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烏瓏

翌朝。

まどろみの中で、茗渓はうっすらとまぶたを開けた。


古民家の屋根の隙間から、木漏れ日が差し込んでいる。

火はすでに落ちており、室内は静まり返っていた。


「……怜綾?」


隣を見やると、そこにいるはずの小さな黒猫の姿がない。

ふいに胸がざわついた。


身体を起こしかけたその時だった。


「……ああ、目が覚めたかえ?」


ぎし、と床板が軋む音。

戸口のほうからゆっくりと現れたのは、昨日街で出会った、あの老婆だった。


だが、茗渓の視線はすぐにその腕へと吸い寄せられた。


「……怜綾……!」


老婆の腕の中に、すやすやと眠る黒猫。

――怜綾だった。


「何してるの、その子を離して!」


茗渓は反射的に立ち上がり、老婆に詰め寄った。


「返して、お願い、怜綾に何をする気なの!?」


老婆はその様子を見て、ふう、と小さく息を吐いた。


「……ずいぶんと慕われておるのう、この黒猫も」


「黙って、離してよ!」


老婆は怜綾をゆっくりと膝に乗せながら、茗渓を見つめた。


「こやつが……呪われし者か?」


茗渓は一瞬だけ迷ったが、怜綾のためにも、真実を告げる決意をする。


「ええ。そうよ。彼が……怜綾が、呪われているの」


その瞬間、老婆の顔から笑みが消え、目の奥に鈍く光が灯った。


「ふむ……やはり、そうか……」


「どういう意味?」


茗渓が問いかけると、老婆は静かに、けれどどこか重々しく口を開いた。


「この呪いは――少々、厄介じゃ」


「……!」


「呪詛は、ただかけられた時の力だけではない。その後、どれだけ“恨み”が積み重なったか、どれだけ“記憶”に塗れてきたかでも強さが変わる。この子の呪いは……長い年月と共に、絡みつくように育っておる」


