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消えた愛

茗渓は、ほのかな暖かさに包まれながら、ゆっくりと目を覚ます。


昨夜の記憶が胸の奥に残っている――怜綾の痛みに寄り添い、共に朝を迎えたこと。

横を向くと、そこにいたのは――


「……戻ってしまったのね」


白い布の上、まあるく身体を丸めて眠る小さな黒猫。

怜綾――彼の姿は再び、黒猫の姿へと変わっていた。


切なさが胸を過ったが、茗渓はそっと微笑んだ。


「よし、じゃあ今日は……美味しいご飯、作ろうか」


畑に行って、新鮮な野菜を採ってこよう。

きっと温かいものを作れば、少しは元気が出る。


黒猫の姿で眠る怜綾の額を撫でると、その耳がぴくんと動いた。


「待っててね。すぐ戻ってくるから」


小さな囁きを残して、茗渓は怜花宮を静かに出た。


* * *


畑は朝露を帯び、緑が生き生きと風に揺れていた。

茗渓は籠を手に、しゃがんで丁寧に青菜を摘み取っていく。


土の匂い。さわやかな風。

遠くに鳥の声が聞こえる。


けれど――次の瞬間。


「……っ?」


背後から、ぞわりと冷気が走った。

空気が、変わる。


何かが――迫ってくる。


畑の上に、黒い靄がゆらりと現れた。

靄は地を這い、立ち昇り、人の形を成していく。


現れたのは、全身を黒衣で包んだ異形の男。

肌は死人のように青白く、顔の半分を覆面で隠している。

目だけが、異様な光を放っていた。


「……だ、誰なの……?」


思わず茗渓は、収穫した野菜を両手に抱えたまま、一歩後ずさる。


男はふふふ……と、不気味に笑った。


「ようやく見つけた……“鍵”よ」


その声には、どこか蛇のような粘ついた響きがあった。

次の瞬間、男の指がひらりと空をなぞる。


風が一瞬止まる。


「――!」


茗渓の視界が、ぐにゃりと歪んだ。


頭が、くらりと揺れる。


足元がふらつき、膝から崩れ落ちる。


(あれ……身体が、動か……)


最後に見たのは、朝の空を裂くように立つ黒い影。


男が、口元に笑みを浮かべたのが見えた。


「さあ、しばらく“眠って”いてもらおうか」


茗渓の意識が、暗闇に沈んでいく――


怜花宮の門の先に、朝の光がまだ穏やかに広がっていた。

だが、その静けさを破る者が、今確かに訪れたのだった。


***


朝の静けさの中、怜花宮の寝所に差し込む光が、そっと黒猫の毛並みに触れた。


怜綾は、ゆっくりと瞳を開いた。


見慣れた天井、やわらかな布団の感触。

けれど、そこに宿る違和感――


(…あぁ、そうか)


視線を落とすと、小さな黒い前足が目に映る。

ふわふわとした毛並みが風に揺れていた。


(影輪露の……効力が切れたんだな)


怜綾は短く鼻を鳴らすと、重い体を寝床の中で丸めた。


まだ、少し熱があるような気がする。

昨日の激しい痛みが、身体の芯にじんわりと残っていた。


(あの時……)


記憶が、じわじわと浮かび上がる。

荒れる呼吸、襲いくる痛み。

そんな自分の傍に、ずっといたのは――


(茗渓……)


白く細い手が、額の汗をぬぐってくれていた。

震える指を、優しく握り返してくれていた。

怜綾が意識を失いかけるたび、彼女の声が戻してくれた。


(……ありがとう)


もふりとしながら、猫の耳をぴくりと動かした。


(そろそろ、起きようか)


ゆっくりと布団を抜け出し、障子の前へと歩いていく。

小さな体に、外の光は少しまぶしい。


(茗渓は……朝から畑仕事でもしているのだろう。きっと、今日も美味い朝餉を考えて……)


そんな思考が、ふと止まった。


怜綾は、耳を澄ませる。

静かすぎる。

鳥の声は聞こえるのに、彼女の気配がない。


(……?)


黒猫の姿のまま、縁側をひょいと飛び降りる。


「にゃあ…?(茗渓?)」


鳴いてみるが、返事はない。

台所にも、庭にも、どこにもその姿は見えない。


そして――


畑の前まで足を運んだとき、怜綾の心が凍りついた。


(……なんだ、これは)


地面に、落ちたままの籠。

引き抜かれたまま転がっている大根や青菜。

まるで、何かに襲われたような痕跡。


怜綾の胸に、鈍い痛みが走った。

嫌な予感が、毛先にまで伝わってくる。


(まさか、茗渓に……何かが?)


風が、黒猫の耳元をすり抜ける。

その空気は、ほんのわずかに――禍々しい気配を帯びていた。


(茗渓……どこだ……!)


怜綾は、畑を飛び出した。

その小さな四肢に、必死に力を込めて。


胸の奥に渦巻く焦燥。

もし、彼女が攫われたのだとしたら――

自分が何もできず、失うことになったとしたら――


(お願いだ、間に合ってくれ……!)


怜綾は駆ける。

小さな黒猫の姿のまま、風を裂いて。


朝露に濡れた地面には、もう彼女の足跡はなかった。

残されたのは、冷たい空気と、消えかけた温もりだけだった。

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