冷宮ライフは黒猫とともに
掃除に明け暮れた二日が過ぎ、怜花宮は何とか人の住める場所へと生まれ変わった。
埃を払った寝台、虫の死骸を片付けた机、がたついた棚。どれも完璧には程遠いが、茗渓にとっては自分の「お城」だった。
だが、夜になるとどこからともなく響く小さな鳴き声が、彼女の心をざわつかせていた。
「……また聞こえた。絶対、何かいるよね……?」
耳をすませて音のする方へ向かうと、廃れた別棟の瓦礫の隙間に、もぞもぞと動く影があった。
「いたっ……!」
瓦礫を慎重にどけ、ようやく取り出したのは、真っ黒な毛並みの――猫だった。
「ひどい……足、怪我してる」
小さな体は泥まみれで、瞳には警戒の色が浮かんでいた。近づこうとすると、かすれた声で威嚇される。
「ごめんごめん、でも……ほっとけないよ」
茗渓はそっと抱き上げ、寝台の上に寝かせた。毛布をかけ、ぬるま湯を用意し、傷を洗い流す。
「貴方、一体どこから迷い込んできたの?」
手当てをしながら、首元に小さな飾りを見つける。
「……名前、書いてある……“怜綾”?」
彼女は優しく微笑んだ。
「怜綾。貴方は怜綾っていうのね。うん、綺麗な名前だよ。私はみら……じゃなくて、茗渓。これからよろしくね」
猫はぴくりと耳を動かしたが、答えるわけもない。
「貴方はひとり?……寂しかったんだね。大丈夫、私も今、絶賛ひとりぼっち仲間だから」
(……よく喋るやつだな。静かにしてくれないか)
怜綾の心の声は当然、茗渓には届かない。
翌朝、茗渓は食事を取りに使いの者を待ったが、誰一人として訪れなかった。ようやくやってきた下女に尋ねると、冷宮への食の配給は日に一度の粗粥のみだと告げられる。
「えええ!? それって猫にもないってこと!?
生きる気あるの!? この世界!」
慌てて怜花宮の庭へ飛び出し、荒れ果てた土地を見つめる。
「……よし。畑にしよう!」
すぐに作業に取りかかる茗渓。現代のガーデニング動画で得た知識と、前世で実家の畑を手伝っていた経験が、思いがけず役立った。
(畑づくりを始めようとする茗渓と、それを見ている怜綾)
怜花宮の荒れ果てた庭で、茗渓は竹ぼうきを鍬代わりに土を掘り起こしていた。
どこからか拾ってきた壊れかけの桶と箒、そして何よりその笑顔だけが、彼女の武器だ。
「よーし! 畑にしてやるわよ、この庭っ!」
ぱん、と両手を打って気合を入れる茗渓の隣で、黒猫の怜綾が尻尾を揺らしていた。
「いい? 衣・食・住は生きてく上で最優先事項なの。特に食! 人は空腹じゃ笑えないのよ!」
その言葉に怜綾は内心で呆れたように鼻を鳴らす。
(……こいつ、本当に妃なのか?)
茗渓の額には土と汗が混ざり、袖は泥で真っ黒だ。
どこからどう見ても、宮廷の妃というより、畑仕事が日課の農家の娘にしか見えない。
(変な女だ……。)
一方、茗渓はそんな猫の視線も気にせず、鍬もない手で一心不乱に地面を掘り返している。
「……よし、ここはトマト。ここにはニラ! あとニンジンに……あ! キュウリも欲しいかも!」
「にゃあ……(バカじゃないのか、お前)」とでも言いたげな怜綾の声が響くが、茗渓は気にしない。
「ふふっ、いいでしょ? 冷宮で畑作ってる妃なんて、前代未聞よ! でもさぁ……寵愛とか、もうどうでもいいし!」
茗渓はふと手を止め、空を見上げる。
「だって、寵愛を受けたところで、待ってるのは嫉妬と陰謀、そして処刑よ? 『麗妃の寵愛絵巻』のページ、何度もそういう修羅場あったもん……!」
ぽつりと呟き、ふっと笑う。
「だったら……ここで呑気に暮らしてる方が、よっぽど幸せじゃない? 猫もいるし、畑もできるし。……冷宮ライフ、悪くないかも。」
怜綾はその横顔を見つめながら、ふと、心の奥で何かが揺れた。
(この女……何者なんだ……)
日が落ちかけたころ、庭の隅で育てた苗に水をやっていた茗渓は、ふと妙な風の流れに気づいた。
