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白火に焼く誓い

「……麗妃様が、懐妊なされたそうです」


その言葉を聞いた瞬間、茗渓の手にした茶碗がかすかに揺れた。


報せを届けたのは、怜花宮に野菜を届けに来た下女だった。歳は若く、口が軽いことで知られる娘だ。だが、その無邪気な笑顔の奥に、茗渓は確かな“宮の空気”を感じ取った。


「誰が……そのことを?」


「今朝、朝議の後に、皇帝陛下ご自身がお触れになったそうです。御璽を賜り、正式な“懐妊の印”も……。近いうちに、祝宴が開かれるとか」


茗渓の心臓が、どくんと大きく脈を打つ。

予想よりずっと早い展開に、冷たい汗が背を伝う。


(絵巻では、麗妃の懐妊が明らかになるのはもっと後……物語が、またずれてる……!)


――そして、同時に脳裏に閃くのは、あの夜掘り出した包み。


怜花宮の裏、柔らかな土に隠されていた“堕胎薬”。


(あれがもし再び使われれば……)


ぞくりとした悪寒が、全身を駆け巡った。


「……だめよ。この世界に来た私が、黙っているわけにはいかない」


彼女は静かに決意する。

たとえこの物語が定められた絵巻でも、自分の意志で選び直せるはずだと。


その夜。茗渓は堕胎薬の包みを前に、しばし座り込んでいた。


(どうすれば、これを……人に知られず、誰にも害を与えず、確実に処分できる?)


宮中の火は全て管理下にある。下手に燃やせば怪しまれる。

水に流すのも、毒素が残れば誰かの口に入るかもしれない。


(……“白火”しか、ない)


“白火”――それは、祓具所で用いられる特殊な浄火。

古紙や呪物、祈祷用の草木を灰に還すために使われ、焼かれたものは**「記憶と形を残さず、無に帰す」**とされている。


だが、その火は限られた日、限られた人間しか扱えない。


(幸い、明日は五曜の“清浄日”。白火が祓具所に灯される……)


茗渓は深夜、慎重に身支度を整えた。

堕胎薬の包みを袂に隠し、祓具所の裏道を抜ける。


月明かりが、彼女の影を静かに伸ばしていた。


祓具所に着いた時、白火はすでに香炉の中に燃えていた。

僧侶たちの読経の合間を縫い、茗渓は静かに火の近くに歩を進める。


「……どうか、この罪を。誰も知らぬまま、無に還してください」


祈るようにして、堕胎薬の包みを火に落とす。


白火がぱっと高く揺れ、薄く青白い炎が包みを飲み込む。


煙も音もない、清らかな灰となって――それは跡形もなく消えた。


(これで、少なくとも“あれ”を使われることはない……)


けれど、茗渓は知っている。

これで終わりではないことを。

絵巻は、また別の筋を“探す”かもしれないということを――


だが、今の彼女には確かなものが一つある。


(私はもう、“絵巻の登場人物”なんかじゃない)


(私の運命は、私が決める)


そう強く誓って、茗渓は静かにその場を後にした。


夜――。


後宮でも特に奥深く、絹張りの障子で外界から完全に隔てられた高妃の私室は、静まり返っていた。

風ひとつ通わぬ重い帳の中、灯された香炉の煙が淡く揺れている。


部屋の中央に、絹織の裳を優雅にまとった高妃が、静かに座していた。

その眼差しは涼しげでいて、深い夜のように底が見えない。


障子の向こうで衣擦れの音。やがて、姿を現したのは――怜張だった。


「……母上。こんな夜更けに、急に呼ばれては、怪しまれましょう」


「怪しまれて困るほどの立場でもあるまい。今のそなたは、第二皇子。言葉を選びなさい」


ピシャリと切るような声音。

怜張は顔を曇らせながらも、床に膝をついた。


「……御意」


高妃は、しばし黙ったまま、香炉の煙を見つめる。


「そなた、最近“蘭妃”の動向を耳にしておるか」


怜張の眉がぴくりと動いた。


「……冷宮にて、のうのうと過ごしていると聞きました。……“あれ”の話ですか?」


「あれ、でよい。もはや蘭妃など“名ばかり”の存在。

かつてはこの私の切り札ともなりえたが……今となっては、使い物にならぬ」


高妃は、冷たく鼻で笑った。


「よいか、怜張。蘭妃は切り捨てよ。

予測できぬ女を使うなど、愚の骨頂。道具とは、掌の内で転がせてこそ役に立つ」


「……それで? 今回は、誰を使うおつもりで?」


高妃はゆっくりと口元を歪めた。


「趙妃よ」


「趙妃……!?」


怜張は驚いたように顔を上げた。

趙妃は表向き、宮廷の端で静かに暮らす一妃に過ぎない。だが――


「思い出せ。あの女は麗妃を憎んでいる。“正一位”の座を奪われたと未だに恨んでいる。

私が言葉をかければ、喜んで“手を汚す”さ」


「まさか……」


「そう。麗妃の膳に、薬を忍ばせる。それだけでよい」


怜張は息を呑む。


「……堕胎薬を……」


高妃は頷いた。


「麗妃が男子を産めば、その子が皇太子となろう。

そなたはもう、“次の皇帝”にはなれぬ。だが、“皇帝の弟”としても居場所を失えば……」


「……」


「皇子が産まれれば、そなたの血筋は、完全に霞む。

だがその子が――産まれなければ?」


高妃の声が甘く低く、毒のように染み渡っていく。


「……母上。私は……」


「そなたのためなのよ、怜張。今ここで動かねば、お前の未来など、どこにも残らぬ」


障子の隙間から射す月光が、怜張の頬を静かに照らしていた。

その目には、母に対する忠誠と、わずかな恐れ、そして――自分自身への迷いが揺れていた。


「……趙妃に、伝えておきます。方法も、用意も、手配します」


「よい子ね。さすが、我が子」


高妃は微笑みながら、紅の盃をゆっくりと傾けた。


「蘭妃など不要。これからは――“正しく動く者”だけが、生き残るのよ」


その盃の中に揺れる液体は、どこか黒く、深く、夜の底のようだった。

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