怜花宮に棲む妖?
夜の帳がすっかり降りたころ、怜張は静かに怜花宮の裏手へと足を運んだ。
見張りの者たちが控える影の中、目を細めて一言だけ問う。
「……例の“妖”とやらは、出たか?」
「はっ。今宵も現れました。ですが……」
「だが?」
「……人とは思えぬ姿にてございます。猫のような耳と尾、されど人の形をしており……まるで、半妖のような」
怜張はふっと鼻で笑った。
「ふん……噂に尾鰭がついただけだろう。たかが猫一匹、怜花宮に潜むなどと――」
しかし、次の瞬間――
月明かりの下、庭の奥にふらりと姿を現したその者を見た怜張の目が、思わず大きく見開かれた。
静かに歩む影――漆黒の髪が月光に照らされ、揺れている。
猫の耳を頂き、尾を曳いた妖の姿。それでも、その顔だけは――
「……っ、あれは……まさか……!」
心の奥から、凍るような記憶がせり上がる。
(――怜綾……!?)
思わず、息を呑んだ。
あれは忘れもしない顔だ。
あの憎たらしい、腹違いの弟――
幼き頃から周囲の賛辞を独り占めにし、先帝の寵を一身に受け、皆が「あれこそ皇帝になる器」と囁いた。
(――あやつさえいなければ、麗妃の許嫁は私だったのだ)
怜張の中で、眠っていた怒りが蘇る。
幼いながらに常に比べられ、常に後塵を拝していた。
学も、武も、顔立ちさえも――なぜかあやつは何もかもにおいて“選ばれる”側だった。
怜妃が冷宮に落とされた日、心から安堵した。
「これで、もうあやつの顔を見ずに済む」と。
そして十年の時が過ぎた。
だが先帝は、突如として怜綾を呼び戻した。
成長したあやつは、まさに“美しき王の器”。
麗妃との婚姻の噂まで流れ、怒りに震えた。
だが、本殿での謁見の後――怜綾は、忽然と姿を消した。
(そう、あの時、全てが終わったはずだった。母は罪人、あやつも消えた。だからこそ、高妃が私を支え、再びこの立場まで引き上げてくれたのだ)
だが――
(なぜ、あやつがここに? なぜ妖のような姿で生きている!?)
怜張の拳がゆっくりと握られる。
「……面白い。怜綾、お前……まだ、生きていたのか」
怜張は、ふっと薄ら笑いを浮かべた。
(……高妃様に報告すれば、確かに動くだろう。あの女は何より“存在が危ういもの”を忌むからな。今の怜綾の姿なら、躊躇なく始末するだろう)
が、そこまで思い至って――
怜張は、ふと視線を落とした。
(……だが、それでは“面白くない”な)
そう、あやつは今、人間ではない。
この国では、妖は人にあらず。
どれだけ知恵があろうと、力があろうと、“怪異”と見做されれば――その命には何の価値もない。
法も庇わない、記録にも残らない。
(人として処罰する価値すらない。それこそが……あやつの“没落”だ)
怜張は目を細める。
(麗妃も、もうあやつなど見向きもしないだろう。あやつが何者であれ、女は“人間”しか愛さぬ。いや、あやつ自身がそれを一番、分かっているはずだ)
それこそが――最大の罰。
心も、誇りも、愛すらも喪い、名を奪われ、存在ごと闇に葬られる。
(……すぐに始末しては、勿体ない)
高妃に報告するのは、もう少し後でも遅くはない。
じわじわと――
まるで煮えたぎる鍋に落ちる虫のように、怜綾の足元から崩れていく様を見ていたい。
怜張は踵を返しながら、月を見上げた。
「ふふ……そうだ。せっかく“生きていた”のだ。ならば、それを“自ら壊させてやる”のも、兄の務めというものだろう?」
そして、闇へと溶けるように姿を消した。