倒れたままの塀の向こう、崩れた石壁の影から、かすかに空気が流れてきている。
「……ん? 風?」
好奇心を抑えられず、鍬を放り出してその隙間に手を伸ばす。
すると――がらり、と音を立てて、崩れかけた壁の奥から、小さな扉が現れた。
「なにこれ……裏門?」
錆びついた扉は今にも壊れそうだが、鍵はかかっていない。
ぐっと力を入れると、軋む音を立てて扉が開いた。
「うそ……外に、繋がってる……!」
見下ろせば、そこには鬱蒼とした竹林。どうやら、後宮の外壁の裏手に通じているらしい。
宮中にいた頃、好きな恋愛ドラマではこういう場面から大事件が始まるのが常だった。
――でも。
「行くしかないでしょ、これは!」
屋敷の奥で寝転がっていた怜綾が顔を上げる。
「怜綾! 私、行ってくるわ! 服も欲しいし、野菜の苗も欲しいし、なにより……」
茗渓はそっと猫の額に触れ、微笑んだ。
「貴方の薬も、手に入れないとね。」
怜綾の瞳が一瞬だけ揺れる。
人間の言葉がわかるはずがない、けれど――その手の温かさに、わずかに警戒が和らいだような気がした。
「待っててね。今度は……ちゃんとごはんも買ってくるから!」
その言葉を背に、茗渓はすっかり色褪せた下着姿の上に黒ずんだ外套を羽織り、竹林の奥へと足を踏み出した。
町での買い物を終えた茗渓は、大きな包みを抱えて裏門から怜花宮に戻ってきた。くたびれた体に鞭を打ち、台所の残骸を使ってスープを煮る。
「怜綾、お待たせ〜。薬も手に入ったし、新鮮なお野菜もあるわよ!」
怜綾は、戻ってきた茗渓の姿を見てほんの一瞬だけ尻尾を揺らした。
その様子を見て、茗渓はにんまり。
「ほら、薬……ちょっとしみるかもだけど我慢してね?」
傷に塗る薬を指先にとり、そっと毛並みをかき分けて塗り込む。怜綾は低く唸ったが、噛んだり引っかいたりはしなかった。
「よしよし、頑張ったねぇ〜……。あんた、ほんとに猫? この落ち着き、人間の貴族でもなかなかいないわよ?」
薬を塗り終えると、茗渓は煮込んだ野菜スープに小さくちぎった肉を加え、怜綾用の器に分けて差し出す。
「さ、召し上がれ。あ、猫ってスープ食べるのかな……? まぁ、なんでも食べなきゃね」
怜綾は静かに器に鼻を近づけると、一口だけスープを舐めた。
その様子に、茗渓は思わず感動したように拍手をする。
「えらい! 食べた! もうあなた、私とこの冷宮で立派にやっていけるわね!」
***
夜も更けて、空には星が瞬いている。怜花宮の屋根はところどころ抜けており、そこから見える夜空はどこか幻想的だった。
「さーて、寝る準備しなきゃね」
敷物と布団を買ってきた茗渓は、それらを丁寧に広げながら、もう一組の布でふわふわの猫用ベッドを作りはじめる。
「怜綾の寝床、完成! ここでぬくぬく寝てね」
が――その時。
茗渓が振り返ると、怜綾は当然のような顔で、自分の寝床のど真ん中に座り込んでいた。
「……え? そこ、私の寝床なんだけど」
怜綾は全く動く気配を見せない。むしろ毛繕いを始める始末。
「ちょ、え? そこがいいの? でも、でもそこ私の……」
肩を落とした茗渓は、布団の端に腰を下ろし、しばらく猫とにらめっこしていたが――
「……ま、いっか。どうせここに誰も来ないし……猫だもんね。でも、でも! 一応言っとくけど、あなた雄猫でしょ!? 未婚の男女が同じ床で寝るなんて、ご法度なんだからね!?」
そんな必死な言い訳をしながら、茗渓は自分の荷物の包みを枕代わりにして、床にごろんと横たわった。
「……ふぅ、ほんと変な猫。でも、まぁ……悪くないかな。ふふっ」
その横で、茗渓の寝床を占領した怜綾はじっと彼女の寝顔を見ていた。
ぽつ、と。
(……こんな人間、初めてだ)
冷たさに慣れた己の心に、微かに差すあたたかい灯のようなもの。
それが、何なのかはまだわからない。
けれどこの夜から、怜綾の中の何かが、確かに変わり始めていた。