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黒猫が見た夜

蒼陰宮からの帰り道、空はすっかり陰っていた。


低く垂れこめる雲が月明かりを覆い、ぽつり、ぽつりと冷たい雨粒が頬を打つ。やがてそれは音を立てるほどの雨へと変わっていった。


「わ、けっこう降ってきたわね……」


怜綾は猫の姿に戻っていた。茗渓の肩にちょこんと乗ったまま、濡れるのを気にする様子はない。けれど、茗渓はその小さな身体が濡れるのを見ていられなかった。


「風邪ひいたら大変よ。こっちにおいで」


そう言って、彼女は怜綾を抱き上げ、羽織の中にそっと包み込んだ。自分の体はどんどん濡れていったが、気にしなかった。いや――気にする余裕がなかった。


冷えた石畳を走り抜け、やっと怜花宮へたどり着いた頃には、茗渓の髪も衣も、すっかり雨に濡れていた。



「なんか今日は……体が重たいわ……」


翌朝、茗渓はごろりと寝返りを打ち、ぼんやりと天井を見つめていた。


熱っぽい身体の芯がじんじんと疼いている。視界もどこかぼんやりとしていて、いつものように身体が動かない。


「もしかして……熱、かしら……」


額に手を当てて確認しようとするも、手のひら自体が熱を帯びていてよくわからない。


「熱なんて……何年ぶり……?」


ぽつりと呟いたその声に、猫の怜綾が近くの棚の上からぴょんと飛び降りた。心配そうに鳴きながら、布団の脇にすり寄ってくる。


「だいじょうぶ……すぐ治るわよ。きっと」


けれど、次の瞬間にはもう、彼女はぐったりと布団の中に潜り込んでいた。


「今日は……寝る……」


ひとつ咳き込み、茗渓は目を閉じた。


夜――


怜花宮に静寂が降りるころ、月が雲の切れ間から姿を現した。


その銀の光が障子を透かして差し込んだ瞬間、茗渓の枕元に丸まっていた黒猫の姿が、ゆっくりと変わっていく。


音もなく、ひとのかたちが現れる。


黒衣をまとった青年――怜綾は、茗渓の寝台の傍らにそっと膝をつき、彼女の額に触れた。


「……熱が、下がらないな」


彼女の頬はまだ赤く、時折うわごとのように小さな声を漏らす。


「……ん……怜……綾……?」


「……起きるな。もう少し眠っていろ」


その手つきは慎重で、やさしい。まるで、壊れそうなものに触れるかのようだった。


「侍医の一人でも呼べればいいんだが……。今の俺には、それもできない」


苦々しく呟いて、怜綾は自分の無力さに唇を噛む。


(俺が、皇子としてちゃんと立っていれば……お前を、こんなふうに一人で苦しませることもなかったのに)


