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封印は月に囁く

昼下がり、怜綾と茗渓は、人目を避けて怜花宮の裏庭にある古井戸跡へと向かっていた。


怜綾は、井戸の縁に小さく腰を下ろした。彼の手には、一枚の薄い紙が握られていた。


「陰陽師たちがかつて集まっていた閣――蒼陰宮。その最奥に、烏瓏に関する文献が残されているらしい」


「蒼陰宮……?」


茗渓はその名に聞き覚えがなかった。だが、どこか禍々しい響きを感じた。


「もともと、陰陽師だけが立ち入ることを許された宮。その中でも、烏瓏に関する書は昏理書苑という文庫に封じられている。だが――」


怜綾の表情が曇る。


「今ではその宮全体が、後宮の最奥……つまり皇帝以外は立ち入れない領域に封印されている」


「じゃあ……どうやって入るの?」


「……それが問題だ」


怜綾はしばらく黙ったあと、真剣な目で茗渓を見た。


「茗渓、君は俺を信じられるか?」


茗渓は目を見開いた。だがすぐに、静かに頷く。


「……信じてるわ。でも、なにを……?」


怜綾は言った。


「俺が猫の姿で、蒼陰宮に忍び込む。内部の構造を探って、君を導く。それしか手はない」


「……危険じゃないの?」


「危険だ。だが、やるしかない。もしも蒼陰宮の中に烏瓏に関する情報があれば、きっと……俺の呪いを解く糸口になる」


「……わかった。でも、無理はしないで。帰ってこられないなんて、やだよ」


怜綾はふっと笑った。


「帰るさ。君が、待ってるからな」


その言葉は月よりも柔らかく、どこか切なかった。


その夜、風が静かに方向を変えた。

怜綾は再び黒猫の姿となり、屋根を伝いながら、禁忌の地――蒼陰宮へと向かう。


知られざる扉の奥。かつて封じられた陰の理が、今、再び開かれようとしていた――。


夜の帳がすっかり後宮を包み、月だけが蒼白い光を投げかけていた。


怜綾は黒猫の姿で、静かに蒼陰宮の塀を越える。

その宮は長年放置されていたようにひっそりと佇み、門には蜘蛛の巣と風化した封札が絡んでいた。


(今なら、誰にも見つからない……)


先帝の代には重く封じられていたというこの場所も、今では皇帝の関心から外れ、夜は警備すら置かれていないという。


(本当に、“ここに鍵がある”なら――)


怜綾はそのまま瓦屋根を伝い、月影を縫うように進んでいく。

苔むした中庭を越えた先、古びた回廊の陰で彼の体がふっと揺らぎ始めた。


月がちょうど雲間から顔を出し、淡い光が猫の身体を包み込む。


黒猫の姿が静かに崩れ、代わりにしなやかな青年の体躯が月下に立った。

漆黒の髪、鋭い金の瞳、黒衣の裾がひるがえり、肩越しに振り返る。


「……よく、ここまで来られたな」


その声に、茗渓がぴくりと肩を震わせた。


「……怜綾?」


振り向けば、柱の陰に人影があった。

月に照らされる横顔。怜綾が見間違えるはずのない、あの少女。


「驚かせてごめんなさい。……でも、黙って見送るなんて、できなかった」



蒼陰宮の奥、古びた回廊を抜けた先。

二人は、刻印のついた重い扉の前に立っていた。


そこには――かつて陰陽師たちが禁術と知識を編んだ、昏理書苑の扉。


幾重にも貼られた封札。黒く焼け焦げた結界痕。

中央にはひときわ目立つ“烏”の印が刻まれている。


怜綾がそっと手を伸ばそうとした、そのとき――


「……待って」


茗渓が前に出た。


「なぜか分からないけど、ここ……開けられる気がするの」


そう言って、手のひらを刻印に当てた瞬間――


ギィィ……


という鈍い音を立てて、扉がゆっくりと開いていった。


怜綾は目を見張った。


「まさか……結界を破ったのか……?」


「私、何もしてない。ただ、触れただけ……」


その瞬間、室内から微かに何かが動く気配があった。

――それはまるで、“書”が目を覚ましたかのような。


(やはり、この場所が……茗渓を選んだのか)


