闇より来る刃
高妃の私殿――
「何の成果もっ……得られなかっただと……!?」
夜更け、鳳凰の文様が彫られた玉椅子を、怒気のこもった掌が叩いた。
静まり返る部屋の中で、ただ高妃の怒声だけが響き渡る。
「趙妃の女狐め……何の役にも立たぬ。蘭妃同様、口だけの飾り物か!」
部屋の隅に控えていた怜張が、慎重に口を開く。
「……しかし、麗妃の膳に何者かが気づいたようです。宴の場で、女が膳にぶつかり、中身を台無しに――」
「女……?」
「はい。蘭妃です。」
「……っ!あの女……!」
高妃の眼が爛々と光る。
「使えぬと思って手を引いた途端に、我が計画を台無しにするとは……あの女、ただの飾り人形ではなかったということか」
悔しさに唇を噛みしめた高妃の掌が、扇をへし折る。
「怜張。あの女を――消しなさい」
「……母上、それは」
「やるのはお前ではない。手は既に回してある。明日中に、怜花宮の冷宮に“夜盗”が入ると知らせが届くだけの話。あの女が消えても、誰一人、涙など流さぬわ」
怜張はしばらく沈黙したが、やがて静かに頷いた。
「……承知しました」
背を向けた怜張の表情は、まるで月の影のように冷ややかだった。
⸻
その頃――怜花宮・夜
冷たい夜風に灯された蝋燭の灯が、寝所の障子を揺らしていた。
茗渓は、薄く開けた障子の向こうに月を見上げながら、一通の手紙を丁寧に綴っていた。
墨に滲む筆先――震える指を止めながら、彼女は祈るように筆を走らせる。
「麗妃様へ
どうかこの手紙が、あなたの元に届きますように。
この宴での膳、何者かの手が加えられていた可能性があります。
私は……確信は持てませんが、あれは“命を奪うもの”だったかもしれません。
今はただ、あなたと、御子の無事を願ってやみません。
どうか、これからはお身体と周囲の動きに、より一層のご注意を。
心より敬意と祈りを込めて――
茗渓拝」
封を折り、胸に一度だけ押し当てると、茗渓は深く息を吸った。
「……私にできることなんて、ほんの小さなことだけど」
それでも、あの膳を壊したあの一瞬に――
「“私が物語を変えられる”って、ほんの少しだけ思えたの」
そうつぶやいて、彼女は文をそっと小箱に収めた。翌朝、信頼できる下女に託すつもりだ。
けれど、そんな茗渓の知らぬところで、すでに“闇の刃”は放たれていた。
怜花宮の外れ、古井戸の影で、黒衣の男が静かに刀を研いでいる。
「次の標的は――冷宮の女か」
研がれた刃が月を映すように鈍く光る。
静寂の中、何かがゆっくりと動き始めていた。
夜の帳が静かに怜花宮を包んでいた。
月は雲に隠れ、風は不穏に揺れている。そんな中、廊下の先を歩く茗渓の背に、ふと冷たい悪寒が走った。
(……何か、いる?)
音はない。ただ、肌を撫でる気配だけが、確かにそこにあった。
その時だった。
――ヒュッ!
「っ……!」
闇の中から飛来した刃が、寸前で茗渓の髪を掠めた。次の瞬間、数人の黒装束の刺客が音もなく現れ、茗渓を取り囲んだ。
「誰!? こんな所に何用!?」
問いかけは応えられることなく、剣の煌めきが殺気と共に襲いかかる。
「くっ……!」
必死に後退し、柱の影へ身を寄せた茗渓。しかし逃げ場はなく、剣が彼女を貫かんと迫る。
――だが、その瞬間。
茗渓が見上げた先にいたのは、一匹の黒猫。金の瞳が闇夜に輝き、その身体がふわりと宙を舞う。
「怜綾……!」
黒猫は茗渓の前に降り立ち、刺客たちに対し、低く唸るように威嚇する。
だが、刺客たちは怯むことなく近づいてくる。
(……猫のままじゃ、勝てない……でも、茗渓が――)
怜綾の脳裏をよぎるのは、彼女の言葉。
「お願い、私の前以外では人の姿にならないで。貴方が生きているとバレたら、また高妃に狙われてしまうから!」
目の前で震える茗渓を守れるのは、自分しかいない。
(……すまん、茗渓)
次の瞬間、怜綾の身体が青白い光に包まれ、黒猫の姿が淡く溶けていく。
現れたのは、人の姿――金の瞳に漆黒の髪。威風を纏った若き男の姿。
刺客たちが一瞬怯んだその隙に、怜綾は一歩踏み込み、鋭く構えた。
「茗渓に指一本でも触れたら、その命、赦さぬ」
言葉と共に放たれた蹴りが一人を壁に叩きつける。
「何者だ……!? 」
「貴様らに名乗る名はない」
再び迫る刃をかわしながら、怜綾は流れるように動く。その体術は、もはや人の域を超えていた。
だが、刺客の一人が茗渓に向かって短刀を振り上げたその瞬間――
「殿下!!」
怒号と共に、屋根から飛び降りてきた影があった。
「天馬……!」
「遅れて申し訳ありません、殿下。今宵の穢れ、私がすべて斬り捨てましょう」
天馬の剣が月明かりの下、まばゆく閃く。
「下がれ、茗渓殿!」
叫びながら彼女の前に立ち、刺客を斬り伏せる。怜綾と天馬、二人の剣が交差するたび、夜の闇は裂かれていく。
「殿下、敵は高妃の差し金と見て間違いありません」
「……ああ、だが今は、こやつらをすべて退けるのみ」
そう答える怜綾の眼差しには、確かな怒りが灯っていた。
やがて、最後の一人が気を失い、夜に沈んだ。
……静寂が戻る。
「怜綾……!」
膝をついたまま震える茗渓の元に、怜綾がそっと歩み寄り、手を差し出す。
「怪我はないか」
「……うん。ありがとう」
その手を取った茗渓の目には、涙が滲んでいた。
「また……助けられちゃったわね」
「ふっ、毎度のことだ」
「……でも、ダメよ。今度は私が、あなたを守る番だから」
怜綾は何も言わず、彼女の手を優しく包み込んだ。
――その目には、言葉にならぬ想いが揺れていた。




