偽りの噂、真実の心
怜花宮の裏門を抜け、茗渓は今日も市場へと足を運んでいた。
日差しの強い午後、果物の匂いや土埃が舞う通りを歩いていると、ふと前方から聞き覚えのある声がした。
「……やあ、また会ったね。妙な縁だ」
その声に、振り返る。
振り向けば、あの男――飄々とした笑みを浮かべる、金の飾りを髪に挿した旅人風の男が、屋台の柱に背をもたれ掛けていた。
「……あっ、あなたはあの時の!」
茗渓は一瞬、ぴたりと足を止めた。
人混みの先に、あの軽やかでどこか胡散臭い男が立っていた。風に揺れる黒い衣に金の飾り、うっすらと笑う目元はどこか人を食ったような雰囲気をしている。
「また会ったね。奇遇だねえ、まさか冷宮の妃と、こんな市場で再会するなんて」
「えっ……どうして私が妃だって……」
「噂でね。君のこと、宮中では有名なんだ。名は茗渓だったか」
「……はあ、まーそうですけど。え、私ってそんな有名?」
「うん、有名。『悪妃』って呼ばれてる」
茗渓は一瞬きょとんとしたが、すぐに苦笑いした。
「へー……悪妃ね。どんなことになってんの、私」
「皇帝に楯突いた、毒を盛ろうとした、侍女を殴った……色々あるみたいだよ?」
「なによそれ! ぜんっぜん身に覚えないんだけど!」
ぷりぷり怒る茗渓に、男はくすくすと笑った。
「まあ、噂なんてそんなもんさ。人の口に戸は立てられない。けど――君は確かに、他の妃たちとは違うね」
「違うって?」
「冷宮にいながら、町に来て苗を買い、干物を担ぎ、野菜の種まで詰め込んで……そんな妃、見たことないよ」
「それ、褒めてる? けなしてる?」
「どっちも。でも、面白い。君をもっと見てみたくなった」
「……何よそれ。ナンパ?」
「さて、どうかな?」
とぼけるように笑った男に、茗渓はじっと目を細めた。
「あなた、なんだか妙に話し方が偉そうっていうか……」
「ん? 僕が?」
「うん。普通の町人じゃないでしょ。どこかの大商人とか? それとも――ちょっとお偉い身分の人?」
男は一瞬黙り込み、目元を細めて微笑んだ。
「そんなに鋭いと、男に警戒されるよ」
「褒められてる?」
「もちろん。……ま、立場上あまり自由には動けないけどね。今はちょっと抜け出してきただけ。言わば、牢の外の空気を吸いに来たって感じかな」
「牢って、宮中のこと?」
「そうとも言う」
「ふぅん……」
茗渓はじっと彼の顔を見つめた。けれどそこに見えるのは、どこか自由を夢見る、風のような男の姿。
「まあいいや。とにかく私はこれで帰るわ。冷宮の猫ちゃんが待ってるから」
「猫?」
「そう。私の同居人よ。黒猫で、ちょっと気難しくて……でも可愛いの」
「……妃と猫。なんだか不思議な取り合わせだね」
「変? でも、案外いい感じよ」
そう言って茗渓は軽く手を振った。
「それじゃあ、またいつか。あなたもあんまり怪しいことしてたら、牢屋行きよー!」
「……はは、君に言われるとは」
男――怜張はその背中を見送りながら、つぶやいた。
(兄上の妃……噂の“悪妃”が、こんな娘だったとはな)
興味本位だったはずの出会いが、いつの間にか、心の奥に少しずつ影を落としていた。
夕方の陽が傾き、怜花宮の庭に涼しい風が吹き抜ける。
茗渓は縁側に腰を下ろし、隣で丸くなっている黒猫に目を細める。
「ふふ、怜綾くん、今日も可愛いわねぇ〜」
その声に、怜綾の耳がピクリと反応した。だが顔はそっぽを向いたまま。
その尻尾がゆらりと揺れる。
(……また始まった)
「お目々がつやつやしてて、毛並みもつるっつる。も〜〜っ、ほんっと癒されるわ〜!」
茗渓はたまらず、すり寄ってきて頬を怜綾の背中に押し当てた。
黒猫の体がピクンと跳ねる。
(やめろ。近い。暑苦しい)
「もふもふ……っ、柔らか〜〜い……! こんな高級毛皮、見たことないよ〜〜。これが後宮産の最高級ってやつね……!」
