蓮宴
蓮花が水面にゆらゆらと揺れ、夏の余韻を残す風が涼やかに吹き抜ける。後宮の奥深く、蓮の泉の中央に浮かぶ碧蓮亭。
今日は年に一度の華やかな妃の集い――蓮宴が開かれていた。
蓮を象った扇、花びらを模した菓子、繊細な香の焚かれた楼閣には、帝の寵を競う妃たちが一堂に会していた。
「……え、本当に来ちゃった。あれ、私って冷宮の妃じゃなかったっけ?」
茗渓は着飾った自分を見下ろし、半ば呆れたように息を吐いた。
今日の彼女は、青磁色の薄衣に蓮の刺繍が淡く光る柔絹の装い。髪は丁寧に結い上げられ、小さな簪がひとつ、陽の光を受けてきらりと揺れていた。
(麗妃に招かれたって言っても……あの紫煙の宴で、絶対変な噂立ったはずなんだけどな)
そんな不安を抱えつつ、碧蓮亭へと歩を進めると――
「蘭妃様、どうぞこちらへ」
凛とした声が風に乗った。
振り返ると、蓮の花に囲まれるように立つのは、ひときわ眩い美貌をたたえる女――麗妃であった。
(……相変わらず、この人……綺麗すぎるでしょ……)
紫煙の宴で一度出会った麗妃の姿が、脳裏に焼きついて離れなかった。涼やかな黒髪、白磁のような肌、そして静かな湖面のような眼差し。そのどれもが、物語の中の“理想の妃”を超えている。
「紫煙の宴では、お話しする機会もありませんでしたから」
麗妃はそう言い、にこりと笑んだ。
「皇太后もいらっしゃったから、話しかけにくかったでしょう?」
「え、は……はい、まあ……」
茗渓は思わずたじろぎながら、礼を取る。
麗妃はその様子にくすりと笑い、扇子をそっと口元に添える。
「今日は、ぜひゆっくりなさってください。冷宮におられては、話す相手も少ないでしょう?」
その言葉に、茗渓は一瞬たじろいだが、すぐに小さく頷いた。
(この人、優しいのか、それとも……)
しかし、そのやり取りを遠くから睨みつけていた者がいる。――趙妃だった。
「ふん、冷宮の妃が、蓮宴とは……麗妃様も、ずいぶんお優しいことで」
ぴしゃりとした声が響き、空気が一瞬で冷えた。
(えっ、なにその敵意!?)
茗渓は思わず身をすくめ、内心で悲鳴を上げる。
(この人、紫煙の宴の時よりさらにヤバさ増してるよ!?もうこの人に悪妃のポジション、譲ってもいいのでは??)
しかし、麗妃はまったく動じず、扇子を静かに畳んでから言った。
「趙妃様、妃たる者、和を尊ぶのが務めでは?」
言葉は柔らかいが、凍てつくような気配が含まれていた。趙妃は舌打ちするように視線を外す。
そして、宴は再び静かに進行していった。
香茶が振る舞われ、妃たちの笑い声が波のように広がる中――
「―ー麗妃様が、泉に……!」
侍女の叫びが空気を裂いた。
驚いて振り向いた先、縁から麗妃の姿が消えていた。
「誰か!お救いして!」
「……っ、ええい、今よ!!」
茗渓は反射的に裾をたくし上げ、そのまま泉に身を投げた。
迷うことなく、茗渓は泉に飛び込んだ。冷たい水が瞬時に肌を刺す。
揺れる水草の間に、衣を翻して沈む麗妃の姿が見えた。
(間に合って……!)
茗渓は力強く泳ぎ、麗妃を腕に抱えて水面へと浮かび上がった。
重たげな体を支えて、泉の縁へと必死に運ぶ。
「麗妃様! しっかりしてください……!」
侍女たちが駆け寄り、麗妃は苦しげに咳をして、薄く瞼を開けた。
「麗妃様、大丈夫ですか!?目を、目を開けて!」
麗妃は微かに咳き込み、重たげにまぶたを開いた。
「………あなたが……助けて、くれたのね……」
「え、あ……!あ、はい!」
侍女たちが慌てて駆け寄る。
ずぶ濡れのまま抱き起こされた麗妃は、しかし微笑みを湛えたまま、濡れた頬を拭っていた。
微笑む麗妃。まるで舞台の幕間のように、安堵と静けさが戻る――かに見えた、そのときだった。
「麗妃様を突き落としたのは……蘭妃様です!」
突如、誰かが叫んだ。
「は……?」
呆然とした茗渓の耳に、その声はまるで別の世界の音のように響いた。
「この目で見ました。蘭妃様が、麗妃様の背を……!」
叫んだのは、趙妃の側仕えである侍女――蘭音。
妃たちの視線が一斉に茗渓へと向く。
「な、何を……!?私は、助けただけで……!」
動揺する茗渓に、趙妃が歩み寄る。
その口元には、薄く冷笑が浮かんでいた。
「まあ、なんということでしょう……冷宮にいた妃が、麗妃様に嫉妬して?」
「違います、私じゃ……!」
「お静まりを――!」
威厳ある声が割り込んだ。高妃である。
静かに茗渓を見つめ、扇子をゆっくり閉じる。
「この場で真偽を問うのは、相応しくありません。――蘭妃は、本殿へ連行なさい」
「待ってください、高妃様!」
麗妃が声を上げようとしたが、その身体はまだ濡れた衣に力を奪われていた。
茗渓は力なく、護衛たちに取り囲まれて立ち尽くす。
(どうして……私が……)
妃たちのざわめきが遠くなる。
水に濡れた衣が、茗渓の体から冷たく張りつき、泉から上がったはずなのに、心は今も沈み続けていた。
瓦の上、濡れた黒猫が尾を立てて佇んでいた。
その双眸は鋭く、楼閣の中を静かに見下ろしている。
(……見たぞ。あの侍女、あの手の角度は……突いたんじゃない、押したんだ)
怜綾は確信していた。
茗渓が麗妃を突き落とすような人間ではない。だが、証拠はない。
(まさか……趙妃の差し金か)
猫の背に、風が冷たく吹き抜けた。
空を裂くように、静かなる怒りが猫の目に灯っていた。




