動き始めた陰謀
怜花宮の離れの一室。
朝の淡い光が障子越しに射し込む中、茗渓は筆を取り、慎重に墨を落とす。
小さな巻物の上に、一文字ずつ、心を込めて――
「拝啓 麗妃さまへ」
筆先が微かに震えたのは、昨夜の記憶が蘇ったからだ。
あの夜の宴。こぼれ落ちた膳の中身。
麗妃が無事だったことは、心からの安堵だった。
(……でも、次はきっと、もっと狡猾に仕掛けてくる)
だから、どうしても伝えたかった。
“あなたと、お腹の子を守りたい”――その想いを。
封をし、宛名の上に薄く花をあしらうと、茗渓は息をつき、小さく呟いた。
「届きますように……」
* * *
数日後――
麗妃の住まう芙蓉宮に、ひとつの文が届いた。
絹のような紙に、麗しい筆致。茗渓からの手紙だ。
麗妃は文を広げると、静かに目を通し、やがて微笑んだ。
「拝復
このたびは、温かいご忠言とお心遣い、誠にありがとうございます。
宴の席にて、あのような騒動が起きた直後は戸惑いましたが――
今となっては、あれが“私を守るための行動”であったと、すぐに気づきました。」
指先がその一文をなぞる。
「誰にも信じてもらえぬかもしれない危機の中、
それでもなお、ああして身体を張って私を守ってくださった。
私は……心から、感謝しております。
そして、あなたが今、どれほどの不安と恐れの中でそれを行ったかも、想像できます。」
麗妃のまなざしが、ふと遠くを見つめた。
その瞳は柔らかく、けれどどこか、芯のある強さを宿している。
「どうか、あなた自身もご自愛ください。
あなたがいてくださることが、どれほど大きな力になるか――
私は、知っていますから。」
* * *
その夜、茗渓の元へ戻ってきた返書を読みながら、彼女は静かに目を閉じた。
「気づいてたんだね、麗妃さま……私の気持ちに」
あのとき、誰も気づいていないと思っていた。
けれど――彼女だけは、見ていた。分かっていた。
胸の奥で、少しだけ張りつめていたものが、やさしくほぐれていく。
(私一人じゃない。きっと、誰かがちゃんと見てくれている)
そう思えるだけで、次の一歩が踏み出せる。
月明かりが、静かに怜花宮の庭を照らしていた。
誰にも見せない秘め文に、心の火を宿して――
茗渓は、また明日を生きていく。
芳燭殿の奥、誰も足を踏み入れぬ密室。
張られた結界に月光すら届かず、ただ燭台の赤い炎が、壁に奇怪な影を揺らしていた。
「……何者だ」
帳の奥に浮かび上がるのは、女の輪郭を持つ影――高妃。
薄紅の唇を歪ませ、厳しく目を細めていた。
その前に、ぬっと現れたのは、黒衣に身を包んだ異形の男。
肌は蒼白く、湿った空気をまとい、顔の下半分を覆面で隠している。
「貴様……雨魘、か」
「……は、はいっ」
闇から現れたその者は、声を震わせながら跪いた。
高妃の視線は冷ややかで、あからさまに不機嫌だった。
「お主を呼んだ覚えはないが? 姿を隠していろと言ったのは、他ならぬこの私だぞ」
雨魘は冷たい石畳に額をすりつけるようにしながら、急き込んだ声を上げる。
「申し訳ありません! ですが……ご報告が……!」
「ほう?」
「“愛隠の呪”の力が……薄れてきております……!」
室内の空気が、一気に張り詰めた。
「……なんだと?」
「間違いありません……私は“あやつ”に呪いをかけた張本人……呪いの強弱は、常に肌で感じ取れます。近頃、まるで力が引かれるような感覚が……」
高妃の目が、ぎらりと細くなる。
「もしや、“あやつ”が――再び姿を現そうとしている、と?」
「その、可能性が……」
「ふざけるな……!」
怒声が密室を裂いた。
燭台の火がびくりと揺れる。
「どれほどの代償を、そなたに払ったと思っているのだ!! 私が“あの呪”を授けるために、いくつの生贄を差し出したと思っている! 十年の月日を、どれほどかけたと思っている!!」
「ひぃぃっ、し、失礼を! すみません、すみませんっ!」
雨魘は土下座したまま、全身を震わせていた。
「謝罪などいらぬ。欲しいのは“結果”だ」
低く、鋭く、毒を含んだ声音が、雨魘の耳を刺す。
「よいか、どんな手を使ってでも、あやつの存在を“この世から”消し去るのじゃ」
「……かしこまりました」
高妃は立ち上がり、薄紅の唇をひと舐めした。
「……ならば、その前に。全てを――塵に還すまで」
沈黙の中、再び静寂が満ちた。
だがそこに漂うのは、腐りかけた蓮のような、甘く、けれど禍々しい気配だった。
呪いは、崩れ始めている。
愛が――その解を導こうとしていた。




