怜綾の許嫁
あたたかな灯籠の光が、障子の影を淡く揺らす。
卓上には食べかけの菓子が一つ残され、茗渓はそれに手を伸ばすことなく、じっと麗妃を見つめていた。
麗妃は湯呑にそっと指を添え、静かに問いかけた。
「……昔の話なのですが、聞いていただけますか?」
その声音は、淡く、どこか哀しみを含んでいた。
「もちろん、喜んでお聞きします」
茗渓がうなずくと、麗妃はわずかに瞳を細め、語りはじめた。
「この後宮には誰もが存在を忘れていて、その名を口にすることさえも許されない第三皇子がいるのです。彼の名前は怜綾。その怜綾様と私は……かつて“許嫁”の関係にございました」
その言葉を聞いた瞬間、茗渓の胸がぎゅっと締めつけられた。
(……許嫁……?)
どうしてだろう。鼓動が妙に早くなっている。
胸の奥で、得体の知れない何かがざわめいていた。
「彼はとても賢い子で、優しくて、真っ直ぐで……私にとっては、かわいい弟のような存在でした」
麗妃の声が、どこか懐かしむように揺れる。
「よく一緒に遊びました。私のことを“姉様”と呼び、心から尊敬してくれていて……今でも、あの瞳の輝きを忘れられません」
微笑むようで、切なげなその表情に、茗渓の心はじわじわと締めつけられていく。
「でも、そんな日々は長くは続きませんでした。怜妃様が、高妃様に毒を盛ったという罪で冷宮に送られてから……怜綾様とは、二度と会うことが叶いませんでした」
茗渓の指が、膝の上でぎゅっと握られる。
「それから十年後、彼は立派な青年になっていました。先帝は、その賢さと品格を見込んで、彼を皇太子候補に――だから、怜綾様は再び宮殿に呼び戻されたのです」
(……怜綾が、皇太子に……?)
「けれど、悲劇はその後でした」
静かに、しかし確かな重みをもって麗妃は続ける。
「怜綾様が冷宮へ戻ると……怜妃様は、首をくくって自害していたのです。冷たい寝台の上で、誰にも看取られずに……」
風も、虫の音も、すべてが遠のいていく。
「その後、怜綾様も姿を消されました。誰も、彼の行方を知らぬまま……今でも、生きておられるのかどうか」
茗渓は、手元で指をぎゅっと絡めていた。
「今では、怜綾という名前すら、後宮では口にしてはならぬ禁忌となっております。まるで……彼が、もともといなかったかのように」
「…………」
「でも、私は……今でも信じているのです。彼が、どこかで生きていると」
その瞳は、かすかに揺れながらも、まっすぐだった。
*
茗渓の胸は、まだざわついていた。
怜綾が……許嫁だった?
彼が、麗妃と? そんな深い過去を――そんな痛みを、抱えていたなんて?
自分は、何も知らなかった。ただの猫として、甘えて、笑って、怒って……
(どうして、こんなにも……苦しいの)
鼓動が騒ぐ。
誰かの悲しみに共鳴しているだけじゃない。
それは、もっと近くて、もっと深くて、もっと自分自身に突き刺さる感情だった。
「……麗妃様、大切なお話を……ありがとうございます」
そう絞り出すように言った自分の声が、かすかに震えていることに、茗渓は気づいていた。
麗妃は、そっと微笑んだ。
「ふふ……話してよかった。あなたなら、きっと……この話を、大事にしてくださると思って」
茗渓は何も言えず、ただ静かにうなずいた。




