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約束

怜花宮――朝の光が差し込む庭先に、茗渓の影がぽつりと佇んでいた。


「……そろそろ、影輪露の効力が切れる頃よね」


両の掌を重ね、胸元で祈るようにしていた。

怜綾が再び後宮へ足を踏み入れてから、すでに半日以上が過ぎていた。

無事を信じていた。けれど、どうしても胸の奥がざわついて仕方がない。


「怜綾……貴方は、ちゃんと……」


その時――


「……!」


遠く、門の向こうから白衣をまとった影が歩んでくるのが見えた。


(!?)


目を凝らすと、その人影は、まっすぐに怜花宮へと向かってきていた。

眩しいほどの白衣、ふわりと揺れる黒髪。

そして、あの優しく凛とした眼差し――


「怜綾っ……!」


茗渓はもう、考えるより先に体が動いていた。

ただただ真っ直ぐに、門を飛び出して、その人の元へと駆け寄る。


「怜綾……! よかった、無事に……!」


その胸に飛び込み、怜綾を強く抱きしめた。

涙がとめどなく溢れて、声にならなかった。

怜綾は微笑み、何も言わずに、ただ茗渓の背にそっと手を回して、同じように優しく抱きしめ返す。


「……ちゃんと、帰ってきたよ」


その囁きに、茗渓は喉の奥から震えるような嗚咽を漏らした。


だが――


怜綾が怜花宮の門をくぐった、その瞬間だった。


「っ、ぐ……!」


「怜綾……!?」


怜綾の肩が突然大きく揺れたかと思うと、その顔が苦痛に歪み、膝が崩れ落ちる。


「どうしたの!? 怜綾、しっかりして……!」


「……き、効力が……切れ始めてる……!」


息も絶え絶えに、怜綾の指が自らの胸元を掴む。

背筋が弓なりに反り、全身が痙攣するように震える。


「痛いのね……!どうすれば、どうすればいいの!?」


茗渓は怜綾を必死に支え、その身を抱きしめながら、必死に名前を呼び続けた。


「お願い、怜綾、目を閉じないで……!」


けれど怜綾は苦しみながらも、わずかに口角を上げて、こう呟いた。


「……帰ってこれて、よかった……」


その言葉に、茗渓の胸が締めつけられる。


「お願い、そんな顔しないで……! 絶対に、絶対に貴方を助けるから……!」


そう言って、茗渓は怜綾の手をぎゅっと握った。


――誰にも奪わせはしない。

この人だけはー何があっても守り抜く。


怜綾の意識は朧だった。

目の奥がじんと焼け、体の芯に鋼の棘でも打ち込まれたかのような痛みが、波のように繰り返し襲ってくる。


そんな怜綾を、茗渓は慎重に背から支え、寝所の奥へと運び入れた。


「……もう大丈夫よ、今、楽にしてあげるから」


そう囁く声は震えていたが、優しさと決意に満ちていた。


ふとんを整え、怜綾の体を静かに寝床へ横たえる。

額に浮かぶ玉のような汗を、茗渓はそっと袖で拭った。


「痛いところは……ここ?」


怜綾がうっすらと眉をひそめるのを見て、茗渓はその部位を見極め、柔らかく手のひらで撫でるようにさすった。


「ごめんね……どうしてあげればいいのか、本当は分からないけれど……」


言葉が途切れた。

喉の奥で嗚咽がせり上がりそうになるのを、どうにか堪える。


それでも、怜綾の手だけは、ずっと離さなかった。

指を重ねるように握りしめ、彼の体温が少しでも戻ってくるようにと、心から願って。


「お願い……私の前から、いなくならないで」


息遣いは浅く、不規則だった。

それでも時折、怜綾が微かに指を返してくるたび、茗渓は涙ぐみながら小さく笑った。


夜は更けていく。

外では虫の声が、涼やかに鳴いていた。


茗渓は、怜綾のそばを片時も離れず、灯りを落とした静寂の中で、彼の顔をじっと見守っていた。


(お願い……朝が来るまで、この手が温もりを感じていられますように)