老婆の目は、まるでその奥の何かを見透かすようだった。


「それでも、解ける……?」


そう問う茗渓の声には、焦りと不安がにじんでいた。


老婆はしばらく茗渓を見つめてから、ゆっくりと頷いた。


「ただし、“鍵”が必要じゃ。その鍵を……おぬしが握っておる」


「私が……?」


その時、怜綾が小さくぴくりと動いた。老婆の腕の中で、ゆっくりと目を覚まし始める。


「よく目を凝らすのじゃ、おなご。この世の“真の呪い”は、誰がかけたかよりも――誰に忘れられたかで決まる」


老婆の声は不思議な響きを持って、部屋の空気をわずかに震わせた。


その言葉の意味を、茗渓はまだ完全には理解できなかった。

けれど、自分と怜綾の運命が、思ったより深く絡み合っていることだけは、ひしひしと感じていた。


怜綾は、微かに香る薬草の匂いと、胸元に感じる人肌の温もりで目を覚ました。

まどろみの中で瞼を持ち上げると、自分を抱えている老婆の顔が視界に飛び込んでくる。


「……なっ……!」


すぐさま身をよじり、ふっと跳ねて老婆の腕から飛び降りる。

毛を逆立て、背を丸め、牙を剥いて威嚇した。


「シャアアアアッ!」


「まあまあ、落ち着け落ち着け、猫殿」


老婆はひるむことなく、逆に優しげに微笑んだ。

その掌が、すっと怜綾に向けて差し出された。


「お主がどんな姿をしておるのか、見せてみぃ」


次の瞬間――


怜綾の身体を、ぞくりとするような冷たい風が吹き抜けた。


「……ッ……何だ、これは……?」


ふいに足元がふらつく。

いや、違う。自分の足が、前脚ではなく――“人の足”に戻っている。


怜綾は驚愕し、己の手を見下ろした。


――猫の前脚ではなく、白くしなやかな指のある、人間の腕だった。


「……な、なぜ……今は……昼……!」


月の出ていない真昼間――

本来なら決して人間に戻ることのない時間帯に、怜綾は完全に人の姿を取り戻していた。


「お前、何をした……!」


怜綾は咄嗟に距離を取った。

黒衣の裾が畳に広がり、金の瞳が鋭く老婆を射貫く。


老婆はどこか得意げに笑った。


「ただ、お主にかけられた呪いの“縁”を少しだけ解いたまで。完全にではないがな。せめて話ぐらいはできる姿になってもらわねば困るでの」


「……いったい何者だ……」


「さてのう。そういうお前こそ……己の呪いをどこまで知っておる? 誰に、何のためにかけられたのか――そして、なぜお主だけが“忘れられて”おるのか」


怜綾は息を呑んだ。

茗渓が少し離れたところで、何もできずに二人を見つめている。


怜綾の中にざわりと何かが蠢いた。


この老婆は、確実に“知っている”。

自分の呪いの正体と、恐らく――それを解く方法までも。


「貴様……ただの街の老婆ではないな」


「そう思うなら、なおさら話してみぃ。わしは“お主の時間”を少しだけ進めてやった。それ以上を知りたければ、そちらも少しは譲ってもらわねばのう」


怜綾は静かに茗渓へと視線を送る。


彼女は心配そうにこちらを見つめているが、その瞳の奥に――強い信頼が宿っていた。


怜綾は小さく息を吐き、表情を引き締めた。


「……分かった。話そう。呪われしこの身のことを――俺のすべてを」


その瞬間、老婆の口元が、まるで待っていたかのように笑みを描いた。


「それで良い。ようやく、夜が明けるわい」


古民家の中は、昼とは思えぬほど薄暗く、窓から差し込む光が埃の粒を金色に照らしていた。

老婆は怜綾と茗渓を手招きし、囲炉裏の傍らにある木製の椅子を指差した。


「ほれ、そこにお座り。身体も落ち着いたじゃろう。……話を聞かせてくれんか?」


怜綾は一瞬、茗渓を横目で見た。

彼女は頷き、静かに椅子へ腰かけた。

それを見て、怜綾もため息まじりに向かいの椅子に座る。


「……分かった。全部話そう」


怜綾は胸元に手を置き、一呼吸置いたのちに、ゆっくりと語り始めた。


母が先帝の寵妃だったこと。

ある日突然、謀反の罪を着せられ、冷宮に幽閉されたこと。

そして、冷宮で人知れず命を落とした母の死。

自分もまた、“忘れられし者”として呪いをかけられ、黒猫として閉じ込められたこと。


「呪いをかけたのは、陰陽師・雨魘。高妃の側近にして、最も危険な術を扱う男だ」


怜綾の声は淡々としていたが、その背後には、深く沈んだ絶望が滲んでいた。

彼の語る言葉の一つひとつに、茗渓は息を呑み、真剣なまなざしで耳を傾けていた。


すべてを語り終えたとき、老婆はしばし沈黙した後、ぽつりと口を開いた。


「……やはりのう。わしの見立てに、狂いはなかったようじゃ」


そして、まるで機を見ていたかのように、にやりと笑いながら続けた。


「さきほど、わしがそなたにかけた術――“月呪げつじゅ”じゃ。聞いたことはあるまい」


「月呪……?」


怜綾が眉をひそめ、茗渓も反射的に老婆へ顔を向けた。


「月呪は、冥月之書に記されし“月下の転身術”の一つ。生まれながらにかけられた呪いの性質を一時的に“可視化”し、現す術よ。人の姿に戻したのではない。ただ、呪いの覆いを一時外したまでじゃ」


「じゃあ……」


「お主にかけられている呪い、それはまさしく――冥月之書に記された“真呪”の系統。そうでなければ、月呪が通じるはずもない」


老婆の目が鋭くなり、焚き火の灯りがその皺深い顔に怪しげな影を落とした。


「つまりこういうことじゃ。お主にかけられた呪いは、“冥月之書の中に、確かに存在する呪い”ということ。ゆえに、それを解く鍵もまた、冥月之書にある」


「だが――」怜綾は苦々しく眉を寄せた。「俺たちが見つけた冥月之書は、偽物だった」


「ふむ、それも想定の範囲よ。冥月之書は代々、“写し”が作られ、各地に散っておる。だが、“真本”はただ一つ。写しには、真の呪詛の根幹は記されておらぬ。封じられているのじゃ」


「……だったら、その真本を探すしかない」


怜綾の瞳が、再び鋭い光を宿す。

彼の隣で、茗渓も小さく頷いた。


「……ねえ。老婆さま。あなたは、冥月之書の真本がどこにあるか……知っているの?」


ゆっくりと問いかける。


「――それで、お主らは本当に……この“わし”を、信じるつもりか?」


その声はどこか試すようで、かすかに震えていた。


茗渓と怜綾は顔を見合わせた。

長い沈黙のあと、茗渓が小さく息を吸い、怜綾もそっと頷いた。


「……信じます。貴女しか知らないことを、知っているのだから」


「俺もだ。――信じてみる価値はある」


老婆はその言葉を聞くと、ふっと口元を緩め、そして静かに立ち上がった。


「……ふふ、それならば。ここでは話せぬこともある。見せねばならんものがあるでの」


そう言って、老婆は両手を天に掲げた。


次の瞬間、彼女の口から意味を成さぬ古代語のような詠唱が漏れた。

その言葉に呼応するように、空気がざらつき、家全体が軋み始める。


「な、なに……っ?」


茗渓が目を見開く。怜綾もすぐに茗渓の腕を庇うように前に出た。


だが、老婆の瞳は恐ろしく静かだった。


「目を閉じるな。揺れるぞ」


その言葉と共に、空間がねじれた――。

視界がぐにゃりと歪み、古民家の床も壁も、まるで墨が滲んだように溶けていく。


風が吹いた。どこからともなく、冷たく、乾いた風が頬を撫でた。


そして――次に彼らが目を開けた時、そこはまったく別の場所だった。


天を裂くように折れた柱、崩れかけた石の門、干からびた供花。

夜の闇に沈むその場所は、まさに時に忘れられたような廃寺だった。


「ここは……?」


「――風裂の廃寺じゃよ」


老婆は言った。どこか懐かしむような口調で。


「ここは、かつて“月呪”が生まれた場所。そして……冥月之書の“真本”が封じられていたとされる地でもある」


茗渓と怜綾は、その言葉の意味をかみしめながら、廃寺を見上げた。

どこかで梟が鳴き、風がまた、二人の裾をかすめていった。

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