冷宮に閉じ込められ、呪われ、忘れられた存在――そんな自分では、何も守れない。


怜綾は、掛け布団の隙間からそっと手を差し入れ、冷たく湿らせた布で茗渓の額を優しく拭った。


何度も、何度も。まるで何かを祈るように。


「すまない……俺がもっと、しっかりしていれば……」


その声は彼女には届かない。


けれど、怜綾の胸の奥に広がっていくこの感情は、確かに彼の中で変わり始めていた。


以前は、彼女の優しさを利用しようとしていた。呪いを解く鍵として、彼女の心を手に入れようとさえ思っていた。


でも、今――その考えは、すっかり変わってしまっていた。


「君が……苦しいのは、嫌だ」


茗渓が弱く眉を寄せた。怜綾は思わず手を引きかけたが、彼女の手が、寝ぼけたように彼の指先をつかんだ。


「……ん……怜綾……どこ、行かないで……」


その声に、怜綾の瞳が揺れた。


「……ああ、ここにいる。どこにも、行かない」


そっとその手を握り返す。


――守りたいと、初めて思った。


呪いの解呪でもなく、皇位への執着でもない。ただ、目の前のこの人を。


布団に顔を埋めたままの茗渓の額に、そっともう一度布巾を当てた。


「……だから、早くよくなれ。俺が、君を守るから」


夜の風が障子の隙間をすり抜け、遠くの竹が音を立てた。

けれどその部屋の中には、ただ静かな体温と、言葉にしない祈りだけが、確かにあった。


夜が明け、淡い陽射しが障子越しに差し込む。

怜花宮の寝台の上、茗渓はゆっくりとまぶたを開けた。


まだ少しだけ頭がぼんやりする。だが、昨夜のような熱の重さはもう感じられなかった。


「……あれ? 意外とスッキリしてる……」


ふと視線を落とすと、自分の枕元に、ふわりと黒い塊が丸くなって眠っているのが見えた。


「……怜綾……?」


猫の姿をした怜綾が、彼女の顔のすぐ近くで、まるで寄り添うように眠っていた。


その小さな寝息が、静かな部屋にかすかに響く。


茗渓は、優しく指をのばし、その艶やかな黒い毛並みにそっと触れた。


「ずっと……そばにいてくれたのね」


その声に、怜綾の耳がぴくりと動いたが、まだ目は覚まさない。


茗渓はふっと微笑み、布団からそっと身を起こすと、静かに寝台を後にした。


 *


怜綾が再び目を覚ましたのは、朝もかなり日が高くなってからのことだった。


猫の姿のまま、ふああとあくびをし、柔らかく伸びをする。


(…ん?)


部屋の中に茗渓の姿がないことに気づき、すぐに警戒心が芽生えた。


(まさか、まだ体が治ってないのに動いたのか……?)


不安を胸に、障子を開けて外へ出ると――


怜綾の金色の瞳が、ぱちくりと瞬いた。

庭の畑の隅で、茗渓がしゃがみ込み、野菜の葉を丁寧に摘んでいる姿があった。

袖をたくし上げ、額にはうっすら汗すら浮かべている。


「はい、これで薬草が三日分は持つわね……ふふっ、さすが私!」


(……おい)


怜綾は猫の姿のまま、石灯籠の陰からそっと彼女を観察しつつ、口元を引きつらせた。


(昨晩は高熱で寝込んでいたのに、なんだこの回復力……)


あまりにも元気そうに動き回る茗渓の姿に、呆れを通り越して、怜綾は肩を落としかけた。


(何より……よかった。熱は、もう下がったんだな)


気づけば、怜綾の心にあった重たいものが、ひとつ溶けていくのを感じた。


それはきっと――安堵。

彼女が無事だったことが、何よりも嬉しかったのだ。


怜綾は、そっと跳ねるように庭へ降り立ち、茗渓のもとへと歩いていった。


「ん? あっ、怜綾!」


茗渓が気づいて笑顔で振り返る。


「おはよう。よく眠れた?」


怜綾は「にゃあ」と一声だけ返した。


――人間の姿になれば、きっと伝えたい言葉はたくさんある。

でも今は、ただこの姿のまま、彼女の無事を目に焼きつけるだけでいい。


小さな黒猫は、その場にちょこんと座り、静かに彼女の作業を見守っていた。


夜の帳が下り、怜花宮の庭先は淡い月光に包まれていた。

虫の音が静かに響き、風が簾をさらさらと揺らす。


茗渓は湯上がりの髪を乾かしながら、そっと縁側に出た。

すぐ近くには、すでに人の姿になった怜綾が座っていた。

黒の衣に月明かりが淡く反射し、その横顔は静かに夜を見つめている。


「……怜綾」


呼びかけると、怜綾はちらりとこちらを見たが、何も言わず視線を戻した。


「今日ね、すごく体が軽かったの。昨日まであんなに熱があったのに……信じられないくらい元気で」


そう言いながら、茗渓は隣に腰を下ろす。


「きっと、あなたがずっと看病してくれたおかげよ。ありがとう、怜綾」


その言葉に、怜綾の肩がぴくりと動いた。

けれど彼は横を向いたまま、わざとらしくあくびを一つする。


「ふん……別に。暇だったから、そばにいただけだ」


「ふふっ、またそうやって照れ隠しする」


「照れてなどいない」


少し拗ねたような声音。

でもその耳が、ほんの少しだけ赤く染まっているのを茗渓は見逃さなかった。


「でも、ちゃんと伝えたいの。あなたがいてくれて、本当に助かったわ」


「……勝手に恩を感じるのは自由だが」


「それでも、嬉しいのよ。あなたが、私のそばにいてくれるのが」


その言葉に、怜綾は不意を突かれたように茗渓を見た。

金の瞳が、わずかに揺れる。


しばしの沈黙の後、怜綾はわざとそっぽを向き、低く呟いた。


「……まったく、君というやつは」


その声に、茗渓はくすりと笑った。


二人の間を、夜風がそっと通り抜けていく。

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