愛隠の呪
扉が開かれた先――そこは、不思議な静寂に包まれていた。
古びた石造りの空間。
天井は高く、月光の差し込む隙間すらないのに、どこからか淡く青い光が降り注いでいた。
まるで時が止まったかのように、埃ひとつ舞っていない。
その中心に、ぽつんと一つの台座があった。
漆黒の石で造られた円形の台。その上に置かれていたのは――
一冊の、本。
表紙は深い黒に覆われ、装飾もなければ文字すら記されていない。
だが、その存在感は圧倒的だった。目にした瞬間、息が詰まるような重圧が茗渓と怜綾を押し包む。
「これが……」
怜綾が低くつぶやく。
「本物の、“冥月之書”じゃ」
烏瓏がそう言って、ゆっくりと台座へと近づいていく。
彼女の指先がそっと本に触れ、頁を開くたびに、魔のような風が吹いた。
古の呪文が眠るその書物は、決して凡庸な存在ではなかった。
やがて、一つの頁で手を止める。
「見よ――これが、お主の背負った呪いの正体じゃ」
茗渓と怜綾が覗き込むと、そこには淡い銀の文字でこう書かれていた。
⸻
『愛隠の呪』
――真に心を通わせた者にしか解けぬ、深き情の呪縛。
呪われし者は、日々を獣の姿で生き、夜ごとに魂を失う。
この呪は、“誰かに愛されること”ではなく、“自らが心から愛し、その者と想いを通じ合わせること”で解呪される。
だが、その道は困難を極め、誤れば、呪われし魂は永劫の闇に沈む。
「……!」
怜綾の目が見開かれる。
茗渓もまた、思わず言葉を失った。
「……つまり、“誰かに愛されるだけ”では駄目。自分が、心から――」
「そういうことじゃ」
烏瓏の声は厳しくも優しかった。
「“心から愛した者”と、“心を重ねること”……それこそが、この呪いを解く唯一の道。どれだけ呪術に長けた者であっても、この呪いだけは、他人の手では解けぬ」
怜綾の胸が高鳴った。
これまで何度も「呪いを解く手段」を求めてきた。
それがこんなにも――不確かで、けれど、あまりに人間らしい方法だったとは。
怜綾は無意識に、茗渓の横顔を見つめた。
だが茗渓はまだ、呪いの文章を読み続けていた。
――“呪われし魂は、永劫の闇に沈む”。
「……この呪いは、ただの“試練”などではないのですか?」
茗渓がぽつりと問うと、烏瓏は静かに首を横に振った。
「それは、“滅びの呪い”じゃ。愛を得られなければ、生きながらにして魂は摩耗し、いずれ完全に“存在”を失う。心も、記憶も、形すらも」
怜綾は拳を握った。
(俺が……消える……?)
その恐ろしさに、背筋が凍える。
だがそのとき、隣にいた茗渓がそっと、怜綾の手を握った。
「私は、絶対にそんな風にはさせない。だから……」
「……だから?」
「これからも一緒に、探しましょう。“あなたの呪い”を、解くための道を」
怜綾は言葉を飲み込んだ。
胸の奥が、痛いほど熱くなる。
(……君が“鍵”なのか?)
だが、まだ彼はその想いに名前をつけることができなかった。
扉の奥――“冥月之書”の真実は明かされた。
だがそれは、始まりにすぎなかった。
呪いの正体を知った今、茗渓と怜綾の心の距離は、ゆっくりと――けれど確かに、変わり始めていた。
廃寺の静けさを割るように、烏瓏はふいに袖の中から、小さな銀の容器を取り出した。
「これを持っていけ」
怜綾と茗渓が目を向けると、彼女は真剣な眼差しのまま、それを怜綾に差し出した。容器は指先ほどの大きさで、月のように白く鈍く輝いていた。
「これは――《影輪露》と申す、丹薬じゃ」
「……丹薬?」
怜綾が慎重にそれを受け取ると、容器の蓋に刻まれた印が目に入った。蛇と月を象ったような、禍々しくも美しい文様。
「それは一時的に、お主の本来の姿に戻すことのできる薬。ただし――」
烏瓏の声が低くなる。
「使えば、その代償として身体を内側から裂かれるような刺す痛みに苛まれる。そしてその効力は、わずか十二刻―」
怜綾は息を呑んだ。
「たった、十二刻……」
「そう。しかも、この世に残るのはその一つきりじゃ。どんな場で、どんな理由で使うか……よく見極めるのじゃ」
怜綾は黙って頷き、丹薬を袖の中に仕舞った。
その横で茗渓はじっと彼を見つめていた。
それは、ただ人の姿に戻るためだけではなく――この呪われた運命に立ち向かうための、刃にもなりうる選択だった。
「……ありがとう」
低く、怜綾が言った。
その言葉に、烏瓏はただ一度だけ、意味深に微笑んだ。
「願わくば、その時――お主の傍に、その手を握ってくれる者がいることを」
その瞬間、怜綾の金の瞳がほんの一瞬、茗渓を横目に見た。
けれど、すぐに目を逸らした。
外では風が鳴いていた。
風裂の廃寺の扉が、再び閉ざされようとしていた。




