約束の朝
幽蓮殿からの帰路、怜綾は茗渓を抱きしめるようにして怜花宮へと戻った。
夜が明けきったばかりの薄紅の空が、静かに広がっている。
茗渓の呼吸は安定しつつあったが、腕や足の傷は深く、ところどころから滲んだ血が衣を濡らしていた。
怜綾は慎重に寝台に茗渓を横たえ、そっと布をかける。
そしてすぐに湯を沸かし、清潔な布で血を拭き取ると、手当てを始めた。
「……痛かっただろう。怖かっただろう……」
声に出せば涙が零れそうになる。
だが、震える手を止めるわけにはいかなかった。
茗渓の手に包帯を巻きながら、怜綾は自分の手を重ねる。
あの時、自分の無力さがどれほど悔しかったか。
あと少し遅れていたら――もう二度と、この手で彼女に触れることができなかったかもしれない。
「……もう絶対に、二度と君をこんな目には遭わせない」
静かに、けれど心の奥から湧き出た想いを、怜綾はそっと誓った。
「何があっても、必ず守る。……どんな運命が来ようと」
やがて、包帯を巻き終えた怜綾は、ふうと小さく息を吐く。
茗渓は静かに眠っていた。
睫毛の影が頬に落ち、呼吸は穏やかで、まるで何事もなかったかのように眠っている。
その顔を、怜綾は両手でそっと包む。
「……ありがとう。生きていてくれて、本当に……」
言葉の先を喉奥でかき消し、怜綾は茗渓の頬にそっと唇を落とした。
柔らかく、ひとときの祈りのように。
それは静かで、けれど深い想いのこもった、誓いの口づけだった。
「……おやすみ。茗渓」
怜綾はそっと灯を落とし、寝台の傍らに静かに座る。
もう、二度と手を離さない。
そう、心の中で繰り返しながら、茗渓の寝息に耳を澄ませた。
夜はすでに明けていたが、怜花宮には深く、静かな安らぎが広がっていた。
怜綾は、茗渓の寝息が安定しているのを確認すると、安堵の息をついてその場に力なく座り込んだ。緊張の糸がようやく切れたように、眠気がじわじわと身体を包む。
気づけばそのまま、寝台の端に凭れながら、怜綾は眠りに落ちていた。
夜が明け、柔らかな朝の光が障子越しに差し込む。
――ふと、先に目を覚ましたのは茗渓だった。
痛みが残る身体をゆっくりと起こし、まだ完全には力の入らない手で、なんとか上体を起こす。周囲を見回し、ここが怜花宮であることに気づいた茗渓の目に、すぐそばで眠る怜綾の姿が映る。
白衣の袖をたくし上げ、椅子にもたれるように座ったまま、静かに眠る怜綾。
長い睫毛が影を落とし、口元は穏やかに緩んでいた。あの厳しい表情も、必死に自分を救ってくれた時の鬼気迫る眼差しも、今はまるで嘘のように、ただ穏やかに――まるで夢を見ているように眠っている。
茗渓の目に、涙が滲んだ。
怜綾はちゃんと、人間の姿に戻っていた。猫耳も尻尾も消えて――まるで、最初からこの姿で彼女の前にいたかのように。
そのことが、言葉にならないほど嬉しくて、安心して、胸の奥がじんと熱くなる。
「……よかった」
小さく囁きながら、茗渓は怜綾の髪にそっと手を伸ばし、優しく撫でた。
絹のような髪が指の間をすり抜ける。
その感触の確かさに、また一滴、涙がこぼれる。
「ありがとう……怜綾。助けてくれて……生きててくれて……」
かすれた声で言いながら、茗渓はそっと額を怜綾の肩に寄せた。
怜綾が目を覚ますのは、もう少し先のこと。
だけどこの時、茗渓の胸には確かな想いがあった。
――もう、離れたくない。
――この手を、ずっと握っていたい。
茗渓はそっと怜綾の手に、自分の手を重ねた。
怜綾がふと目を覚ますと、自分の手に温もりがあった。ゆっくりと目を開けると、その手を握っているのは――茗渓だった。
