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影の狙い火

怜花宮の門が、重たく軋んだ音を立てて開いた。


現れたのは、飾り気のない黒衣に身を包んだ怜張。

その姿には、かつての華やかな第一皇子の気配は薄れつつも、瞳だけは研ぎ澄まされた獣のように鋭く、怜花宮の庭の隅々を静かに見渡していた。


「ご機嫌よう、茗渓殿。……またこの宮に足を運ぶとは、思わなかったであろう」


無言のままお辞儀をした茗渓の背筋に、一筋の冷たい汗が伝う。


(どうして、また――)


警戒の念を隠しつつ、彼女は柔らかく言葉を返す。


「……いえ、皇子様のご訪問など、光栄に存じますわ」


怜張はにこりともせず、縁側に歩み寄る。


「先日、麗妃の膳が乱れた件。あのとき、お前が起こした騒ぎが偶然だとは、私には思えん」


茗渓の指先がかすかに震える。

だが表情は崩さず、微笑を浮かべたまま答えた。


「ただの転倒でしたの。お恥ずかしい限りですわ。転び癖がありまして」


怜張は、その言葉をあざ笑うかのように鼻を鳴らす。


「ふん。――それにしても、ここには“猫”が住み着いているそうだな」


茗渓の心臓が、一度大きく跳ねた。


「……ええ。時折姿を見せる黒猫がいますの。怜花宮にしか懐かない、気まぐれな子です」


怜張は、わざとらしく縁側に腰を下ろし、庭の方へ目を向ける。


「その猫、見せてくれ」


茗渓の喉が、思わず詰まった。


(……気づいた? まさか、あの夜の刺客の件と――)


「……猫は今、この宮にはおりませんの。気まぐれな子ですから、どこかで日向ぼっこでもしているのかもしれません」


茗渓の声は、驚くほど落ち着いていた。

けれどその胸の奥では、心臓が耳元で暴れるように鳴っている。


怜張はしばし黙ったまま彼女を見つめた。

その瞳はまるで、人の皮を剥いでその内側を覗こうとするような、冷たく鋭い色をしていた。


やがて――


「……それは残念だ」


怜張はふっと肩をすくめ、わざとらしく軽い口調で言った。


「この宮に住み着くほどの物好きな猫、さぞ面白い顔をしているのだろうと思っていたのだが」


「いつかまた姿を見せたら、そのときご案内いたしますわ」


笑顔のまま、茗渓は頭を下げる。

その首筋に、冷たい汗が一筋流れた。


「そうだな……では、その日を楽しみにしていよう」


そう言い残して、怜張はゆっくりと踵を返し、怜花宮を後にした。


門が閉まる音が、風に紛れて遠ざかる。


茗渓はその場にしゃがみ込むと、はあっと大きく息を吐いた。


(……なんとか、誤魔化せた)


背中を汗が濡らす。指先が冷たい。


(怜綾の正体が……バレなくてよかった)


ふと顔を上げると、屋根の陰に気配があった。

黒い影――怜綾だ。


けれどその姿を、茗渓はほんの一瞬見上げただけで、何も言わなかった。

言葉にしなくても、伝わるものがあったから。



その頃――


怜張は己の馬車へ戻ると、静かに忠臣へ告げた。


「……あの女だけではない。あの怜花宮には、必ず何か“隠されたもの”がある」


「と、申されますと?」


「女一人であの刺客たちを退けたなど、笑止。そもそも刺客が戻らぬのは妙だ。……あの女の背後に何かいる。あるいは“誰か”がな」


怜張は、指先で懐の文を弄びながら、低く言い放った。


「怜花宮に、密かに見張りをつけよ。出入りする者、音、灯りの数まで――すべて記録させろ。あの女と……その周囲に潜む“何か”を、必ず炙り出してみせる」


「はっ、承知いたしました」


忠臣が静かに頭を垂れる。

怜張の口元に、わずかに笑みが浮かんだ。


「猫か……。馬鹿馬鹿しい話だが、“化け猫”などという噂も、案外、まったくの虚構ではないのかもしれんな……」


その声には、執念とも、狂気ともつかぬ色が滲んでいた――。

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