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影潜む宮

高妃の居殿――香炉の煙が淡く立ちこめる静謐な空間に、怒りの気配が満ちていた。


「……戻らぬ、ですって?」


高妃の白扇が音を立てて閉じられる。その細く美しい指がわななく。


「愚かな者ども……ただの冷宮の女ひとり、始末できぬと?」


怜張は傍らに控え、眉をひそめたまま黙っていたが、高妃の苛立ちが頂点に達したのを感じ取り、重い口を開いた。


「妃上……落ち着かれませ」


「落ち着け、ですって? あの女は一度目も二度目も私の手を逃れている。今度こそ始末しなければ、皇帝の耳に入るやもしれぬのよ」


バン、と机を打つ音が響く。


「……怜花宮で何か変わったことはなくてよ?」


高妃は扇で口元を隠しながら、ふと目を細めて言った。


「そういえば……猫がおります」


怜張の言葉に、高妃が小さく眉を寄せる。


「猫……?」


「はい。怜花宮にいつの頃からか棲みついたようで。妙に人に懐いており、妃の側を離れぬと噂です」


「猫など……そのような獣一匹に手こずっていたというの?」


高妃の瞳が冷たく細められ、扇の骨がギシリと音を立てた。


「まったく情けない……!」


唇の端が吊り上がり、ピリ、と舌打ちが漏れる。


「……怜張」


「はっ」


「再び、怜花宮を訪ねよ。“変わったこと”があれば、それをこの目で確かめねばなるまい。……あの女と、その取り巻きもろとも、消すには“確かな証”がいる」


怜張は静かに頷いた。


「承知いたしました」


「……蘭妃は使い物にならぬ。ならば、すべて我らで決着をつけるまで」


香炉の煙が渦巻く中、高妃の声は低く、鋭い刃のように響いていた。


――そう、あの女を潰すまでは、私の夜は終わらない。


夜の怜花宮は静まり返っていた。

虫の音すら遠ざかる中、庭の片隅にひとり佇む影がある。


怜綾は、低く息を吐いた。

風が吹くたび、右肩に走る鋭い痛みが鈍く疼く。


先日の刺客との戦い。

見えぬ闇の中から放たれた刃を受け、人の姿となって応戦した彼は、深手こそ避けたものの、鋭利な刃が肩を裂いた。


「……まだ治りきっていないじゃない」


声がした。


振り返ると、茗渓が薬箱を抱えて立っていた。

その眉は少し困ったように寄せられ、袖口の奥には手拭いと香のような薬草の匂いが漂っていた。


「猫は傷を隠すのが上手ね……。でも、私は見逃さないわよ」


怜綾が肩を見せると、茗渓は静かに息を飲んだ。

血は止まっていたが、包帯はすでに何度か赤く染め直された跡があった。


「こんなになるまで、どうして……黙ってたの……?」


「言ったら、また責めるだろ」


「そりゃあ、責めるに決まってるじゃない!」


そう言って、茗渓は怒ったように薬を取り出しながら、手が震えていた。

怜綾はその様子をじっと見つめる。


「……私のせいで、こんなことになって……」


ぽつりと、茗渓が呟く。

薬を傷口にあてた指が小さく震えた。


「ごめんね……私が余計なことをしなければ、あなたが傷つくこともなかったのに……」


「違う」


怜綾の声は低かった。だが、確かだった。


「君のせいじゃない。俺が……勝手に、守りたくて動いただけだ」


「でも……!」


「それに」


怜綾は目を伏せたまま、茗渓の手にそっと手を重ねた。


「この傷は、俺にとって……大切なものなんだ。誰かのために戦った証だ。君の命を守った証なら……悪くない」


茗渓の目が揺れた。

声にならない感情が喉に詰まる。


「……バカ」


ようやく出たその言葉に、怜綾が笑う。

ひどく優しく、穏やかな笑みだった。


「知ってる」


包帯を巻き終えると、茗渓はふと顔を上げて怜綾を見つめた。

その金の瞳には、何かを押し殺すような静けさが宿っていた。


いつまでも傍で守るだけでは、彼女は傷つくばかりだ。

自分の存在が、彼女を危険にさらしているのなら――


(……俺が呪いを解くしかない)

そうしなければ、彼女を守りきれない。


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