怜綾の胸に、強く張り詰めた何かが震えた。


「……中に、行こう」


茗渓の手を取り、怜綾は歩き出す。

古より閉ざされていた禁書の扉が、今、再び開かれた。


そこに待つものが、希望か、絶望かはまだわからない。

けれど――

扉の軋む音が静寂を裂いた。

怜綾と茗渓は、薄暗い書苑の内部へと足を踏み入れる。


外界から隔絶されたその空間は、まるで時の流れすら忘れたかのようだった。

高く聳える書架がいくつも並び、天井に届くほどの巻物と書物が重ねられている。

蝋燭は一本も灯っていないはずなのに、どこかから青白い光が書棚を照らし、影を落とす。


「……なんだか、息をするのも憚られるわね……」


茗渓の言葉に、怜綾は小さく頷いた。

ここは間違いなく、“普通ではない場所”だった。


一歩、また一歩。ふたりは書架の間を進んでゆく。


古い羊皮紙の香り、焦げた墨の匂い――

それらの合間に、微かに血のような鉄臭さが混ざっていた。


「この辺りの書物……ほとんどが呪詛関連だ」


怜綾は一冊、ぼろぼろになった書物を引き抜く。

指で頁を繰ると、中には禍々しい文字と、図案化された呪印が記されていた。


「……どれも、知らない符号と術式ばかり。さすがにここは……格が違うな」


そのとき、茗渓が低い声で呟いた。


「――見て、これ」


彼女が指差したのは、ある棚の一角。

そこには金属製の鎖で閉ざされた数冊の本が、厳重に封じられていた。


怜綾が近づいてみると、そこに一冊だけ、“特別な名”が刻まれていた。


 『烏瓏筆記』


怜綾の目が見開かれる。


「……烏瓏うろう……!」


金色の文字はかすれていたが、確かにそう読めた。


鎖の結び目に触れると、突然それはぱたりと解けて床に落ちた。

まるで持ち主の許しが出たかのように。


中の頁をめくると、精緻な筆致で呪詛と解呪の理がびっしりと記されていた。

どの頁も、数十年では書き上げられぬ密度。


その知識の深さに、怜綾は背筋が冷たくなる。


「これ……本当に人が書いたのか……?」


茗渓が静かに呟いた。


その時、怜綾がふとある記述に目を留めた。


 『万呪を司りし者、其の名を問えば“烏瓏”なり。生を持ちながら、死を超えし術を極めし者。姿を定めず、時を定めず、現世と幽世の狭間にて歩む。』


「……生きている、のか?」


怜綾の声は、驚きと疑念に揺れていた。


続く頁には、さらにこう記されていた。


 『最初に冥月之書を記したる者、同じく烏瓏なり。だが現存する写しの書は、真なる書にあらず。真はただひとつ――“烏瓏が持ち歩く書”にして、彼女の存在と共に彷徨う。』


「じゃあ……」


茗渓が息を呑む。


「本物の冥月之書は……烏瓏と共に在る、ってこと?」


「そういうことだな」


怜綾は顔をしかめながら、本の頁を閉じた。

その紙の端は黄ばみ、触れるだけで崩れそうだった。


「この筆記が書かれたのは……少なくとも、数十年前。いや、百年近いかもしれない」


「え……それじゃあ、もし生きてるとしても……」


「老婆だ」


怜綾は苦く笑った。


「姿も、居場所も、全て不明。“神出鬼没”。まるで……幽霊のような陰陽師だな」


沈黙が二人を包む。

その中で、茗渓はぽつりと呟いた。


「でも、生きているなら、会えるかもしれない。烏瓏に」


怜綾は、しばらくその言葉をかみしめるように黙っていた。

やがて、彼は静かに口を開いた。


「……ああ。どんなに微かな可能性でも、それが俺の呪いを解く唯一の糸口なら、掴みにいく価値はある」


そう言って怜綾は、しっかりと筆記を抱え直した。


「必ず、見つけ出す。――烏瓏を」


蒼陰宮の奥、呪詛と知識が眠る書苑の中で、ふたりの心には新たな決意が芽生えていた。


埃をかぶった古書の山に囲まれながら、茗渓は重たい革張りの一冊を丁寧に開いた。紙は焼け焦げたように茶色く、端は破れ、糸綴じの間から虫食いの跡が覗く。


「……これ、“封印術の系譜”?」


「いや……“忘れられた印章譜”。見ろ、ここ……」


怜綾が指さしたページには、異様な図案が描かれていた。月を模したような円形に、そこから伸びる曲線――それは、まるで蛇のように蠢く線が、円を巻きつけているようだった。


