揺らぐ刃、秘められし刃
雨魘が怜花宮の奥庭に足を踏み入れたとき、ふと――風が変わった。
その場にいた茗渓を見た瞬間、彼の全身を何かが貫いた。
(……なんだ、これは……)
静かな気配。しかし、底知れぬ圧。
それは殺気ではない。だが、恐ろしいほどに澄んだ、揺るがぬ力。
(――この娘……ただの宮女ではない。いや、本人には自覚がないかもしれぬが……)
雨魘は目を細め、霊視の気配を深く沈める。
(こやつの内にある力……これは、呪を撥ね退けるほどの“愛の質”……)
瞬間、脳裏にひとつの仮説がよぎった。
(まさか……“あやつ”の呪いが薄れつつあるのは――この娘が傍にいるせいなのか?)
高妃の命はただひとつ――“怜綾を殺せ”。
だが。
(……それだけでは惜しい。私には……この娘の方が、興味深い)
雨魘の唇が、不気味に吊り上がった。
その頃、芙蓉宮より一通の手紙が届いた。麗妃の筆跡はいつも通りに美しく、だがその内容は緊迫していた。
「蘭妃様
御身のご無事を心より願いながら、筆を取っております。
聞くところによれば、高妃様より陛下へ、怜花宮に“妖”が棲まうとの申し立てがあったようでございます。さらに、蘭妃様がその妖を密かに庇っていると伝えられたとか。
陛下は占術や妖を嫌われるお方ゆえ、間もなく祓い師を怜花宮へ遣わされると聞いております。
貴殿がその“妖”を匿われているのは、きっと深いご事情があるのでしょう。どうか、己が身を大切に、用心されてくださいませ。
私も遠くより、あなたとその御身の安全を願っております。
麗妃」
手紙を読み終えた茗渓は、重く息を吐いた。
(……高妃の動きが、一層激しくなるわね。祓い師が来るということは、怜綾の正体が完全にばれる日も近い)
だが彼女の目は決して揺らぐことなく、静かに闘志を宿していた。
茗渓は、静かに文を怜綾へと差し出した。
その筆跡をたどる金の瞳が、一行ごとに深く沈むように光を失っていく。
「……高妃様が、陛下に“妖がいる”と」
「……どうやら、そうみたい。怜花宮に妖が棲むと……その妖と、私が密かに逢引しているとも」
怜綾は文を閉じ、長く息を吐いた。
茗渓は、怒りと不安の混ざった声で叫ぶ。
「貴方が“妖だ”という理由だけで、殺されるなんて――そんなの、絶対に嫌よ!」
掌を握りしめながら、茗渓は震える唇で続けた。
「どうすればいいの……。私に、何かできることはないの? 必ず、何か“打つ手”があるはずなのに……!」
その言葉に、怜綾がそっと懐から何かを取り出す。
影輪露――
仄かに妖気を帯びた水晶のような雫。
その小さな瓶を手に、怜綾は静かに呟いた。
「……使う時が来たか」
茗渓が息を呑む。
「まさか、それを……? でも、それを使ったら、裂かれるような痛みに苛まれるって……!」
「分かってる」
怜綾は、その目を逸らさず言う。
「だが――使うなら今だ。妖として追われるくらいなら、怜綾として“生きて”戻る」
「……怜綾として?」
「そうだ。後宮に、正体を隠す必要はない。正面から現れれば、高妃たちにも“圧”をかけられる」
金の瞳が、揺れも迷いもなく茗渓を見つめる。
「影輪露の効果は十二刻。どこまでできるかは分からない。だが、兄上いや陛下は、話の分かるお方だ。母様のこと、俺が呪われていたこと――すべて、打ち明けるべきかもしれない」
「怜綾……」
「このまま黙っていれば、“妖”として処されるだろう。だったら、名乗って出る。真実を持って」
怜綾の指先が瓶の蓋に触れる。
「……それが、俺の“生”を取り戻すたった一つの道かもしれない」
茗渓は言葉を失い、ただ、怜綾の横顔を見つめていた。
その姿は、もはや“隠れ生きる者”ではなかった。
――戦う者の、決意に満ちたまなざし。
けれど、茗渓の胸にはひとつだけ消えぬ想いがあった。
(……どうか、あなたが痛みに飲まれないで済むように)
怜綾の指が、影輪露の瓶の蓋に触れたまま動かない。
静寂が、重く張り詰めた空気のように室内を満たす。
茗渓の視線が痛いほど真っ直ぐに注がれているのを感じながら、彼はほんの少しだけ、目を閉じた。
(……後宮に戻るのが、怖くないと言ったら嘘になる)
あの空間が、どれほど残酷で、どれほど冷たい場所だったか――身体が、骨が、心が覚えている。
母が引きずり出され、名を奪われ、冷たい石の上で泣いていた日。
自分の存在が「穢れ」として口を噤まれた日々。
(けれど……もう、隠れて生きるのはやめたい)
夜だけを選んで生きることに、どこかで限界を感じていた。
“怜綾”という名を胸の奥に封じ、ただの猫として誰にも気づかれず生きながら――
それでも、心のどこかではずっと願っていた。
「本当の自分」として、もう一度この世に立てる日が来ることを。
(この決断の結末がどう転んだとしても、俺は悔いない)
たとえ陛下に斬られようと、高妃の策略に陥ろうと。
自分で選び、自分の足で立ち、自分の名で終えることができるなら――それでいい。
それに、怜綾は知ってしまったのだ。
茗渓という存在が、自分にとって何なのかを。
言葉で言わなくても伝わるまなざし。
何も求めず、ただ傍にいてくれる温もり。
(……猫としてじゃない。人として、一人の男として――茗渓を守りたいんだ)
誰かに選ばれるためでも、皇子としての誇りのためでもない。
今の自分はただ、一人の命を守りたくてここに立っている。
――それこそが、“生きる”ということだと、ようやく知ったから。
怜綾は、ゆっくりと目を開けた。
金の双眸が、迷いなく光を帯びていた。
そして、指が――瓶の蓋を、静かに開いた。




