花開くように、愛に気づく
本殿の一室。柔らかな障子の光が差し込み、揺れる提灯の灯りが二人の影をやさしく揺らしていた。
麗妃は静かに涙をこぼしながら、怜綾の手をしっかりと握る。
「貴方が無事で本当に良かった……」
声は震え、胸の内からの安堵が滲んでいた。
怜綾は微笑みを返しながら、その涙をそっと拭った。
「麗妃様、ありがとうございます。こうしてまたお話しできることが、どれほど嬉しいか分かりません」
二人の間に温かな空気が流れ、やがて話は昔の記憶へと溶けていく。
「覚えているかしら、あの春の日を。まだ幼かった私たちが庭で遊んだ、あの風の匂い……」
麗妃が穏やかに口を開くと、怜綾も優しい声で応じた。
「ええ、鮮明に。姉様が私の小さな手を握ってくれたことも」
やがて、話題は呪いを解く術へと移った。
「呪いを解くには、真実の愛が必要だと言われました。」
怜綾の瞳が揺れる。
「だけど、姉様……俺には愛が何なのか、まだよく分かりません。
茗渓を大切に想うこの気持ち――これは愛なのでしょうか?」
麗妃は少し考え込むように目を伏せ、やがて静かに答えた。
「愛とは、時に形なきもの。分からぬままに心が震えること、相手のために願い、守りたいと願うこと……それはきっと、愛の一片です。」
「姉様、教えてください。この想いをどう受け止めればいいのか――」
麗妃は穏やかに怜綾の肩に手を置き、深い慈しみを込めて微笑んだ。
「それは――貴方自身が見つけるものよ。焦らず、恐れず、その心の声に耳を澄ませば、きっと答えは見えてくる」
怜綾はその言葉に少しだけ心が軽くなるのを感じた。
麗妃は怜綾の肩に手を添えたまま、ふと目を細め、やさしく微笑んだ。
「貴方と蘭妃は、とてもお似合いですわ」
怜綾が目を見開く。どこか気恥ずかしそうに視線をそらすのを見て、麗妃は静かに続けた。
「蘭妃――あの方は、とても優しく、真っ直ぐな方。私も、何度も彼女に助けられました。困難な時でも決して諦めず、人を信じて支えようとする……そんな強さを持った方です」
怜綾の胸がじんと熱くなる。茗渓の姿が心に浮かび、その手のぬくもりが蘇る。
麗妃は少し言葉を置き、そして静かに言葉を紡いだ。
「だからこそ、怜綾――どうか、貴方が後悔のない選択をすることを、私は心から願っています」
その声音には、母にも似た深い慈愛と祈りが滲んでいた。
怜綾はまっすぐに頷いた。
「……はい。必ず」
二人の間にあたたかな沈黙が流れる。
それは、絆の深まりを感じさせる、静かで確かな時間だった。
夕暮れの風が、木々の梢をわずかに揺らしていた。
本殿の回廊をひとり歩く怜綾は、足を止めて中庭の方を見やる。
芍薬が、陽の傾きに伴って淡い朱に染まっていく。
その姿が、どこか茗渓の面影と重なった。
(……あの白い衣を渡してくれたとき、彼女は言った。「芍薬のようでしょ?」って)
怜綾の指先が、そっと衣の袖をつまんだ。
ほんのりと風をはらんだその布が、まるで誰かの手のぬくもりのように柔らかく感じられた。
(彼女は……俺を受け入れてくれた)
猫の姿でも、名前も正体も告げぬままでも、茗渓は変わらず傍にいてくれた。
(……自分のために涙を流す人が、この世にいるとは思っていなかった)
それは、ただの優しさではないと、今なら分かる。
彼女の真っ直ぐな想いに、何度も胸が締め付けられた。
今も忘れられない。腰紐を結んでくれたときの、不器用な手。
抱きつかれ、鼓動が跳ねたあの瞬間。
髪をといてくれたときの、くすぐったいほどの優しさ。
(なぜ、あんなにも胸が熱くなったのか……ようやく、分かった気がする)
怜綾はそっと目を閉じた。
(茗渓のそばにいたい。彼女の笑顔を守りたい。毎日、一緒に朝を迎え、また名を呼ばれたい――)
それは、情や恩ではない。
憐れみでも、寂しさでもない。
(これは……愛だ)
胸の奥から、静かに、けれど確かな確信が湧き上がる。
長い間、分からなかった。
“愛”など、自分には無縁のものだと思っていた。
けれど今なら、はっきりと言える。
(俺は……茗渓を、愛している)
その気持ちを胸に、怜綾はゆっくりと空を仰いだ。
白く薄く漂う雲の向こう、夕日が沈んでゆく。
今まで誰にも言えなかった気持ちを、もうすぐ伝えに行く。
茗渓に、自分の本当の心を――
怜綾は、夕陽の差す方へ静かに歩き出した。
芍薬の花が、風に揺れて見送るように咲いていた。