「これは……?」


「“月影蛇ノ印”とある。……見たことはないけど、どこかで……聞いたような……」


茗渓が呟いたその時だった。

紙面に刻まれた墨が、微かに揺れたように見えた。見間違いではない。燭の光がちらついたわけでも、風が吹いたわけでもない。墨が――動いた。


怜綾が素早くページに手を伸ばし、文章を指で追うように読む。


「――月影蛇の印、これはかつて“瓏”の名を戴く女陰陽師が遺した印章なり。

その文を封ずれば、誰人にも触れ得ず。解を知る者の霊気のみに応じて、印は開かれん」


「瓏……!」


「烏瓏のことか……?」


茗渓は思わず声を上げた。

その名は、麗妃が口にしていたあの名。冥月之書を書いたという伝説の女陰陽師。


怜綾はさらに読み進めた。記述は続く。


「月影蛇の印を最後に用いたは、十七年前。後宮西方、風裂の廃寺にて、封文一通あり。

その後の所在は不明とされるが――今なお、女は生きているやもしれぬと、密かに語り継がれる」


――ギィ……ッ。


何かが軋むような音が、昏理書苑の奥から微かに響いた。


「……!」


二人の背筋に冷たいものが走る。


「誰か来た……?」


怜綾が周囲を鋭く見回す。茗渓も咄嗟に立ち上がろうとするが、足元に置いた文献につまずきかけ、思わずよろけた。


「茗渓、こっちだ」


怜綾が手を伸ばし、彼女の腰を素早く引き寄せる。

ぐいと引かれた瞬間、茗渓の体は怜綾の胸元にぶつかるように収まった。


「えっ、ちょ、ちょっと……」


「声を……抑えろ」


そしてそのまま、机の下へ――

二人は身をかがめ、薄暗く狭い空間に身を潜める。


目の前には、怜綾の喉元。茗渓の手が彼の胸のあたりに触れ、互いの呼吸が肌にかかる距離。


(ち、近い……!)


ほんの少しでも顔を傾ければ、唇が――


「っ……」


茗渓は咄嗟に顔を逸らす。

しかし遅かった。怜綾もこちらに顔を向けていたのだ。


お互いの額が軽くぶつかり、ふたりの視線が、ほんの数センチの距離で交錯した。

茗渓の頬に怜綾の髪がふわりと触れ、彼女は小さく身を縮める。


(だ、だめ……これは心臓に悪すぎる……!)


と、その時だった。


茗渓がびくりと肩を震わせる。怜綾が、咄嗟に彼女の腰を抱き寄せたまま、その手に力を込める。机の下、二人は動けないまま固まった。


やがて、かつり、かつりと音が響く。高い踵の音――女の足音だった。


(まさか……)


机の下から、わずかに見えるその裾は、薄墨色に金糸を織り込んだ上衣。見間違えるはずがない。


(高妃……!?)


茗渓は思わず怜綾を見上げる。彼もまた、真剣な面持ちで外の気配を窺っていた。


「……冥月之書は、やはり偽物だったのね……」


高妃の声は、冷たくも焦燥を含んでいた。


「雨魘のあの呪いでは、怜綾……あやつが再び姿を取り戻す日が来るやもしれぬ。その前に、本物の冥月之書を手に入れねば……」


かすかに唇を噛むような気配。そして、書棚を数冊ほどめくる音。


(――本物の冥月之書……やっぱり、別にある!?)


茗渓の頭の中を、焦燥と恐怖と、そして奇妙な確信が駆け巡った。


怜綾の手が彼女の背をそっと抑える。大丈夫、という静かな圧だ。


外では再び、足音が響いた。やがて、扉が閉まる音――そして静寂。


数秒の沈黙ののち、怜綾がそっと耳打ちするように囁いた。


「……行った」


茗渓は思わず力が抜け、くたりとその場に座り込む。


「び、びっくりしたぁ……!」


怜綾は微笑を見せるものの、その目は鋭く、遠くの何かを見ていた。


「……高妃も“本物”を探している。となると、俺たちが手に入れたこの手がかり――“風裂の廃寺”は、やはり本物へと繋がる鍵だ」


茗渓は、まだ火照る頬に手をあてながらも、心を落ち着けようと小さく頷いた。


(この距離は……危ない)


さっきの息遣いも、手の温もりも、心に焼き付いていた。


けれどそれ以上に――

呪いを解く鍵に、今まさに近づいている。そんな予感が、二人の胸の中に灯っていた。

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