷宮なんかじゃない。

忘れられた愛が咲いていた場所。

そして、これから新しい花が――

また、咲こうとしている場所なのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