その願いだけを胸に――

彼女は、怜綾の隣で、長い長い夜を越えてゆく。


長い夜が過ぎ、ようやく東の空が白みはじめた頃。

茗渓は、怜綾の額に滲む汗を、濡らした布でそっと拭いていた。


「……少しは落ち着いたかしら」


彼の呼吸は、まだ浅く、苦しげだった。けれど、先ほどよりはわずかに穏やかに見えた。


茗渓が額から手を離そうとした、その瞬間――


怜綾の指がふいに動き、彼女の袖をきゅっと掴んだ。


「……怜綾?」


茗渓が小さく声を漏らした時には、すでに怜綾の手が彼女の腕を強く引いていた。


「きゃっ……」


身体ごと寝床に引き入れられた茗渓は、あっという間に怜綾の胸の中に抱き寄せられた。


「ま、待って、だめよ。貴方はまだ……」


逃げようと身を起こしかけた茗渓だったが、怜綾の両腕が、思いのほか強く、自分の背をしっかりと抱いていた。


「……お願いだ。そばにいてくれ」


怜綾の声は掠れていたが、その囁きはまっすぐに、茗渓の胸に響いた。


「抱きしめていると……不思議と、痛みが和らぐ気がするんだ。だから……どうか、このまま、いてほしい」


その一言に、茗渓は抵抗するのをやめた。


心臓が高鳴っていた。

けれど、不思議と怖くなかった。


怜綾の胸元にそっと額を預け、彼の手を優しく握り返す。


「……わかったわ。じゃあ、少しだけ。朝が来るまで」


怜綾の胸に響く茗渓の声は、静かで、温かくて、まるで夢の中にいるようだった。


ふたりはしばし無言のまま、互いの体温を分け合った。


夜明けの光が障子を透かし、部屋の中を淡く照らしていく。

怜綾の苦痛も、茗渓の不安も――その光に、少しだけ溶けてゆくようだった。


そして、手を繋いだまま、ふたりはようやく短い眠りへと落ちていった。


まだ空は淡い紫を帯び、東の空がゆっくりと白み始めていた。

鳥のさえずりが、遠く微かに聞こえはじめる。


茗渓は、ふと重なった手の温もりに目を覚ました。

霞む視界の中で、真っ先に飛び込んできたのは、すぐ傍らに横たわる――怜綾の寝顔。


「……!」


思わず、心臓が跳ねた。


(うそ……)


怜綾の顔はこんなにも近くて、穏やかな寝息を立てている。


白い衣の襟元がわずかに乱れ、頬に髪がひと筋かかっていた。

その顔は、昨夜の苦悶が嘘のように静かで、安らかで、そして――ひどく綺麗だった。


(……あの時、引っ張られて……)


茗渓は、昨夜のことを思い出す。


怜綾の腕に引かれ、寝床に引き入れられたこと。

「抱きしめていると、痛みが和らぐ」と言われ、震える背中をそっと撫でたこと。


(……そのまま、私……寝ちゃったのね)


小さく肩を落とし、そっと身体を起こそうとする。

けれど、まだ怜綾の手が自分の袖を握ったままだった。


(……朝日が、もうすぐ昇る)


障子の隙間から、薄明かりが差し込んでいた。

影輪露の効果――それは、十二刻で切れるという。


(……このまま、また猫の姿に戻っちゃうの?)


不安が、胸をふわりと満たす。

昨夜の強い痛みを思い出し、茗渓は小さく眉を寄せた。


ふと視線を落とし、怜綾の頬に触れた。


「どうか……戻らないで。あなたが人の姿で、笑っていてくれたら」


囁くように呟いて、その髪にそっと手を添える。

寝乱れた黒髪を、指先で優しく撫でた。


怜綾はまだ目を覚まさない。けれど、そのまどろみの表情はどこか柔らかくて、無防備だった。

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