悪妃、絶体絶命!?
玉座の間は静寂に包まれていた。
床に敷かれた紅絨毯の上に、濡れた髪を乾かす暇もなく、茗渓はひざまずいていた。
御簾の奥に座するのは、皇帝・怜瑾――帝の威厳を纏いながらも、茗渓にはなぜかひどく冷たく映る。
「……蘭妃。お主が麗妃を泉に落としたという証言がある」
怜瑾の声は、澄んでいながらも容赦がなかった。
「そ、それは誤解でございます! 私が見つけたとき、麗妃様はすでに――」
「証拠もない。言い訳をすれば無罪になると、そう思っているのか?」
声の温度が一段と下がった。
茗渓は唇を噛む。
(ちょっと待って、え……この人、ほんとに“主人公”なの……?)
脳裏に浮かぶのは、これまで読んできた物語の中の、冷静で理知的な皇帝・怜瑾像。
(もっと道理通じるタイプじゃなかったっけ!?まさかの短気。全然イメージと違うんだけど……)
「麗妃を傷つけた罪は重い。後宮の秩序を乱す者として――」
帝が処罰を口にしかけた、そのときだった。
「――お待ちくださいませ、殿下」
澄んだ声が玉座の間に響いた。
振り返れば、扇のように開いた紫の衣を翻し、優雅に現れたのは――麗妃。
「麗妃……」
怜瑾が目を細めた。麗妃は一礼し、静かに言葉を紡ぐ。
「どうかこの事件を、もう一度お調べいただけませんか?」
「……何を言う。そなたは、蘭妃に落とされたのだと――」
「いいえ、殿下。それは誤りです」
麗妃の眼差しは真っ直ぐだった。
いつもは柔らかく微笑む彼女の、芯の強さが垣間見える。
「私を泉に突き落としたのは、蘭妃様ではありません。
私は突然背中を押され、気づけば水の中でした。誰も気づかず、泳げない私は沈みかけて……」
息を詰める空気の中、麗妃は茗渓を見た。
「――そのとき、助けてくださったのが蘭妃様でした」
どよめきが走った。
「さらに申し上げます。私が落ちた時、蘭妃様は泉の端、遠く離れた場所にいらっしゃいました。
また、彼女は冷宮に住まわれています。後宮にまで手が回る侍女も持たず、命じる術もありません」
「麗妃……」
怜瑾が目を伏せた。沈黙ののち、重々しく口を開く。
「……その言葉、間違いないか」
「はい。命を救われた者として、偽りを申すつもりはございません」
怜瑾は顎に手を添えて考え込む。
やがて、玉座から立ち上がり、厳かに命じた。
「――この件、再度調べ直す。蘭妃への処分は保留とする」
茗渓はその場で、崩れ落ちそうになる膝を必死に支えた。
(……助かった……)
心の中で、麗妃への深い感謝と、何より――
(あっぶな……これ、私の第二の人生ここで終わるところだった……)
密かに拳を握る。
――事件の混乱が過ぎたあと、月の光が静かに広がる後宮の回廊を、茗渓は麗妃に連れられて歩いていた。
行き先は、麗妃の住まう芙蓉宮。
その名に違わず、白と桃色の芙蓉の彫刻があちこちに施され、廊下の欄干には金糸で編まれた飾り布がたなびいている。柱には銀細工の唐草模様が巻かれ、天井には月灯りを反射する水晶の細工。
――まるで、宮殿そのものが装飾品のよう。
茗渓は思わず足を止め、呆けたように周囲を見回した。
「……これは……」
「お気に召しましたか?」
隣で微笑む麗妃の声は、どこかから香る蓮の匂いと同じように、柔らかくて上品だった。
「ええ……もう……ここだけまるで絵巻の中みたいで……」
「ふふ、芙蓉宮は先帝の御代に造られたものでして、もともとは妃の中でも特に寵を受けた者のための宮でした。今は、ありがたいことに私が使わせていただいておりますが……」
「……つまり、麗妃様のために建てられたようなものですね」
茗渓の言葉に、麗妃は目を細め、優雅に微笑んだ。
「言い過ぎですよ。けれど、そう言っていただけるのは光栄ですわ」
芙蓉宮の奥へ進むと、さらに細やかな装飾が目を引いた。壁に飾られた花の絵、調度品にあしらわれた螺鈿細工、そして香炉からは白檀の香がふんわりと立ちのぼっている。
そこは、まさしく“麗”の名に相応しい宮だった。
「お身体、冷えておられるでしょう。お着替えをお持ちいたしましょう、月華」
麗妃がそう呼びかけると、奥の障子の影から現れたのは、すらりとした若い侍女だった。
「ははっ。すぐに支度いたします」
彼女――**月華**は麗妃の傍に長く仕えていると噂の信頼厚い侍女で、その動作一つ取っても無駄がなく、品があった。
「茗渓様、お召し物はこちらに。お湯もすぐに手配いたしますので」
「……ありがとう、ございます。なんだか……いろいろと、恐縮です」
「何をおっしゃいますの。貴女がいてくださらなければ、私は……泉の底に沈んだままでしたもの」
麗妃はふと、茗渓の手を取り、その指先をそっと包んだ。
「どうか、気を張らず……今はご自分の身体をお労りくださいね」
その声は、泉の底から差す光のように優しくて、茗渓の胸の奥にすっと染み込んでいった。