その言葉に、怜綾は半目になって睨みつけた。
尻尾をバシッと一度床に叩きつけ、明らかに「不快」の意思表示をする。
(貴様は妃なのだろう……? どうして猫相手にここまで必死になれる)
「もーそんなに怒らないでよ〜。あ、もしかして、照れてるの?」
(照れてなどいない)
茗渓は勝手に納得した様子で頷きながら、なおも怜綾の体に頬ずりを続ける。
「でも、ほんと不思議だよね。こんなにも表情豊かで、ツンデレで、どこか気品があって……。まるで――」
とろんとした目で怜綾を見つめる。
「まるで……どこかの高貴な皇子様みたい〜〜!」
怜綾はびくっと動きを止める。が、その表情はすぐに限界を迎えた。
(……もはや侮辱ではないか)
不機嫌そうに顔を背け、ふいっと茗渓の手を避けるように移動するが――
「逃がさないっ!」
茗渓はぱっと手を伸ばし、またもふもふを堪能しようとする。
怜綾はしっぽを膨らませ、床を一度蹴ってテーブルの下へ逃げ込んだ。
そこからじっと茗渓を見つめながら、ぐるる……と低く喉を鳴らす。
(この女……やはり普通ではない)
「ふふ、ごめんごめん。あまりに可愛くって、つい……ね!」
悪びれもせず笑う茗渓に、怜綾は長いため息を吐いたように見えた。
その小さな体に、ほんのわずか――疲労と、諦めの気配が漂った。
(……一刻も早く、呪いを解かなければ)
夜の帳が静かに下り、怜花宮の奥にある小さな寝所には、茗渓の寝息だけが規則正しく響いていた。乱れた掛け布団、片足がはみ出した状態のまま、夢の中で笑っているその姿は、まるで世の中の争いや陰謀など知らぬ子どものようだった。
縁側の障子がふわりと開き、月光が部屋の中に差し込む。
その光の中に立っていたのは、漆黒の衣をまとった青年の姿。
怜綾だった。
肩まで伸びた黒髪が風に揺れ、月の光を浴びてその身が淡く輝いている。耳には、わずかに猫の名残を残した尖った形が見え、尻尾もまだわずかに揺れていた。完全な人の姿ではない、だが、今夜はここまで戻れた。
「……相変わらず無防備だな」
そう言って怜綾は茗渓の寝床に近づき、はだけた掛け布団をそっとかけ直した。指先が彼女の頬に触れそうになって止まり、数秒間そのまま見つめている。
(……こやつは、どうしてこんなにまっすぐで、騒がしくて、無鉄砲なのか)
茗渓の頬が少し赤く染まり、寝ぼけたように「もふ……」と呟く。怜綾は驚いたように一歩引き、咳払いをして目を逸らした。
縁側に戻り、空を仰ぐ。
中天に輝くのは、冴え渡るような聖なる月。その光は優しくもあり、そして怜綾にとっては皮肉なものでもあった。
「この光がなければ……私は、もう人の姿を忘れていたかもしれぬ」
独りごちるような声が風に消える。
──あの夜。
後宮の政争に巻き込まれ、己の才と力を疎まれ、
何者かにより呪術師が呼ばれ、彼の身体は黒猫の姿に封じられた。
月が満ちる夜だけ、かろうじて人の姿に戻れるという皮肉な呪い。
しかも、体調が万全でなければその変化すら果たせず、声を持たぬまま、孤独の中に落とされた。
(あの夜からすべてが狂い始めた)
その思考は、自然と怜綾の目を鋭くした。
そして、思い浮かぶのは──あの者の顔。
第二皇子・怜張と結託して権勢を振るい、微笑みの裏で多くを操る、高妃。
「……あの女達だけは、決して許さぬ」
呟いたその声に、夜の風が寄り添う。
その瞬間、部屋の中から「んー……怜綾……」という、寝言混じりの声が聞こえてきた。
怜綾は振り返る。寝台の上、茗渓がまるで何かに安心しているかのような笑みを浮かべていた。
(……こやつだけは)
何かを思いかけて、すぐに首を振る。
(いや、利用できる。呪いを解く鍵となるなら──)
それでも。
再び空を仰ぐその眼差しには、わずかな迷いが滲んでいた。
そして、夜は静かに更けてゆく。