「……茗渓?」
驚いたように目を瞬かせる怜綾を、茗渓は微笑んで見つめた。
「おはよう、怜綾」
その声は少しかすれていたが、確かに、あの優しい茗渓の声だった。
「無理しないで、まだ傷は癒えてないはずだ」
怜綾が慌てて起き上がろうとすると、茗渓はそっとその手を握ったまま言った。
「ねえ、怜綾。……少しだけ、このまま話をさせて」
「……うん」
静かな朝の陽が部屋を照らし、二人だけの世界を柔らかく包む。
「私ね、あの幽蓮殿で、何度も心が折れかけた。だけど……それでもあの言葉だけは、絶対に言えなかった」
「言葉?」
怜綾が聞き返すと、茗渓は静かに微笑みながら続けた。
「“怜綾を信じない”って、あの人に言わせようとされたの。拷問も幻覚も、全部使われた。それでも私は、言えなかった。……言いたくなかったのよ。どんなに幻だと言われても、あなたが笑ってくれていた記憶は、幻なんかじゃないから」
「茗渓……」
「どんなに痛くても、苦しくても――信じていた。だって、私は……あなたを……」
茗渓の声が少し震えた。
けれどその目はまっすぐに怜綾を見ていた。
「……私は、あなたを愛してる」
静かに、けれど凛とした言葉。
怜綾の胸の奥が熱くなる。
怜綾はゆっくりと、茗渓の手を握り返した。
「……ありがとう。俺も―君を愛しているよ、茗渓」
その瞳は涙で潤んでいたが、確かに笑っていた。
言葉では足りなかった。
この想いを伝えるには、言葉では到底足りなかった。
だから――
二人はそっと顔を近づけた。
息遣いが重なり、瞼が静かに閉じられる。
そして、静寂の中で交わされたのは、魂を通わせるような、静かで、深く、優しい口づけ。
互いの痛みも、傷も、過去も、未来もすべて包み込むような、愛の証。
長い時を経てようやく巡り会えた、たった一つの真実が、今ようやく形になった瞬間だった。
薄明の光が障子越しに差し込むころ、怜花宮の一角には、静かな温もりが漂っていた。
湯気の立つ粥の香りが、夜の余韻を優しく溶かしていく。
「……うまいな。こんなに穏やかに朝餉をとれるなんて、夢みたいだ」
怜綾が言うと、茗渓は小さく微笑んだ。
「夢なんかじゃないわ。これが現実。あなたが助けてくれたから、こうしてここにいられるのよ」
二人は寄り添うように並んで座り、小さな膳を分け合っていた。茗渓が握った梅干しのおにぎりと、怜綾が炊いた柔らかい粥。どちらも素朴だが、どこか贅沢な味がした。
怜綾は茗渓の肩にそっと自分の肩を重ね、湯呑を口に運んだあと、ふう、とひと息吐いた。
「……茗渓」
「うん?」
「今日、もう一度本殿へ赴こうと思う」
その声には静かな決意が込められていた。
「母様……怜妃が受けた冤罪を、今度こそ晴らしたい。十年前、何もできなかった俺が、やっと……あの時の真実を、言葉にできるようになった」
茗渓はその横顔を見つめ、ゆっくりと膝の上に手を重ねた。
「それがあなたの道なら、私は信じて待ってる。……でも、無理だけはしないで。あなたはもう一人じゃないんだから」
その言葉に、怜綾はふっと笑い、茗渓の手を包み込んだ。
「ありがとう。……君がいてくれるから、俺はようやく自分を貫ける」
朝の光が、ふたりの間に温かな色を落とす。
交わした言葉は少なくとも、互いの胸に深く染みわたる確かな想い。
心を寄せ合いながら、二人はゆっくりと箸をすすめていった。
この穏やかなひとときが、再び戦う力となるように。
そして、怜綾は心に誓った。
ーー母のために。己のために。そして、茗渓のために。
真実を、白日の下に。




